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1-4. 知っているのに、知らない人たち

春の空気が、肌に少しだけ刺さるようになっていた。大学の構内には、新入生らしき学生たちがそれぞれのペースで歩いていて、その多くがまだ知らない顔ばかりだった。だが、晴翔の目には違って見えていた。どこかで見たことのある横顔、歩き方、声の抑揚。目の前を通り過ぎていく誰かが、かつての“知っていた誰か”と重なるたびに、胸の奥で何かがきしんだ。


講義棟の中庭には、学生たちのざわめきが渦を巻いていた。サークルの勧誘、履修相談、掲示板の確認、初めて同士のぎこちない会話。すべてが、以前にも見た光景だった。正確には、“これから体験するはずだった日々”の記憶が、彼の中には確かにあった。三年前の春——2022年の大学生活の始まり。今、彼はその時間を再び生きている。記憶にある通りの風景が、音が、匂いが、すべて現実として目の前に広がっている。ただし、彼の心だけが、別の時間から来た者のように浮いていた。


芝生の広場の向こうから、男子学生が歩いてくる。黒髪にくせ毛、ジャージの上に半袖シャツ、肩からぶら下げたリュックは型崩れしている。名前を呼ばずとも、彼が誰かを晴翔は知っていた。大迫恭介。かつて、最も多くの時間を共に過ごした友人だった。くだらないことで笑い、夜中にラーメンを食べに行き、就活の愚痴を語り合った相手。その顔が、今は“まったくの他人”として歩いている。晴翔の存在など知らないまま。


歩幅が近づいてくる。自然なふりをして目を逸らした。恭介はスマホを見ながら通り過ぎていく。少し肩が触れそうになったが、お互い何も言わずにすれ違った。その背中を見送りながら、晴翔は深く息を吐いた。知っているはずの人間が、目の前にいるのに、何の接点もないという現実。自分が知っているのは、ただの“未来の彼”に過ぎない。今ここにいる彼は、自分との記憶など何ひとつ持っていない。


またひとり、視界に飛び込んできた人影がある。図書館の階段を上がる女子学生。紺色のカーディガンに、文庫本を抱えて歩く姿。風で髪が少し乱れ、右手で軽く耳にかけたその仕草。忘れるはずがなかった。牧野詩織。以前、心を通わせ、恋人となり、だが最後は静かに離れていった人間。彼女の言葉は繊細で、時に鋭く、晴翔にとっては日々が詩のように変わっていくような日々だった。


今の詩織は、まだ誰とも言葉を交わしていないようだった。階段の途中で足を止め、足元に落ちた一枚のプリントを拾い上げている。声をかけるには十分な距離だった。資料、落としましたよ、と。それだけでいいのに、口が動かなかった。まるで彼女を“やり直しの材料”のように扱ってしまうようで、自分が嫌だった。記憶の中の詩織に、自分が勝手に背負わせてしまっているものがあることに気づいていた。


人の流れに押されて、その場から離れた。広場の隅にあるベンチに腰を下ろし、スマートフォンの画面を無意識に何度も点灯させる。誰かからの通知を期待しているわけではない。ただ、この世界に自分の存在が“今ここにある”という証を何かしらで確認したかった。


ふと、別の名前が脳裏に浮かんだ。木島琴美。あの時間では、ゼミ仲間として関わり、後にSNSで起業し、一時は大きく成功した女性だった。強気で、計画的で、周囲から一歩引いた視点を持っていた。今、どこかにいるはずだが、まだ再会していない。彼女に今会ったところで、またすべてが“初対面”だ。記憶を持っているのは、自分だけ。そう思うたびに、世界にぽつんと一人だけ取り残されたような感覚が増していく。


この日だけで、かつての何人もの“知っていた誰か”とすれ違った。だが、どれも一歩を踏み出すことができなかった。記憶が邪魔をする。あるいは記憶に縛られているのかもしれない。“やり直せる”ということは、可能性の選択肢を得たというより、選択しなかったことを再び選ばされるというプレッシャーに似ていた。


夕方、講義棟の影が長く伸びるころ、晴翔は大学を出てアパートへ向かう途中、コンビニに立ち寄った。レジに並んでいるとき、後ろに並んだ学生が、誰かの名前を口にした。「透子って子、何学部だっけ?」その言葉に、心臓が跳ねた。振り返ると、まったく見覚えのない二人組の男子学生が、おにぎりと雑誌を手にして談笑している。聞き間違いかと思った。だが、確かに「透子」と言った。だがそれが誰なのかを尋ねる勇気は出なかった。


部屋に戻ると、カーテンを閉めずに机に向かった。ノートを開き、何かを書こうとする。だがペンが止まる。「名前を呼ばれる前に、声をかけてはいけない」。その言葉だけが頭に浮かび、いつかどこかで自分がそう誓ったような気がしてならなかった。記憶にあるものと、目の前にある現実とのズレが、どこまでも静かに、けれど確実に彼を揺らしていた。

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