月明かりの夜に照らされた借家の平屋建ての家の中が、静かになった。
私は読んでいた『伝記エカチェリーナ二世』を閉じて地面に置いた。玄関先に自分で並べた小石の列からひとつ石を手に取り、軽く窓にぶつけてみる。
春香が起きていれば、すぐに怒って窓を開けるだろうが、その気配もない。春香の彼氏と絡み合って、そのまま二人で眠っているのを確認した。
私の呼吸音しか聞こえない静けさに、窓にぶつかって小石が地面に落ちた音が、やけに大きく響いたように思え、心臓が跳ね回る。
私は息を殺して、玄関のすりガラスの引き戸を、ゆっくり音を立てないように、引いた。
二間の奥を見る。外から確認したとおり、裸の春香の上に重なるように、春香の彼氏が同じく裸で眠っていた。
そっと私は二人に近づく。
こたつテーブルの上はぐちゃぐちゃで物が散乱している。お酒の空き缶。灰皿とタバコの箱、ライター。春香に絡み合うときに、春香の彼氏が二人で飲むラムネみたいな形の毒々しいオレンジ色の薬。
私は学校指定の体操服短パンとパンツを脱いで裸になり、そのオレンジ色の薬をひとつ、飲み込んだ。この薬が効いてくるまでに、すべてを片付ける。
テーブルの横に春香の彼氏のフード付きのロングダウンコートが脱ぎ捨てられていた。私はそのコートを素肌の上に着てすっぽりと包まり、コートのファスナーを上まで閉める。
慎重に動け。
私は玄関収納の、春香の靴で埋め尽くされた奥に手を突っ込んで、春香のキラキラのヒールの靴の後ろから、春香の破れたストッキングを巻いて隠していた春香の彼氏の折りたたみナイフを右手に握った。
ナイフの刃の部分だけストッキングから突き出して、春香の彼氏の右側に立った。
このナイフの切れ味がどれくらいなのか、わからない。
春香の左の耳の下に、ナイフの刃をそっと当てて、思いっきり手前に引いて、春香の首を切り裂いた。
ナイフはすっぱりと春香の皮膚に入り、その切り口から噴水のように血が勢いよく飛び散る。春香は声も出せず、喉元から空気が漏れた。
春香の血しぶきが部屋中に模様を作る。私の顔にも返り血がべったりとついた。右手に持ったナイフの柄に巻いたストッキングが粘つく。私の体はコートに包まっていたから、返り血を浴びてはいない。
ストッキングを巻いたナイフの柄を、急いで春香の彼氏の右手に握らせた。
私はロングコートを脱いで春香の彼氏の背中にかける。
いつも二人が薬を飲んで絡み合ったあとは、しばらく動けない。
春香の返り血が私の顔に粘ついて気持ち悪い。
私の右手にも血が粘ついていた。
私は左手で玄関のすりガラスの引き戸を引いた。
月明かりの夜の中に、私は裸で飛び出す。靴も履かずに裸足で、エチカちゃんの家に向かう。エチカちゃんの家へ行く途中の川の道まで、夢中で駆け出していた。