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夕暮れはとても寒くて、でも家には帰れなくて、一緒に遊んでいたエチカちゃんの家に行った。
エチカちゃんの家はとても暖かい。温かいし、エチカちゃんのお母さんはとても料理が上手いし、美味しい。お味噌汁を給食以外で初めて飲んで、びっくりした。ごはんにお味噌汁がついてるなんて! それからエチカちゃんのお母さんは名前を聞いても覚えられない料理も出してくれた。
エチカちゃんのお父さんは仕事で帰ってくるのが遅くて、エチカちゃんと私と、エチカちゃんのお母さんで食べた。誰かとごはんを食べるのは、給食以外では初めてだった。給食も、班ごとで食べるけど、私の机とくっつけ合って食べる子はいない。机と机のあいだを先生が注意しないていどにすき間を作って、みんな私のほうを見ないで食べてる。
ごはんのあとはエチカちゃんとお風呂に入った。濁っていなくて、透明なお湯で、ピカピカだった。私の知っているお風呂は、ザラザラして擦ると消しゴムのかすみたいなものが浮いてる。それにお湯ってあったかい。水の中に頭まで沈められるのがお風呂だと思っていた。
エチカちゃんに、お風呂って何日おきに入るの? と聞いたら声を上げ笑い面白そうに
「毎日だよ」
と答えてくれた。私は続けてエチカちゃんに、ごはんって一日に何回食べるの? と尋ねると、きょとんとした顔になり
「三回だよ」
と教えてくれた。
普通の家の子は、一日一回お風呂に入る、一日三回ごはんが食べられる、食べたあとは歯磨きをするらしい。知らなかった。私は驚いて声を張りあげた。
エチカちゃんの家は毎日あったかいお風呂があって、一日三回もおかずとお味噌汁のついたごはんがたべられるの? それなら臭くないし、お腹すいてお水を飲むこともなくて、いいなぁ……。
エチカちゃんのお母さんが、私の目線に合わせて床に膝をついて、眉をぎゅっと寄せて苦しげな顔をした。
おなかがすいたらいつでもうちに来ていいのよ、と涙を流しながら私を抱きしめた。
大人に抱きしめられるときは、春香の彼氏に胸やおしりを触られるときだけだったから、もしかしてエチカちゃんのお母さんも、そんなことをしてくるのかと私は体に力を入れて硬くなっていたら、エチカちゃんのお母さんは、優しい手で私の髪を撫でただけで、体を離してくれた。
どうしてエチカちゃんのお母さんが涙を流しているのだろう、どこか痛いのかな。
春香は私が『お母さん』と呼ぶのが嫌いらしい。みんなと同じように『お母さん』と呼んだ時に、鼓膜を破るほどの力で私の頬を殴った。それ以来、私はプールの中でみんなの話し声をきいているような、遮断されている世界にいる。
私は、春香が何を言いたいのかちゃんと聞こえない。他の人の言葉もわからない。
ただエチカちゃんの声と言葉だけが、はっきりと私の世界にまっすぐ届いた。
エチカちゃんのお母さんが、家まで送っていこうか? と言ってくれたけど、春香は私が誰かと一緒にいるところを見ると、夜中に突然、怒り出し殴りつけてくるから、私は、エチカちゃんのお母さんに、首を振り断った。
一人で帰る道が今夜は、月明かりが足元を青白く照らしていた。
エチカちゃんの家からそんなに離れていないから、川の道を走ればすぐだ。雑草の生えた道に『チカン注意』の看板が錆びて茶色くなっている。
せっかくあったかいお風呂に入ったのに、私は真冬でも体操服しかないから、体がどんどん冷えてくる。あったかくて幸せな気持ちが冷たくしぼんでいく。
薄汚れた半袖の、生地の擦り切れた白い体操服と短パンで、白い息を吐きながら、走る。もし春香が起きて家で待っていたら、また怒鳴られて殴られる。
そんな心配をして帰り着いたのに、春香と、最近春香と付き合いだした春香の彼氏は、まだ体を絡ませ合っていた。
こんな時に、玄関をあけると、彼氏と二人で春香が殴る。だから、そっと玄関先で時間を潰すようにしていた。
玄関の前に、川の道で拾ってきた小石を、規則的に配列していく。大き目な石を太陽に見立てる。一列に置いていく。太陽系の外まで行けるか、挑戦する。自分が探査機になった想像をしながら、どこまで行けるのかと。
ランドセルは乗れなくなった補助輪付きの自転車のかごの上に置いた。
近所の、つばさくんはもうちゃんとしたかっこいい自転車に乗っている。この前、学校から帰ってくる途中で、かっこいい自転車に乗ったつばさくんが、ニヤニヤしながら私のあとをつけてきて、自慢していた。
つばさくんは、よく私の背中を蹴ってくるから、近づかない。
私も素敵な自転車に乗っている自分を想像した。
自転車があれば遠くに行ける。春香に捕まる心配もせずに、どこか遠くに行ってしまえる。遠く、ってどこだろう。
自転車でトウキョウまで行けるかな。
つばさくんの家で飼っている大きな犬の、ハァハァした呼吸音がしたので、植え込みに隠れた。散歩だ。つばさくんの自慢は自転車だけではない。犬も自慢してる。
あの犬の荒い息遣いは、春香が連れ込んでくる彼氏が、私の体を押さえつけるときの呼吸音と同じで気持ち悪い。犬の口すら、きつく縛って止めたくなる。
もう並べる石がなくなったので、ランドセルから学校図書館で借りてきた『伝記エカチェリーナ二世』を月明かりの下で読み始めた。
春香はまったく本を読まない。それに私が借りてきた本を春香に燃やされたこともあった。だから、春香に隠れて本を読み、借りてきた本は隠しておく。
本を読まない春香みたいに、世界のすべてが彼氏でできてる大人になんてなりたくない。
私に読書を勧めてくれたのは、四年生の時の担任の女の先生だった。
卒業するまでに学校図書館の本を全部読んでみよう、と私に宿題を出した。私はやると決めた。でもその先生は体調を崩して学校に来なくなった。
それでも私は一度、自分で決めたことは投げたりしない。
漢字も覚えたし、春香が知らないこと、教えてくれないことが、たくさん書いてあったが、日常生活の仕方は学校図書には詳しく書いている本がなかった。