※※※※※
川の道まで駆け抜けた。寒中の川の中に私は身を沈め、冷たい清流でざぶざぶと返り血を浴びた顔を洗い、右手の爪も清めた。
オレンジ色の薬が効き始めたのか、ぐらりと視界が回りだす。
ここで倒れてはいけない。
月明かりが見上げた空に輝いて、小さな星はその輝きにかき消されて、見えない星に手をのばした。
ふらふらになりながら、体のどこにも血がついていないことを確かめて、私は川から上がる。濡れた体に冷たい空気が容赦なく肌を刺してくる。
私は走り出した。
エチカちゃん。エチカちゃんの声と言葉しか私の心には届かなかった。最後にエチカちゃんの声を聞きたい。
エチカちゃんの家に向かって、冷たさに感覚のなくなりはじめた素足を動かす。
うちを巻き込むな、と。そんな言葉も頭を掠める。
私はエチカちゃんの家の門の前で力尽きた。インターフォンを押せなかった。あと一歩、届かない。
倒れた私の上にハァハァと荒い呼吸音が覆いかぶさってくる。春香の彼氏が気づいて私を追ってきたのか。うっすら目を開ける。
つばさくんの自慢の大きな犬だった。気持ち悪い音。口を縛ってしまいたい。
つばさくんのお母さんがスマホを耳に当てて、何か話してる。
仰向けに倒れた私の視界に、二階のエチカちゃんの部屋の窓が開いた。続いて、玄関ドアが開き、門を開けて、誰かがこちらに来た。
私の体に毛布がかけられる。私の顔を覗き込むのは
「ルナちゃん、しっかりして!」
エチカちゃんだ。
ああ。私はやっと安心した。私の世界に届く声。
「エチカちゃん……私、自由になれた」
私を押さえつけるものを全部、片付けて、私はいま、自由だ。原因はすべて春香だったから。
私の世界にまっすぐ。聞こえるのはエチカちゃんの言葉だけ。
「ルナちゃん、わたしの名前はエチカじゃないよ、イチカだよ」
何を言ってるの?
エチカちゃんはエチカちゃんだ、イチカなんかじゃない。と、私は声に出そうとして、やめた。絶望した。
私はたった一人の名前さえ、聞こえていなかった。
片付けたほうがよかったのは、私自身だったのかもしれない。
【了】