今宵は下弦の月か。三日月とも呼べない、半月とも呼べない中途半端な白妙の物体が鉄格子をはめた天窓からほんのり見える。
電気がついていても薄暗い三畳ほどの部屋は、閉ざされた僕の心そのものだ。
もう苦しみはなくなった。苦しんで苦しんで、ついにオーバーヒートした心のエンジンは、いくらキーを回しても二度と稼働することはない。ある日から苦しみを感じなくなり、僕は毎日、淡々と起き、淡々と働き、飯を食うロボットと化したのだ。
あの日の月はどんな形だったろうか。そもそも月は出ていたのだろうか。全く記憶はない。あの時の自分は、月など眺めている余裕などなかった。僕の前には、横たわった死体と、流れ出る
脳はロボットのようになっても、あの時の重苦しい石の感触だけは忘れることができない。
「消灯―!」
一斉に電気が消える。僕は薄汚い布団へと身を横たえ、深い眠りへと堕ちていった。
僕が大好きなその手は、決して大きくはないが、爪が丸くて指が太い憧れの手だ。その手で僕を抱き上げ、「たかいたかーい」をしてくれる。僕はキャハハと全力で笑う。もちろんわざとではなく自然と声が出るのだ。
公園でサッカーもした。僕の背丈に合わせた小さめのボールで一生懸命相手をしてくれる父は、一応中学高校とサッカー部だったらしい。小回りを効かせながらドリブルをする父に追いつくのは必死だが、手加減もしてくれるので、僕は父から何度もボールを奪うことができた。その度に、あちゃー、裕人(ひろと)は上手だなぁ。将来はサッカー選手かなぁ。なんていちいち褒めてくれた。
父と僕は暇さえあれば、遊んでいた。家の中で鬼ごっこをして走り回り、よく母に怒られていた。父はまるで僕と同じ六歳の少年だった。
無機質に運ばれてくる木片を手にとり僕は部品を組み立てる。手作りの木工用品を作成する単調作業の繰り返しだ。僕は今になって思う。どんな残酷な殺人犯も放火犯も、強盗も、産まれた時は可愛い赤ちゃんで、ママを必死に愛していたはずだ。そして可愛らしい幼児時代を送っていたはずなのだ。それがどこで道を踏み外してしまうのだろうか。ほんの少し、斜めに曲がってしまい、ハンドルを切り返そうとしたがうまくいかず、また余計斜めに曲がってしまう。そんな事を繰り返していくうちに、二度と後戻りできないコースへと足を踏み込んでしまう。
誰かが正しいハンドル操作を教えてくれていたら。誰かが「こっちだよ!」と呼んでくれていたら。
今更何を思っても現実は変わらない。
小学生になった
こんな出来事があった。同じクラスに
当然、僕が黙っているはずなどない。
「未波ちゃんのことを悪く言うのはやめなよ!」
「なんだー。裕人は元橋の事好きなのかぁ?」
「ああ、そうだよ!」
好きの意味もわからずに僕はそう答える。するとそれを聞いた男子たちはお祭り騒ぎだ。
「みんなー愛の告白ですよ! 鈴木裕人クンは元橋未波さんが好きなのだそうです!」
「ラブラブ」「よっ、熱いねお二人さん‼」
フザけた男子たちが黒板に相合傘を描き始める。あとは下手くそな絵で二人がチュウをしている絵を描いたり……。そこへ先生が現れる。
「あなたたち何しているの⁉ 黒板の落書きを今すぐ消しなさい!」
その時は先生の登場で騒動は収まった。でも僕はちっとも恥ずかしくなんてなかった。自分が未波ちゃんを守らなければ……‼ その事しか頭になかったのだ。
そんな未波ちゃんとは、帰り道が途中まで一緒だったので、帰宅途中の古びた神社によく足を運んだ。未波ちゃんは口数の少ない子だったけど、ぱっちりした二重瞼に整った鼻と口。火傷の痕が目立つが、将来は女優さんでもモデルさんでもなれそうな美人だった。と僕は思う。
神社には大きなイチョウの木があり、秋になるとキレイな黄色い葉がたくさん舞った。僕たちはよくその木の下でたわいもない話をした。
「銀杏って食べると美味しいらしいよ」
僕がそう言いながら、土の上に落ちている銀杏を拾うと未波ちゃんが嫌な顔をした。
「それ……臭くない?」
確かに銀杏は潰れると異臭を放つ。
「どうやって食べるの?」
「茶碗蒸しに入れるらしいよ」
僕は未波ちゃんと話す時に父や母といった単語を出さないように気を付けていた。彼女は虐待により親と引き裂かれ、現在は児童養護施設で暮らしている。
「茶碗蒸しって……食べたことないや」
「そうなんだ。まぁ子ども向けのメニューじゃないよね。給食にも出ないし」
僕たちはお互いに深入りせず、給食のメニューについてや動物の話。虫の話。宿題についてなどの話をしていた。そして最後に小さな祠に手を合わせてそれぞれ帰宅した。
一度だけ、未波ちゃんを僕の家に呼んだことがある。
母が商店街の福引で黒毛和牛一キロを当てたので、すき焼きをしようという話になったのだ。
「浩人、一キロも食べきれないから誰かお友達を呼んだら?」
母にそう言われて迷ったが、単純に未波ちゃんに美味しいお肉を食べて欲しかったので、彼女を誘うことにした。僕は予め、未波ちゃんの火傷の事を両親に伝えておいたが、それでもあの時彼女の顔を見て、父も母も何かよからぬものを感じとったに違いない。最もこの時僕はまだ小学校三年生で、「どうして火傷の痕があるのか」についてまでは理解しようとしていなかった。ただ、未波ちゃんには父親も母親もいないということだけを気にかけていたのだ。
「ゆっくりしていってね」
「ああそうだ。たくさんお肉を食べていってくれよ」
最初は緊張していた未波ちゃんも、父と母の優しい言葉に次第に表情が緩んでいった。すき焼きをお腹いっぱい食べた後、父は好物のオレンジの皮を剥き始め、上手に果肉の部分のみを取り出して、未波ちゃんにも食べるように勧めた。大柄な体格からは想像できないが、意外と肉よりフルーツが好きという何とも可愛らしい父。
食事の後は四人でトランプや黒ひげ危機一髪を楽しんでいるとあっという間に時間が過ぎた。
「未波ちゃん。また家に遊びに来てね!」
「ああ、そうだ。いつでも来たらいいよ」
ニコニコしている父と母に見送られ、僕と未波ちゃんは家を出た。家の門を出たところで未波ちゃんは今まで見たことがないような優しい表情をしていた。
「ありがとう。楽しかった」
「また、いつでも遊びに来てね」
「私もあんなお父さんとお母さんが欲しかったな……」
最後のセリフに何と返事をしていいかわからなかったが、その後、彼女との急な別れが訪れる。
翌日、テレビのニュースを見て驚いた。未波ちゃんが現在住んでいる児童養護施設が画面に映り、メガネをかけたおばさんの写真が出て来た。
「社会福祉法人○○園にて、児童虐待の事実が浮き彫りになりました」
朝の情報番組で次々と世間のニュースが取り上げられている中で、僕には難しくて何を言っているのかわからなかったけど、隣の父が怪訝な顔をしていたのはよく覚えている。
「児童養護施設の園長が児童を虐待か……。全く困った話だ。この園って確かこの辺にあったんじゃなかったか?」
僕は父に、未波ちゃんがどこに住んでいるのかまでは伝えていなかった。同じクラスメイトで顔に火傷の痕がある。という事だけだ。
彼女がこの家に来た際も、どこに住んでいるのかという質問に、彼女は町名を答えたのみだった。なので、父も母もまさか未波ちゃんがこの児童養護施設に住んでいるとまでは思っていない。
その日から未波ちゃんは学校へ来なくなった。後々、先生から事情があり引っ越したとの旨を伝えられただけだ。心にぽっかり大きな穴が開いたようだった。最後に別れた際の彼女の表情は今でも覚えている。
日曜日は父と一緒によくボランティア活動に参加した。父は介護士で、いわゆる特別養護老人ホームで働いている。当然介護施設は平日も休日もなく、毎日介護士さんが入れ替わり立ち代わり交代制で働いているが、父は小学生の息子がいるとのことで、学校が休みの日曜日によく休みをもらっていた。そんな父は「世のため人のため」という言葉がうたい文句。人の役に立つことをしなさいと様々なボランティアに連れていかれた。ゴミ拾い。父が勤める介護施設でおじいちゃんおばあちゃんとおしゃべり。動物の保護施設。病気の子どもに絵本を読む係など。
父は仁徳者として、施設の人からも地域の人からも好かれていた。そんな父を僕は誇らしく思っていたし、今でもそう思っている。