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第2話

季節は過ぎ、僕は中学生になったが地元の中学ではなく隣町の私立へ通うことになったのだ。なぜかって? 母が地元の中学を嫌がったからだ。

 地元中学は僕たちの小学校と他に二つの小学校の校区が合併する。単純に計算すると小学校の三倍の人数に膨れ上がるのだが、この中学がどうも荒れ模様らしい。授業崩壊なんて当たり前。中学生なのに原付に乗ってヘルメットも被らず、道を爆走している輩もいた。母は僕が六年生にあがる際に「私立を受験しなさい」と勧めた。

 一年勉強したくらいじゃ無理だと思っていたが、意外にもアッサリと合格することができたのだった。

 新品の茶色のブレザーに腕を通し、紅色のネクタイをきっちりと結ぶと中学生になった自覚が芽生え、新しい生活に対する期待で僕の胸は高鳴っていた。

 桜が三月末に満開になった為、入学式の時点ではすでに葉桜だったけれど、クラス全員、少々ブカブカの制服を身にまとい、整列して写真を撮ると、僕はああ、中学生になったんだなとひしひしと実感した。私立なのでクラスのメンバーは見知らぬ顔。僕は早く仲間たちの顔を覚えようと、チラチラと他の子たちの顔を覗き込んだりしたが、その時はみんな慣れない場所に緊張した面持ちだった。

 その中でも一際目立っている生徒がいた。岸まりな。一言で言うなら美女だ。クラスに一人や二人はいるであろう顔立ちの整ったその子は、身長も僕より十センチ近く高くて、足は細いのにある程度女性体型をしていた。最近の子は発育が良いなど言われるが、その言葉を象徴するかのような肉付き。ついているところにはついており、必要のないところにはついていない。などと言ったら僕は変態だろうか。

 入学早々、彼女が男子からモテモテだった事はいう間でもない。たいがいそういう子は他の女子から妬まれたりするものだが、彼女は性格も良かったので、女子からも評判が良かったのだ。そんな岸さんと、僕は幸運にも隣の席になった。

「鈴木くん、よろしくね」

 そう言いにっこり笑う彼女の笑顔を見ると、恋愛などにはまだまだほど遠い御身分の僕もイチコロだった。なぜ、遠い身分なのかって? 僕はこの頃低身長で、まだ百五十一センチしかなかった。それにまだ、小学生が見るようなアニメなどもよく見ていて、まぁなんていうかまだまだ子どもに尾ひれがついたような程度の奴だった。

 一学期はそんな岸さんの隣の席で僕は幸せな学園生活を送っていたが、嘘か誠か、岸さんが僕のことを好きだという噂を耳にした。まさかと思ったが、六月の僕の誕生日に岸さんが手作りのクッキーを作ってきてくれて、もしかしたら噂は本当なのかもしれないと浮足立っていた。しかし幸せはそれまでだった。


 うっかり落としてしまったオレンジが、道をコロコロと転がる。坂道が続く。障害物はない。誰も止める人もいない。勢いを増したオレンジは加速しながら転がり続け、最終地点で壁にぶつかり激しくつぶれた。中の汁が飛び散り、皮はもげ、無残な姿になったオレンジは、「美味しそう」などと人々の興味をそそっていた頃と打って変わって、汚い存在でしかなくなってしまった。例えるならそんな感じだ。僕はこの後、オレンジのように転がり落ちていく。


 夏休みもあと四日ほどで終わり、二学期が始まるという時に事件は起きた。その日もいつも通り僕は起床後、トイレを済ませて階段を下りた。暑いので、朝から水を一リットルほどがぶ飲みするため、キッチンに繋がるドアを開けた。しかしいつもなら「おはよう」とあいさつをしてくれる母が、電話台の前で突っ伏していた。

「お母さん、どうしたの? 気分が悪いの?」

 僕は母の顔を覗き込んだ。すると顔色が真っ青だ。

「大丈夫? 救急車を呼ぼうか?」

 そういえば、さっき電話の音がした気がして僕は起きたのだった。

 スローモーションをかけたかのようにゆっくりと振り返った母の顔はひどく蒼白で、鎮痛な面持ちでしばらく固まっていたが、突然大きな声で泣き始めた。

「ひ…裕人…お父さんが…お父さんが……‼」


 事故だった。仕方なかった。

 いや、事故のはずなんだ。そして父さんは立派に人を守ろうとしたはずなんだ。未だに真実は闇の中だけど、どう考えてもあの父が人を突き落とすなどあり得ない。


 父が勤務する特別養護老人ホームには多数の認知症患者さんがいらっしゃった。その日の父は夜勤で、各部屋を見回ったり、夜中に起きてしまった患者さんの相手をしたりしていた。認知症患者さんは時間を把握しておらず。夜中に突然朝だと思って起き出して、ウロウロし始めたりするのは日常茶飯事。

 その日、突然四時半前に雄たけびを上げ始めた八十八歳のおじいさん。体は元気で、脳のみが認知症に侵されているそのおじいさんは突然部屋から走り出して、ヘビだ! ヘビだ! と言い始めた。駆けつけた僕の父が部屋の中を確認するが、ヘビらしき生物など見当たらない。

くすのきさん、ヘビなどおりませんよ。大丈夫です。お部屋に戻りましょう」

 父はそう声を掛けるが、楠さんは大パニック状態。

「あんな気持ち悪いヘビ、私は無理だ‼ ええい、あの窓から落としてやる‼」

 突然楠さんは窓の方へ駆け寄った。普段、閉めてある窓は、たまたま換気のために開けてしまっていた。とはいっても外には落下防止のための柵がある。

「危ないですよ楠さん‼ ヘビなんていませんからお部屋に戻りましょう!」

 そう言うが、楠さんは窓の外へ身を乗り出し、柵に手を掛けた。必死で体を館内へとひきずりこもうとする僕の父。しかし不運な出来事が起きた。

 築四十年の特別養護老人ホームはところどころ劣化が進んでおり、その窓の柵の一部が錆びて弱くなっていたのだ。柵は柵としての機能を失い、外れてしまった。と、同時に二つの体が宙へと舞った。

 父はこんな時でも咄嗟に楠さんを守った。父は下敷きになり死亡したが、例の楠さんは打撲だけで済んで助かったのだ。


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