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第3章誰かのイノチがダレカのノゾミ

第21話 ミ タ マ マ ツ リ

夏休みもお盆が終われば、その翌週までで、夏休みは終わってしまう。



今まで、夏休みが終わるのを指折り数えて新学期を待つような事は無かったが。



今年の夏休みは、いつ終わっても悔いはなかった。


学園に行けば、沢山のトモダチと非現実な力を持つもの同士が集まる楽しい居場所があるのだから。



ずっと、家に籠もりっきりも悪くはないんだ。



広い屋敷に、広い庭(雑木林含む)。


整った家具に、不自由無く暮らせる環境。


衣食住は事欠く方が難しい額の、財産。



ただ、氷室さんだけがよく出没する、特異な一人暮らしも決して悪くも無いのだが。



お盆の13〜15 日氷室さんは、訳あって、屋敷には来れないと申し出てきた。


いや別に3日ぐらい来てくれなくて、屋敷に缶詰にされても、良いと思ったのだが。


「柚木崎さんからお盆の3日間、大鏡神社のお祭りのバイトに誘われたんです。 朝10時から18時まで。 夜は、柚木崎さんの自宅が大鏡神社の私が前に暮らしていた自宅に一人で住んでいるから、そこに寝泊まりさせてくれるって言うんですけど。駄目ですか?」


「⋯⋯そうか。俺は、嫌だが」


ん、いつもなら、却下と言うのに、そうじゃない。


嫌だ、という言葉は、氷室さんの主張では無いか?



「嫌⋯⋯と言うのは? いつもなら、駄目な時は、却下ですよね。 氷室さん」


「お前がバイトした後の給与処理が、俺の手間になる。 金があり余っているのに、小金を稼ぐ道理が無い。ただただ俺の税理計算の雑務が増えるだけだが?」


「それは、申し訳ないです」


バイト、してみたかったし。


大鏡神社のお祭り、見たかったな。


御霊祭りと言うイベントで境内の前の芝生の広場に沢山の灯籠を灯して、戦死した御霊を弔うイベントで、夜も煌々と灯る灯籠がたくさん灯っていて、とても、綺麗なのだけど。



「遊びに行くのは、構わない。柚木崎のところで寝泊まりするのも。だが、大鏡神社の外に柚木崎を伴わず出歩かない。⋯⋯その約束が出来るなら、構わん」


「分かりました。相談してみます」



柚木崎さんに、スマホで連絡を取り、直接話して見ると二つ返事でOKして貰えた。


それにしても、氷室さんはお盆の期間、何の用事があるんだろう?



4月に此方に連れ戻され、ずっと大鏡谷の屋敷に缶詰にされて来たが。


最初の頃こそ、氷室さんは、週に1.2度仕事がしたいと、学校の帰りに屋敷にあがって仕事をして夜遅くに自分の家に帰っていたようだが。


最近は平日は、寄っても夜遅くに一度は帰るものの、土日は週末の夜から居続けで屋敷の書斎で過ごすことが増え、最近は、特に夏休みに入ってからは殆ど自宅に帰っていない。


時々、朝、洗濯物がドラム式洗濯機に入っていることがあるが。


書斎には、ベッドがあるのだろうか?



中をまだきちんと見たことが無いから分からないが、書斎でどうやって寝泊まりしているんだろうか?


着替えをどれだけ、持ち込んでいるんだろうか?



週に3回と決めて、その通り、夜の散歩に行く時は、背広からジャージに着替えているし、泊まった日は、部屋着を着ていることさえある。


謎だらけだ。


そもそも、氷室さんって、どんな家族構成なんだ。


親は居るのか?


奥さんは、居ないと勝手に思っていたが、結婚指輪はしないたちで、実は、結婚していて。


よもや、子供何かいたら、私は。


私は⋯⋯とんだ泥棒猫だ。


いや、違う。


違う。


私の氷室さんへの気持ちはそんなんじゃない。


キスしたけど、キスされもしたけど。


私と氷室さんとの間には、恋愛感情なんて無い。


馬鹿馬鹿しい。


そんなんじゃない。


そう思おうとすれば、するほど、胸がズキズキ痛むのは、何なんだ。





お盆の始まりの13日、氷室さんは昨夜も書斎で夜を明かしていて、朝食を一緒に摂った。



「出かける準備は出来ているのか?」


「はい、食器を片付けたら、すぐ出られます」


「9時には、出たい。間に合うか?」


「勿論です」



特に急ぐことも無く、朝食の片付けを済ませて、身支度を済ませた。


氷室さんが車で大鏡神社まで送ってくれると言ってくれて、リビングで待っていると、氷室さんが珍しく私服でやって来た。


いつもは暑くても、外出の時は大体背広姿なのに、今日は感じが違う。


襟付きの赤のポロシャツに、白のジーンズだった。


玄関で靴を履く時も、今日はおしゃれなスニーカーだった。


何だ。


まさか、デートか何かか? 


何か、そわそわしてしまう。



「氷室さん⋯⋯」


「何だ、りりあ」



思わず、直球で【デートか?】尋ねてしまいたいのを必死にこらえた。


「今日⋯⋯おしゃれですね」


氷室さんは、一瞬、目を丸くした。


「⋯⋯そうか」


それ以上、何の感情も汲み取れないいつもの無表情だった。


反応薄っ!!


何なんだよ。


その反応。



いつも通り、淡々と車に乗り込み、特に何の言葉も交わすこと無く大鏡神社までの道のりを過ごし、大鏡神社前で私を降ろすと、氷室さんは運転席の窓だけ開けて私に言った。



「明後日の夕方、迎えに行く。 危ない事はするな。 軽率な真似はするな。 良い子にしていろ」


人を何だと思っているんだって。


まぁ、アナタは私の未成年後見人だ。


子供の様にしか、思ってないんだ。


この人は、私のこと何か。


そう思うと、また、胸が痛かった。



「はい。氷室さんも、お元気で」


私の言葉に、氷室さんは眉を細めた。


「2日ばかりのことだ。もう、会わなくなるような言葉で見送るな」



えっ、今のが気に喰わないのか。


本当、神経質だな。


でも、何かちょっと、嬉しい。


激しく、ただの愚痴にしか過ぎない言葉なのに。



「失礼しました。 またあさって」


「また⋯な」


氷室さんは、そう言って、運転席の窓を締めて、車を走らせ去って行った。


氷室さんの用事って、何だろう?



やっぱ、ナニカが心の中で引っ掛かって、心がザワザワしてしまう。


何を、私はおそれているんだろうか?


氷室さんに対して、何を期待して、何を危惧しているのだろうか?


全く検討も付かないのに、いや、だからだろうか⋯⋯。


ちょっとだけ、私の心には、不安が残った。





「私、バイトは出来ませんけど、お手伝いは良いと思うんですよ。お仕事じゃなくて、お手伝い下さい」 


「いや、逆にそれは、こっちが申し訳無いよ。 出店も出てるし、今日は、午後からはオフだからそれまで適当に境内で遊んでて」


「分かりました」


柚木崎さんは、大鏡神社の境内で宮司姿で私を出迎えてくれた。


遊んで来いと言われ、私はまだ始まったばかりの祭りの出店を見て回った。


バーベキューして焼けたお肉を売っているお店や綺麗な色したドリンクを売っているお店など、最近の、出店はお洒落だな。


何て思いながら、お店を見て回っていると、遥さんがドライフラワーや絵を売るお店を出しているのを見つけて、思わず駆け寄っていた。


「あれ、りりあちゃんじゃないか?」


「遥さん、お久しぶりです」


私は、お盆の間、大鏡神社で過ごすことになった経緯を離した。


「そうか。もうすぐしたら、要と鏡子も来るよ」


「本当ですか、嬉しい。……遥さん、ここの絵、全部遥さんが書いたんですか?」


「はは、恥ずかしいけど、そうだよ。 書きっぱなしだと、家が絵だらけになるから、一年に一度は売りに出せって言うんだよ。ひでえよな?」


「いいえ、遥さんの絵は、どれも素晴らしいものです。 前に……その⋯⋯ぬきめがねで通らせて貰った、大鏡公園の絵、記憶で描いたって聞いて、本当に凄いと思っていましたし、とても、好きです。風景画だけじゃないんですね」


そう言いながら、私は、目についた一つの絵に目を奪われていた。



雪のように白い鬣【たてがみ】の 蒼く光輝く鱗【うろこ】を纏った、真っ黒の瞳をした龍が月を背に、水面から飛び出していく、幻想的な絵だった。


この前、大鏡公園で頭に乗せてくれたりゅうの龍の姿と同じフォルムをしているが、表情が違う。


と言うか、ベツモノに見えた。


だからこそ、この絵の龍に、何故か好感が持てた気がした。


すごく険しい表情で空に向かって咆哮しているようにも見えるが。


何か見つめれば、見つめるほど、傍にあると感じれば、感じるほど。


心が癒されていく。


欠けたものが、満ちていく、気がした。



「これ……本当に素敵」


「えっ、りりあちゃん、この絵が好きなの?」


答えようとして、ふと、絵に【1000円】の値札がついている事に衝撃を受けた。


「はい。  えっと、はへっ、この絵、せ、千円ですか?」


「高いかな?」


「ち、違います。や、安過ぎですよっ。絶対駄目っ」


「えっ、ダメって?」


いや、私が駄目って言うのも、可笑しい話だが、兎に角、駄目だと思えて止まなかった。



「……遥さん、これ、私、買いますっ。千円じゃなくて、私が今持っているお金⋯⋯全部でも足りないくらい安いです……。これ、千円で……他の人に売っちゃ嫌です」



私は、遥さんにこの絵が欲しいことを訴えたが、何故か、遥さんは苦笑いで言った。


「ごめん、この絵はりりあちゃんに売るわけには行かない。 千円で売らないことと、他の誰にも売らないっては、約束は出来るけど、ごめん。君に売るわけには行かない」


私に売る以外の約束は出来るのに。


私には、売ることが出来ないのは、何でだ。



「……そうですか」


「はは。この絵、好きなんだね。 そうか……やっぱり、ちょっと、この絵は悪ふざけが過ぎたみたいだ」


「悪ふざけ……ですか?」


「うん、俺が高校生の時の苦い想い出なんだ。 危うく、要と学園のグラウンドに生き埋めにされかけた時のね」



ん、えっ、それって、前に学園長が要さんをダレカが、グラウンドに開けた穴に埋めさせて欲しいと訴えたと言う話を聞いたような、聞かなかったような……。


ん、まさか、この龍。


いや、まさか。


「でも、本当に綺麗」


「ありがとう……。ごめんね。これは、大事に飾っておくから、また遊びに来たときに見に来たら良い。 大鏡公園の白石橋の絵の隣に飾っておくから」


「分かりました。諦めます」



本当に、この絵が欲しかったから、それでもちょっと、手に入らないことを惜しいと思った。





暫くして、要さんと鏡子ちゃんが、遥さんのお店に顔を出した。


「ねえ、遥。さっき、柚木崎から、灯籠の飾り直し頼まれたんだけど、鏡子に店番任せて、遥も一緒にやらないと間に合わないんだよね。 折角、りりあちゃんが居るんだし、一緒に遊ばせてあげたいのにさ」


「要さん、私の事はお構いなく」


「ええっ〜、私、リリアちゃんと一緒に居たいよ〜。折角、会えたのに」


「でも、お仕事は大事だよ」


「じゃあ、りりあちゃんも、一緒に居てくれる?」


「私は良いよ」



そうして、私と鏡子ちゃんは、要さんと遥さんを見送って、二人で店番を始めた。



そして、お昼になって、要さんと遥さんが大鏡神社から賄で出されたちらし寿司弁当を持って帰って来た。


「お盆の期間中、ずっとこれだね」


「美味しいんだから、文句言わない」


「確かに、こういう時しか食べられないお弁当だし、それもそうだね。りりあちゃん食べよう」


店番の傍ら、4人でお店の隅で昼食を摂って、また二人は境内に帰って行った。


来客は多過ぎす少な過ぎず、ドライフラワーで作った小物や遥さんの絵も、軒並み値切られる事もなく、値段通りの金額でちまちま売れて行った。


先程の件の龍の絵は、非売品の札を貼って貰っているので安心だったのだが。


そうはいかない場面に直面してしまった。



「この絵、⋯⋯ねぇ、お願い。どうしても、譲って欲しいの」


暗闇の様に綺麗な黒髪に透けるような白い肌の綺麗な女性の人が、件の絵に足を止め、食い入る様に絵を見つめた後、私と鏡子ちゃんにそう声をかけて来た。


「あれ、この絵、何で非売品になってるの? パパ、こんな絵描いてたっけ、初めて見た」


「これ、アナタのパパが書いたの? 名前、名前を聞かせて」


「神木 遥【しんき はるか】です」


「えっ、何か、私の知っている人の名前がちぐはぐしているけど。 えっ、でも、待って⋯⋯。 もしかして、もしかしてだけど」


女の人は、勿体振った⋯⋯と言うか、信じられない事を口にするのを躊躇うように口ごもりながらも、更に言った。


「アナタのお母さんは神木 要【しんき かなめ】さんで、お父さんは松木 遥【まつき はるか】さんなの?」


「松木はパパの旧姓で、そうですけど」



「やだっ、あの二人の娘なの、アナタ」



どうやら、鏡子ちゃんの両親の事を知る人らしいが、初見でこの絵を欲しがるとは、ただならぬ予感を感じざる得ない。


だって、朝からことの成り行きで店番していたが、この絵に興味を持ったのは、私以外でこの人しか居なかったのだから。



「はい。一人娘の鏡子と言います。お姉さんは誰ですか?」


「お姉さんって、私のこと? 嫌だわ、もうすぐ50も近いのにお姉さんだなんて冗談は恥ずかしいわ」


はっ、この綺麗な女の人が50に近いなんて、そっちの方が、冗談じみてる。


あれ、この人の左手の小指、入れ墨で染色したような⋯⋯蒼い模様が見える。


まるで、指輪をしているような。



私がまじまじと、女の人の左小指を見つめていると、それにきづいた様に、女の人は、今度は私に声をかけて来た。



「あなた、ちょっと、尋ねごとしても良いかしら」


「はい」


「あなた、名前は? わたしは花枝 リチャード 氷室」



ん、何だ、その呪文は。


えっ、何か、聞き捨てならない語句が含まれてないか?


えっ、ヒムロ……氷室って言った。



「わ、ワタシは懸 凛々遊【あがた りりあ】です」


「あがた  りりあ  」



ん、この人……、私の名前、最後まで言い切ったよ。


えっ、じゃあ、レンズサイドウオーカー。


それも、私と同等に近いか? またはそれ以上の力があるのか?



「私の名前、アナタは呼べる?」


「えっと、すみません、長くて覚えられませんでした」



超恥ずかしい。


「ごめん、フルネームじゃ、意味がない。違った。【かえ】よ。そう呼んでみて」


「かえ さん」


「鏡子ちゃんも呼べるよね」


「かえ さん」


「二人とも、高校生?」


「「はい」」


「じゃあ、二人とも、若葉学園の特別クラス?」


「「はい」」



はなえと名乗る人は、私達の返事に満足そうに微笑んだ。



「後輩に会えて嬉しいわ」



そう言って、絵は鏡子ちゃんの両親に頼んでみると言って、鏡子ちゃんに二人の居場所を聞いて去っていった。



「鏡子ちゃん、聞いて良い」


「良いよ」


「今の人って、ヒッキーの……奥さんなのかな?」


「いや、初耳だけど、氷室って名乗ってたしね。ちょっと、呪文めいた感じの名乗り方で、外国人かな?って、思いもしたけど、ヒッキーがそもそも、外国人なら、有り得るよね。私、ヒッキーの国籍知らないけど、ヒッキーの両親って確かスッゴい昔にヒッキーをこの街に一人残して、仕事の関係で渡米したんだよ。何か関係あるのかな」


いや、そんなの、分かる訳ない。


鏡子ちゃんが知らないことは私も知らないよ。


と言うか、氷室さんの家族の事、鏡子ちゃんは知っていたのか。


なら、もっと早く聞いて置けば良かったと、思った。


「あっ、また、言っちゃった」


鏡子ちゃんが思い出したように、そう呟くのを尻目に、本当にそのすべすべした口が大好きだよと、私は心の中で、ひとりごちた。



既婚者に、キスしてしまったかもしれない。


それも、二度も。



既婚者に、キスされてもしまったかも知れない。


そう思うと、脳内は戦々恐々だった。






昼過ぎ、私達の、ところに柚木崎さんが申し訳なさそうにやって来た。


「ごめん、りりあ。灯籠の準備が終わらなくて、夕方まで抜けられそうに無いんだ。要さん達から、君がここにいるって聞いて少しぬけてきたんだけど」


「大丈夫です。鏡子ちゃんがいるんで」


結局、鏡子ちゃんと店番続行となったが、それは、全然苦では無かった。


夕方、遥さんと要さんが戻ってきて、鏡子ちゃんと出店を見て廻ろうとした所に柚木崎さんもやっと仕事を終えることができたのか、袴姿から私服に着替えてやって来て、三人で出店を見て廻った。



「あっ、ベアローズだ。チュロス食べよ。この前、りりあちゃんが進めてくれた抹茶また食べたい」


「私も」


「良いね。僕も小腹が空いてた」



残念ながら、毎度お馴染みのベアローズなのに、店員さんはみな、知らない人でちょっと残念だった。



「やっぱ、ここのチュロスは、ベリーが好きだよ」


「わたし、今日はハチミツ漬けしたスライスレモンのアイシリングソースがけにチャレンジしてみます」


「良いな、りりあちゃん、私にも一口頂戴」


「良いよ」



チュロスの他にも、BBQで焼いた肉の盛り合わせやパエリアを買って、三人で仲良くシェアした。



飲食スペースで買い食いを平らげ、ごみを捨てに一人でたまたま、境内の済みに設けられたゴミ捨て場に行っていた。


途中、カラフルなドリンクを売る出店に並ぶかえさんと氷室さんを見つけて、衝撃を受けて立ち止まった。



氷室さんが笑っていた。



見たことも無いような穏やかな笑みで、いつも、平常でもきつい目付きのしかめっ面なのに。



私の知っている氷室さんでは無かった。



まるで、違う。



服は、朝、別れた時と、同じ服なのに、同じ靴なのに。


朝、別れた時の氷室さんとは、思えない。



ダレダ……この人。



かえさんが、氷室さんの胸に手をやって、はにかんだ笑みを浮かべ、それを氷室さんが見下ろして微笑み返す様子は、まるで、仲の良い夫婦の様だった。








夜、鏡子ちゃんと別れた後、柚木崎さんと家に帰った。


氷室さんと、かえさんを見かけた事は、鏡子ちゃんにも柚木崎さんにも言えなかった。


気持ちを切り替えて、自然に振る舞えていただろうか?



ゴミ捨て場で私は、何故か少し泣いていた。


どうしようもなく悲しくて、どうしようもなくいたたまれない気持ちで、しばらく立ち直るのに、時間がかかった。


でも、くよくよしていたって仕方ないことだ。



氷室さんとキスしたことも、されたことも、多分、一晩背中を抱いて眠って貰った秘密は、墓場まで持っていけば良い。


氷室さんの奥さんには、心の中で。


謝って、終われば、良いと。


折角のお盆だ。


暗い顔してたら、私の為に一緒に居てくれている柚木崎さんに、申し訳ない。



この前は、あんまりゆっくり出来なかったが、改めて家の中を見渡すと、本当に懐かしかった。


生まれてから、4年前まで暮らした家。


お父さんとお母さんとの想い出が辛かった。


お盆と正月くらい、会わせても貰えるかも、なんて甘い考えが少しあったのだが、氷室さんは完全スルーだった。


だからと言って、自分もそれを望まなかったが。


言っても、困らせるだけだと、思って言えなかった。


せめて、想い出のあるこの家で、過ごせる事を幸いに思おうと自分に言い聞かせる。



「コンビニ行く? 何も買って無いんだ。 明日は休みにして貰ったから、昼からチェリーブロッサムに買い出しに行こうとは思っているけど、沸かした麦茶と、明日の朝食位しか無いんだ」


「今日は色んなお店で沢山食べたので、私は何もいりません。明日、朝、飲む牛乳があれば、何も要りません」



牛乳は、常備しているので問題ないと言われ、私はお風呂に入った。


柚木崎さんに先に入って貰いたかったが、お客さんが先だと、後にはして貰えなかった。


入れ替わりに、柚木崎さんがお風呂に入ってリビングで寛いでいると、柚木崎さんがお風呂を終えて、生木で出てきた。


ざっくりと胸元のあいたT シャツに短パン姿で私の隣に座ると、 あくびをした。


「ごめん、りりあ。僕、もう眠い」


「今日、いつから働いていたんですか?」


「5時くらいからかな? 境内の灯籠の追加が間に合わなくてさ。 要さん達が手伝ってくれて助かったよ。皺寄せがりりあにも来ちゃって、ごめんね。結局、店番させちゃって」


「良いんです。楽しかったんで」


「本当、なら良かった。ねえ、りりあ」


「はい、何ですか?」


「今日、りりあと一緒に寝たい。  一緒のベッドで、りりあの隣で寝かせて欲しい」


えつ。










一緒のベッドで寝たいと言われ、かなり戸惑ったが、私はそれを断らなかった。


柚木崎さんがきれいに整えてくれた、私の部屋のベッドで私は柚木崎さんとベッドに入った。



「キス、しても、良い?」


「はい」


柚木崎さんは、私の返事を待って。優しく、小鳥が餌をついばむように軽く私の唇に触れるだけの短いキスをして、私の肩を抱いた。


「もっと、キスしても良い?」


「いいですよ」



すると、今度は唇を重ねて私の中に舌を入れて、私のそれに絡み付けた。


重なる唇と絡み付いて来る舌の感触に、身体から力が抜けた。



柚木崎さんの事だけ、考えていたい。


柚木崎さんだけを感じていたい。



「りりあ、僕の名前を呼んで」


柚木崎さんの願いに答えて、私は柚木崎さんの名前を呼んだ。



「りょう……いち……さん」


「さんは、要らないよ。 僕達、恋人同士だよ。もう一度」


「りょ……りょういち」


私がはにかみなから、こう言うと、柚木崎さんは、嬉しそうに言った。


「二人の時は、名前で呼んで」


「はい」


柚木崎さんは、いつも何でも先回りで、私がして欲しい事を何でもしてくれる。


愛されている。


愛されていると、実感させてくれる。


だから、尚更、愛されていないと私に実感させてしまうんだ。


愛される必要も、義務もない人からは。



「えっ、何で、泣いちゃうの?」


柚木崎さんに指摘されて、自分が泣いていることに気が付いた。


「片付けで、一人でゴミ捨てに行って帰って来てから、何か変だよ? どうしたの? りりあ、涙が勿体ないからじっとしてて」


そう言うと、柚木崎さんは私の目元に溜まった涙を舌で舐め取った。


艶かしい舌の感触に、痺れる。


普通じゃない、甘い匂いが漂ってくる。



「教えてよ。 何でそんなに辛そうなの?」



本当、柚木崎さんのする事なす事堪らなくなる。


私は柚木崎さんの胸に顔を埋めてしがみついた。



「辛くなんてない……何にもないです」


「僕に嘘付いても駄目だよ。 言って」


私は、柚木崎さんの胸から身体わ起こして、柚木崎さんの唇に重ねるだけのキスをして、柚木崎さんの背中に回して抱き締めた。


柚木崎さんの頬に自分の頬を寄せて、温もりを感じながら、目を閉じた。


「嘘じゃない。  ただ、今は……柚木崎さん……りょういちさんの事で、一杯になりたい」


いや、絶賛【嘘じゃない】は嘘だけど、柚木崎さんの事で一杯になりたいのは、本心だ。


「それは、りりあの心の中は、僕でまだ一杯になってないって、自白してると受け取るけど……」


「そう思うんでしたら、私をりょ⋯う⋯いち⋯⋯さんで、一杯にして下さい」



私は、自分の言っていることが、恥ずかしくて、途中で俯いてしまった。



辛くないは、嘘だけど。


もし、して貰えるなら。


【私の心の中で渦巻く一切合切を、柚木崎さんで一杯にして、私のカラダから押し出して欲しい】


じゃないと、辛くて、堪らないんだ。



「煽るね、りりあ。 一度しか忠告しないなら、よく聞いて。 ……嘘をココロを誤魔化す道具にしては駄目だよ。 結局、ココロは変わらないし、その場凌ぎで得た安らぎ何てすぐ消えてしまう。そして、その時は前よりいっそココロが辛くなるよ。……君に、僕と同じ轍を踏ませたくない。僕がカラダで慰めてあげたいけど、それも、嘘と変わらない一時しのぎにしかならないからね⋯⋯」


柚木崎さんはそう言うと、私の額を手で押し返した。


柚木崎さんと私の距離がその僅か分でも離れるのが、堪らなかった。


いつも、柚木崎さんだけは、私を突き放したり、厳しい事を求めたりしないのに。



「やだ。  やだよ。 だって、どうにもならない。 なのに、離れて行かないで」



私の言葉に、柚木崎さんは苦笑いした。


「ちょっと、頭を押し返しただけだよ。僕にも、理性に限界あるんだからね」


よく分からないが、私は柚木崎さんの手を自分の両手で包んで言った。


「……りょういち……さん」


「だから、煽らないでってば。……もうっ。ちゃんと、説明してくれないと分からないよ。 りりあ、話して」



私は、結局泣きながら、柚木崎さんに今日あったことを全部話した。




夏休みもお盆が終われば、その翌週までで、夏休みは終わってしまう。



今まで、夏休みが終わるのを指折り数えて新学期を待つような事は無かったが。



今年の夏休みは、いつ終わっても悔いはなかった。


学園に行けば、沢山のトモダチと非現実な力を持つもの同士が集まる楽しい居場所があるのだから。



ずっと、家に籠もりっきりも悪くはないんだ。



広い屋敷に、広い庭(雑木林含む)。


整った家具に、不自由無く暮らせる環境。


衣食住は事欠く方が難しい額の、財産。



ただ、氷室さんだけがよく出没する、特異な一人暮らしも決して悪くも無いのだが。



お盆の13〜15 日氷室さんは、訳あって、屋敷には来れないと申し出てきた。


いや別に3日ぐらい来てくれなくて、屋敷に缶詰にされても、良いと思ったのだが。


「柚木崎さんからお盆の3日間、大鏡神社のお祭りのバイトに誘われたんです。 朝10時から18時まで。 夜は、柚木崎さんの自宅が大鏡神社の私が前に暮らしていた自宅に一人で住んでいるから、そこに寝泊まりさせてくれるって言うんですけど。駄目ですか?」


「⋯⋯そうか。俺は、嫌だが」


ん、いつもなら、却下と言うのに、そうじゃない。


嫌だ、という言葉は、氷室さんの主張では無いか?



「嫌⋯⋯と言うのは? いつもなら、駄目な時は、却下ですよね。 氷室さん」


「お前がバイトした後の給与処理が、俺の手間になる。 金があり余っているのに、小金を稼ぐ道理が無い。ただただ俺の税理計算の雑務が増えるだけだが?」


「それは、申し訳ないです」


バイト、してみたかったし。


大鏡神社のお祭り、見たかったな。


御霊祭りと言うイベントで境内の前の芝生の広場に沢山の灯籠を灯して、戦死した御霊を弔うイベントで、夜も煌々と灯る灯籠がたくさん灯っていて、とても、綺麗なのだけど。



「遊びに行くのは、構わない。柚木崎のところで寝泊まりするのも。だが、大鏡神社の外に柚木崎を伴わず出歩かない。⋯⋯その約束が出来るなら、構わん」


「分かりました。相談してみます」



柚木崎さんに、スマホで連絡を取り、直接話して見ると二つ返事でOKして貰えた。


それにしても、氷室さんはお盆の期間、何の用事があるんだろう?



4月に此方に連れ戻され、ずっと大鏡谷の屋敷に缶詰にされて来たが。


最初の頃こそ、氷室さんは、週に1.2度仕事がしたいと、学校の帰りに屋敷にあがって仕事をして夜遅くに自分の家に帰っていたようだが。


最近は平日は、寄っても夜遅くに一度は帰るものの、土日は週末の夜から居続けで屋敷の書斎で過ごすことが増え、最近は、特に夏休みに入ってからは殆ど自宅に帰っていない。


時々、朝、洗濯物がドラム式洗濯機に入っていることがあるが。


書斎には、ベッドがあるのだろうか?



中をまだきちんと見たことが無いから分からないが、書斎でどうやって寝泊まりしているんだろうか?


着替えをどれだけ、持ち込んでいるんだろうか?



週に3回と決めて、その通り、夜の散歩に行く時は、背広からジャージに着替えているし、泊まった日は、部屋着を着ていることさえある。


謎だらけだ。


そもそも、氷室さんって、どんな家族構成なんだ。


親は居るのか?


奥さんは、居ないと勝手に思っていたが、結婚指輪はしないたちで、実は、結婚していて。


よもや、子供何かいたら、私は。


私は⋯⋯とんだ泥棒猫だ。


いや、違う。


違う。


私の氷室さんへの気持ちはそんなんじゃない。


キスしたけど、キスされもしたけど。


私と氷室さんとの間には、恋愛感情なんて無い。


馬鹿馬鹿しい。


そんなんじゃない。


そう思おうとすれば、するほど、胸がズキズキ痛むのは、何なんだ。





お盆の始まりの13日、氷室さんは昨夜も書斎で夜を明かしていて、朝食を一緒に摂った。



「出かける準備は出来ているのか?」


「はい、食器を片付けたら、すぐ出られます」


「9時には、出たい。間に合うか?」


「勿論です」



特に急ぐことも無く、朝食の片付けを済ませて、身支度を済ませた。


氷室さんが車で大鏡神社まで送ってくれると言ってくれて、リビングで待っていると、氷室さんが珍しく私服でやって来た。


いつもは暑くても、外出の時は大体背広姿なのに、今日は感じが違う。


襟付きの赤のポロシャツに、白のジーンズだった。


玄関で靴を履く時も、今日はおしゃれなスニーカーだった。


何だ。


まさか、デートか何かか? 


何か、そわそわしてしまう。



「氷室さん⋯⋯」


「何だ、りりあ」



思わず、直球で【デートか?】尋ねてしまいたいのを必死にこらえた。


「今日⋯⋯おしゃれですね」


氷室さんは、一瞬、目を丸くした。


「⋯⋯そうか」


それ以上、何の感情も汲み取れないいつもの無表情だった。


反応薄っ!!


何なんだよ。


その反応。



いつも通り、淡々と車に乗り込み、特に何の言葉も交わすこと無く大鏡神社までの道のりを過ごし、大鏡神社前で私を降ろすと、氷室さんは運転席の窓だけ開けて私に言った。



「明後日の夕方、迎えに行く。 危ない事はするな。 軽率な真似はするな。 良い子にしていろ」


人を何だと思っているんだって。


まぁ、アナタは私の未成年後見人だ。


子供の様にしか、思ってないんだ。


この人は、私のこと何か。


そう思うと、また、胸が痛かった。



「はい。氷室さんも、お元気で」


私の言葉に、氷室さんは眉を細めた。


「2日ばかりのことだ。もう、会わなくなるような言葉で見送るな」



えっ、今のが気に喰わないのか。


本当、神経質だな。


でも、何かちょっと、嬉しい。


激しく、ただの愚痴にしか過ぎない言葉なのに。



「失礼しました。 またあさって」


「また⋯な」


氷室さんは、そう言って、運転席の窓を締めて、車を走らせ去って行った。


氷室さんの用事って、何だろう?



やっぱ、ナニカが心の中で引っ掛かって、心がザワザワしてしまう。


何を、私はおそれているんだろうか?


氷室さんに対して、何を期待して、何を危惧しているのだろうか?


全く検討も付かないのに、いや、だからだろうか⋯⋯。


ちょっとだけ、私の心には、不安が残った。





「私、バイトは出来ませんけど、お手伝いは良いと思うんですよ。お仕事じゃなくて、お手伝い下さい」 


「いや、逆にそれは、こっちが申し訳無いよ。 出店も出てるし、今日は、午後からはオフだからそれまで適当に境内で遊んでて」


「分かりました」


柚木崎さんは、大鏡神社の境内で宮司姿で私を出迎えてくれた。


遊んで来いと言われ、私はまだ始まったばかりの祭りの出店を見て回った。


バーベキューして焼けたお肉を売っているお店や綺麗な色したドリンクを売っているお店など、最近の、出店はお洒落だな。


何て思いながら、お店を見て回っていると、遥さんがドライフラワーや絵を売るお店を出しているのを見つけて、思わず駆け寄っていた。


「あれ、りりあちゃんじゃないか?」


「遥さん、お久しぶりです」


私は、お盆の間、大鏡神社で過ごすことになった経緯を離した。


「そうか。もうすぐしたら、要と鏡子も来るよ」


「本当ですか、嬉しい。……遥さん、ここの絵、全部遥さんが書いたんですか?」


「はは、恥ずかしいけど、そうだよ。 書きっぱなしだと、家が絵だらけになるから、一年に一度は売りに出せって言うんだよ。ひでえよな?」


「いいえ、遥さんの絵は、どれも素晴らしいものです。 前に……その⋯⋯ぬきめがねで通らせて貰った、大鏡公園の絵、記憶で描いたって聞いて、本当に凄いと思っていましたし、とても、好きです。風景画だけじゃないんですね」


そう言いながら、私は、目についた一つの絵に目を奪われていた。



雪のように白い鬣【たてがみ】の 蒼く光輝く鱗【うろこ】を纏った、真っ黒の瞳をした龍が月を背に、水面から飛び出していく、幻想的な絵だった。


この前、大鏡公園で頭に乗せてくれたりゅうの龍の姿と同じフォルムをしているが、表情が違う。


と言うか、ベツモノに見えた。


だからこそ、この絵の龍に、何故か好感が持てた気がした。


すごく険しい表情で空に向かって咆哮しているようにも見えるが。


何か見つめれば、見つめるほど、傍にあると感じれば、感じるほど。


心が癒されていく。


欠けたものが、満ちていく、気がした。



「これ……本当に素敵」


「えっ、りりあちゃん、この絵が好きなの?」


答えようとして、ふと、絵に【1000円】の値札がついている事に衝撃を受けた。


「はい。  えっと、はへっ、この絵、せ、千円ですか?」


「高いかな?」


「ち、違います。や、安過ぎですよっ。絶対駄目っ」


「えっ、ダメって?」


いや、私が駄目って言うのも、可笑しい話だが、兎に角、駄目だと思えて止まなかった。



「……遥さん、これ、私、買いますっ。千円じゃなくて、私が今持っているお金⋯⋯全部でも足りないくらい安いです……。これ、千円で……他の人に売っちゃ嫌です」



私は、遥さんにこの絵が欲しいことを訴えたが、何故か、遥さんは苦笑いで言った。


「ごめん、この絵はりりあちゃんに売るわけには行かない。 千円で売らないことと、他の誰にも売らないっては、約束は出来るけど、ごめん。君に売るわけには行かない」


私に売る以外の約束は出来るのに。


私には、売ることが出来ないのは、何でだ。



「……そうですか」


「はは。この絵、好きなんだね。 そうか……やっぱり、ちょっと、この絵は悪ふざけが過ぎたみたいだ」


「悪ふざけ……ですか?」


「うん、俺が高校生の時の苦い想い出なんだ。 危うく、要と学園のグラウンドに生き埋めにされかけた時のね」



ん、えっ、それって、前に学園長が要さんをダレカが、グラウンドに開けた穴に埋めさせて欲しいと訴えたと言う話を聞いたような、聞かなかったような……。


ん、まさか、この龍。


いや、まさか。


「でも、本当に綺麗」


「ありがとう……。ごめんね。これは、大事に飾っておくから、また遊びに来たときに見に来たら良い。 大鏡公園の白石橋の絵の隣に飾っておくから」


「分かりました。諦めます」



本当に、この絵が欲しかったから、それでもちょっと、手に入らないことを惜しいと思った。





暫くして、要さんと鏡子ちゃんが、遥さんのお店に顔を出した。


「ねえ、遥。さっき、柚木崎から、灯籠の飾り直し頼まれたんだけど、鏡子に店番任せて、遥も一緒にやらないと間に合わないんだよね。 折角、りりあちゃんが居るんだし、一緒に遊ばせてあげたいのにさ」


「要さん、私の事はお構いなく」


「ええっ〜、私、リリアちゃんと一緒に居たいよ〜。折角、会えたのに」


「でも、お仕事は大事だよ」


「じゃあ、りりあちゃんも、一緒に居てくれる?」


「私は良いよ」



そうして、私と鏡子ちゃんは、要さんと遥さんを見送って、二人で店番を始めた。



そして、お昼になって、要さんと遥さんが大鏡神社から賄で出されたちらし寿司弁当を持って帰って来た。


「お盆の期間中、ずっとこれだね」


「美味しいんだから、文句言わない」


「確かに、こういう時しか食べられないお弁当だし、それもそうだね。りりあちゃん食べよう」


店番の傍ら、4人でお店の隅で昼食を摂って、また二人は境内に帰って行った。


来客は多過ぎす少な過ぎず、ドライフラワーで作った小物や遥さんの絵も、軒並み値切られる事もなく、値段通りの金額でちまちま売れて行った。


先程の件の龍の絵は、非売品の札を貼って貰っているので安心だったのだが。


そうはいかない場面に直面してしまった。



「この絵、⋯⋯ねぇ、お願い。どうしても、譲って欲しいの」


暗闇の様に綺麗な黒髪に透けるような白い肌の綺麗な女性の人が、件の絵に足を止め、食い入る様に絵を見つめた後、私と鏡子ちゃんにそう声をかけて来た。


「あれ、この絵、何で非売品になってるの? パパ、こんな絵描いてたっけ、初めて見た」


「これ、アナタのパパが書いたの? 名前、名前を聞かせて」


「神木 遥【しんき はるか】です」


「えっ、何か、私の知っている人の名前がちぐはぐしているけど。 えっ、でも、待って⋯⋯。 もしかして、もしかしてだけど」


女の人は、勿体振った⋯⋯と言うか、信じられない事を口にするのを躊躇うように口ごもりながらも、更に言った。


「アナタのお母さんは神木 要【しんき かなめ】さんで、お父さんは松木 遥【まつき はるか】さんなの?」


「松木はパパの旧姓で、そうですけど」



「やだっ、あの二人の娘なの、アナタ」



どうやら、鏡子ちゃんの両親の事を知る人らしいが、初見でこの絵を欲しがるとは、ただならぬ予感を感じざる得ない。


だって、朝からことの成り行きで店番していたが、この絵に興味を持ったのは、私以外でこの人しか居なかったのだから。



「はい。一人娘の鏡子と言います。お姉さんは誰ですか?」


「お姉さんって、私のこと? 嫌だわ、もうすぐ50も近いのにお姉さんだなんて冗談は恥ずかしいわ」


はっ、この綺麗な女の人が50に近いなんて、そっちの方が、冗談じみてる。


あれ、この人の左手の小指、入れ墨で染色したような⋯⋯蒼い模様が見える。


まるで、指輪をしているような。



私がまじまじと、女の人の左小指を見つめていると、それにきづいた様に、女の人は、今度は私に声をかけて来た。



「あなた、ちょっと、尋ねごとしても良いかしら」


「はい」


「あなた、名前は? わたしは花枝 リチャード 氷室」



ん、何だ、その呪文は。


えっ、何か、聞き捨てならない語句が含まれてないか?


えっ、ヒムロ……氷室って言った。



「わ、ワタシは懸 凛々遊【あがた りりあ】です」


「あがた  りりあ  」



ん、この人……、私の名前、最後まで言い切ったよ。


えっ、じゃあ、レンズサイドウオーカー。


それも、私と同等に近いか? またはそれ以上の力があるのか?



「私の名前、アナタは呼べる?」


「えっと、すみません、長くて覚えられませんでした」



超恥ずかしい。


「ごめん、フルネームじゃ、意味がない。違った。【かえ】よ。そう呼んでみて」


「かえ さん」


「鏡子ちゃんも呼べるよね」


「かえ さん」


「二人とも、高校生?」


「「はい」」


「じゃあ、二人とも、若葉学園の特別クラス?」


「「はい」」



はなえと名乗る人は、私達の返事に満足そうに微笑んだ。



「後輩に会えて嬉しいわ」



そう言って、絵は鏡子ちゃんの両親に頼んでみると言って、鏡子ちゃんに二人の居場所を聞いて去っていった。



「鏡子ちゃん、聞いて良い」


「良いよ」


「今の人って、ヒッキーの……奥さんなのかな?」


「いや、初耳だけど、氷室って名乗ってたしね。ちょっと、呪文めいた感じの名乗り方で、外国人かな?って、思いもしたけど、ヒッキーがそもそも、外国人なら、有り得るよね。私、ヒッキーの国籍知らないけど、ヒッキーの両親って確かスッゴい昔にヒッキーをこの街に一人残して、仕事の関係で渡米したんだよ。何か関係あるのかな」


いや、そんなの、分かる訳ない。


鏡子ちゃんが知らないことは私も知らないよ。


と言うか、氷室さんの家族の事、鏡子ちゃんは知っていたのか。


なら、もっと早く聞いて置けば良かったと、思った。


「あっ、また、言っちゃった」


鏡子ちゃんが思い出したように、そう呟くのを尻目に、本当にそのすべすべした口が大好きだよと、私は心の中で、ひとりごちた。



既婚者に、キスしてしまったかもしれない。


それも、二度も。



既婚者に、キスされてもしまったかも知れない。


そう思うと、脳内は戦々恐々だった。






昼過ぎ、私達の、ところに柚木崎さんが申し訳なさそうにやって来た。


「ごめん、りりあ。灯籠の準備が終わらなくて、夕方まで抜けられそうに無いんだ。要さん達から、君がここにいるって聞いて少しぬけてきたんだけど」


「大丈夫です。鏡子ちゃんがいるんで」


結局、鏡子ちゃんと店番続行となったが、それは、全然苦では無かった。


夕方、遥さんと要さんが戻ってきて、鏡子ちゃんと出店を見て廻ろうとした所に柚木崎さんもやっと仕事を終えることができたのか、袴姿から私服に着替えてやって来て、三人で出店を見て廻った。



「あっ、ベアローズだ。チュロス食べよ。この前、りりあちゃんが進めてくれた抹茶また食べたい」


「私も」


「良いね。僕も小腹が空いてた」



残念ながら、毎度お馴染みのベアローズなのに、店員さんはみな、知らない人でちょっと残念だった。



「やっぱ、ここのチュロスは、ベリーが好きだよ」


「わたし、今日はハチミツ漬けしたスライスレモンのアイシリングソースがけにチャレンジしてみます」


「良いな、りりあちゃん、私にも一口頂戴」


「良いよ」



チュロスの他にも、BBQで焼いた肉の盛り合わせやパエリアを買って、三人で仲良くシェアした。



飲食スペースで買い食いを平らげ、ごみを捨てに一人でたまたま、境内の済みに設けられたゴミ捨て場に行っていた。


途中、カラフルなドリンクを売る出店に並ぶかえさんと氷室さんを見つけて、衝撃を受けて立ち止まった。



氷室さんが笑っていた。



見たことも無いような穏やかな笑みで、いつも、平常でもきつい目付きのしかめっ面なのに。



私の知っている氷室さんでは無かった。



まるで、違う。



服は、朝、別れた時と、同じ服なのに、同じ靴なのに。


朝、別れた時の氷室さんとは、思えない。



ダレダ……この人。



かえさんが、氷室さんの胸に手をやって、はにかんだ笑みを浮かべ、それを氷室さんが見下ろして微笑み返す様子は、まるで、仲の良い夫婦の様だった。








夜、鏡子ちゃんと別れた後、柚木崎さんと家に帰った。


氷室さんと、かえさんを見かけた事は、鏡子ちゃんにも柚木崎さんにも言えなかった。


気持ちを切り替えて、自然に振る舞えていただろうか?



ゴミ捨て場で私は、何故か少し泣いていた。


どうしようもなく悲しくて、どうしようもなくいたたまれない気持ちで、しばらく立ち直るのに、時間がかかった。


でも、くよくよしていたって仕方ないことだ。



氷室さんとキスしたことも、されたことも、多分、一晩背中を抱いて眠って貰った秘密は、墓場まで持っていけば良い。


氷室さんの奥さんには、心の中で。


謝って、終われば、良いと。


折角のお盆だ。


暗い顔してたら、私の為に一緒に居てくれている柚木崎さんに、申し訳ない。



この前は、あんまりゆっくり出来なかったが、改めて家の中を見渡すと、本当に懐かしかった。


生まれてから、4年前まで暮らした家。


お父さんとお母さんとの想い出が辛かった。


お盆と正月くらい、会わせても貰えるかも、なんて甘い考えが少しあったのだが、氷室さんは完全スルーだった。


だからと言って、自分もそれを望まなかったが。


言っても、困らせるだけだと、思って言えなかった。


せめて、想い出のあるこの家で、過ごせる事を幸いに思おうと自分に言い聞かせる。



「コンビニ行く? 何も買って無いんだ。 明日は休みにして貰ったから、昼からチェリーブロッサムに買い出しに行こうとは思っているけど、沸かした麦茶と、明日の朝食位しか無いんだ」


「今日は色んなお店で沢山食べたので、私は何もいりません。明日、朝、飲む牛乳があれば、何も要りません」



牛乳は、常備しているので問題ないと言われ、私はお風呂に入った。


柚木崎さんに先に入って貰いたかったが、お客さんが先だと、後にはして貰えなかった。


入れ替わりに、柚木崎さんがお風呂に入ってリビングで寛いでいると、柚木崎さんがお風呂を終えて、生木で出てきた。


ざっくりと胸元のあいたT シャツに短パン姿で私の隣に座ると、 あくびをした。


「ごめん、りりあ。僕、もう眠い」


「今日、いつから働いていたんですか?」


「5時くらいからかな? 境内の灯籠の追加が間に合わなくてさ。 要さん達が手伝ってくれて助かったよ。皺寄せがりりあにも来ちゃって、ごめんね。結局、店番させちゃって」


「良いんです。楽しかったんで」


「本当、なら良かった。ねえ、りりあ」


「はい、何ですか?」


「今日、りりあと一緒に寝たい。  一緒のベッドで、りりあの隣で寝かせて欲しい」


えつ。










一緒のベッドで寝たいと言われ、かなり戸惑ったが、私はそれを断らなかった。


柚木崎さんがきれいに整えてくれた、私の部屋のベッドで私は柚木崎さんとベッドに入った。



「キス、しても、良い?」


「はい」


柚木崎さんは、私の返事を待って。優しく、小鳥が餌をついばむように軽く私の唇に触れるだけの短いキスをして、私の肩を抱いた。


「もっと、キスしても良い?」


「いいですよ」



すると、今度は唇を重ねて私の中に舌を入れて、私のそれに絡み付けた。


重なる唇と絡み付いて来る舌の感触に、身体から力が抜けた。



柚木崎さんの事だけ、考えていたい。


柚木崎さんだけを感じていたい。



「りりあ、僕の名前を呼んで」


柚木崎さんの願いに答えて、私は柚木崎さんの名前を呼んだ。



「りょう……いち……さん」


「さんは、要らないよ。 僕達、恋人同士だよ。もう一度」


「りょ……りょういち」


私がはにかみなから、こう言うと、柚木崎さんは、嬉しそうに言った。


「二人の時は、名前で呼んで」


「はい」


柚木崎さんは、いつも何でも先回りで、私がして欲しい事を何でもしてくれる。


愛されている。


愛されていると、実感させてくれる。


だから、尚更、愛されていないと私に実感させてしまうんだ。


愛される必要も、義務もない人からは。



「えっ、何で、泣いちゃうの?」


柚木崎さんに指摘されて、自分が泣いていることに気が付いた。


「片付けで、一人でゴミ捨てに行って帰って来てから、何か変だよ? どうしたの? りりあ、涙が勿体ないからじっとしてて」


そう言うと、柚木崎さんは私の目元に溜まった涙を舌で舐め取った。


艶かしい舌の感触に、痺れる。


普通じゃない、甘い匂いが漂ってくる。



「教えてよ。 何でそんなに辛そうなの?」



本当、柚木崎さんのする事なす事堪らなくなる。


私は柚木崎さんの胸に顔を埋めてしがみついた。



「辛くなんてない……何にもないです」


「僕に嘘付いても駄目だよ。 言って」


私は、柚木崎さんの胸から身体わ起こして、柚木崎さんの唇に重ねるだけのキスをして、柚木崎さんの背中に回して抱き締めた。


柚木崎さんの頬に自分の頬を寄せて、温もりを感じながら、目を閉じた。


「嘘じゃない。  ただ、今は……柚木崎さん……りょういちさんの事で、一杯になりたい」


いや、絶賛【嘘じゃない】は嘘だけど、柚木崎さんの事で一杯になりたいのは、本心だ。


「それは、りりあの心の中は、僕でまだ一杯になってないって、自白してると受け取るけど……」


「そう思うんでしたら、私をりょ⋯う⋯いち⋯⋯さんで、一杯にして下さい」



私は、自分の言っていることが、恥ずかしくて、途中で俯いてしまった。



辛くないは、嘘だけど。


もし、して貰えるなら。


【私の心の中で渦巻く一切合切を、柚木崎さんで一杯にして、私のカラダから押し出して欲しい】


じゃないと、辛くて、堪らないんだ。



「煽るね、りりあ。 一度しか忠告しないなら、よく聞いて。 ……嘘をココロを誤魔化す道具にしては駄目だよ。 結局、ココロは変わらないし、その場凌ぎで得た安らぎ何てすぐ消えてしまう。そして、その時は前よりいっそココロが辛くなるよ。……君に、僕と同じ轍を踏ませたくない。僕がカラダで慰めてあげたいけど、それも、嘘と変わらない一時しのぎにしかならないからね⋯⋯」


柚木崎さんはそう言うと、私の額を手で押し返した。


柚木崎さんと私の距離がその僅か分でも離れるのが、堪らなかった。


いつも、柚木崎さんだけは、私を突き放したり、厳しい事を求めたりしないのに。



「やだ。  やだよ。 だって、どうにもならない。 なのに、離れて行かないで」



私の言葉に、柚木崎さんは苦笑いした。


「ちょっと、頭を押し返しただけだよ。僕にも、理性に限界あるんだからね」


よく分からないが、私は柚木崎さんの手を自分の両手で包んで言った。


「……りょういち……さん」


「だから、煽らないでってば。……もうっ。ちゃんと、説明してくれないと分からないよ。 りりあ、話して」



私は、結局泣きながら、柚木崎さんに今日あったことを全部話した。





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