目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第22話  チェリーブロッサム

朝、私はすっきり目が覚めた。


柚木崎さんの隣でぐっすり眠る事が出来た。


流石、流石の柚木崎さんだ。


私の事、何でも理解してくれる。


何でも困った時は、助けてくれるし、辛い時は気付いてくれるし。


そして、私の事を愛していると、言ってくれる。


愛されている、と言う実感をいつもくれる。


安心できる。


辛い時、心細い時。


私は、それを、心の拠り所にする事が出来る。





柚木崎さんだけからしない、柚木崎さんの匂いも、嫌いじゃない。


知らないシャンプーの匂い。


服に染み付いた僅かな特有の香りは、ちょっとお香混じりな気がした。


焚き物の時のか、お線香か何だかの。


「今、何時だろ?」


「8時ですよ、おはようございます」


「おはよう、りりあ」


柚木崎さんは身体を起こして、先に起きて寝ている彼を見下ろしていた私の唇に近付き軽くキスをした。








「チェリーブロッサム。一度行って見たかったんです。色んなお店入ってて、楽しそうですよね」


「そうなんだ。君の今住んでいる大鏡谷の一番麓の先だから、そんなに遠くないはずだよね。ヒッキーに連れて行って貰えば良かったのに」


「いや、前に何度か頼んだんですけど。 車停めにくいとか。大通り沿いで車が混むから駄目とか」


後、夜の散歩も、そっち方面を提案すると、絶対、却下されて、もう、今は全く、望んでない。


「何か理由あるのかな?」


柚木崎さんの問いかけに私は苦々しく言った。


「さぁ、分かりません。でも、やっと、行けると思うと、嬉しいです」


私達は、徒歩でチェリーブロッサムを目指した。


大鏡谷の自宅からだと10分以上かかるが、ここからだと5分かからない距離だった。



チェリーブロッサムは大通に面した一等地に大規模に作られた施設で大きなスーパーの建物にいくつもの飲食店やショップやテナントが入っている。



施設の隣にも派生した2号館が建っているのだが、そのテナントの一区画に【氷室税理士事務所】の看板を見つけた。



どんなところなのだろう?


気になって、気になって、仕方ない。


でも、今日はお盆だし、お休み何だろうけど。



「りりあ、何か気になるお店あるの?」


「あっ、えっと⋯⋯。いえ、早くお店入りましょ、暑いです」



氷室さんの事、今はこれ以上考えたくない。


昨夜、柚木崎さんに昨日あった事、自分が思っている事全部言って、折角、すっきりしたのに。


また、沼にハマるように沈みたくない。



「僕、ここの甘いかしわ飯弁当のファンなんだ」


「えっ、気になります」



店内に入ると冷房が効いていて快適だった。



「どっか、気になるお店ある?」


「そうですね。まずは、全部のお店を見て回り⋯⋯いやっ、あれだっ!! 絶対、あのお店ですっ」



事あるごとに、行く先々で、必ず目にするが、また例に漏れず出くわすなんて最高じゃないか。


「どうしたの? りりあ、興奮して」


「柚木崎さん右手45度、10メートル。お惣菜屋さんに、まず行きたいです」


「えっ、何でいきなり。何かそんなに気になるの?」


「気になりますよ。だって、見て下さい。そこの店員さん、この前夕食をご馳走してくれたセイさんですよっ」


「あっ、本当だっ」


柚木崎さんも興味ありげに2つ返事でお店に向かった。


「いらっしゃいま⋯⋯あれ、りりあちゃんに柚木崎君じゃない」


私に気付いて、咄嗟に私の名前を呼ぶセイさんに柚木崎さんは狼狽えていた。


そうだ、何か、セイさんは私の名前、呼ぶんだよね。


呼べるんだよね。


竹中さんとソウさんは、呼べないのか、呼ばないのかは知らないけど、少なくとも、セイさんが私の名前を呼べる事は、実は知っていたのだが。





「お盆なのに、お仕事ですか?」


「そうなのよ。どうしても、店舗が多いと何処かしらで欠員出ちゃってね。今日は午前中だけ、私が店番しているのよ」



私は、メニューのラインナップを見て、思わず唸った。


夏野菜のゼリー寄せのキャベツロール。


鶏肉と人参のクリームマスタード煮。


白身魚の南蛮漬け。


出汁ジュレがけの新鮮野菜の冷しゃぶ。


鳥肝の甘辛生姜醤油煮。


小松菜と油揚げと桜海老の煮浸し。


ほうれん草とベーコンとベビーコーンのバター醤油炒め。


茹でたタコとエビと、アボカドとブロッコリーのバジルマヨネーズ和え。



ヤバい、ぱっと目に付いたラインナップだけでも、絶対食べて帰るか、持って帰りたいメニューだった。



「⋯⋯美味しそう」


そうですよね。


私もそう思いま⋯⋯てっ、この声は?


私は柚木崎さんとは逆隣から声をかけられ、振り向いた。


顔を確認しなくても、それは昨夜、初めて会った、その人の声だと気づいていた。


「かえさん?」


「やっばり、昨日大鏡神社で店番してたりりあちゃんよね。また会ったね」


「えっ、かえさん、今日はどうしてここに?」


「えっ、両親がここの施設を見てみたいって言ってね、私も一緒に付いて来たの。でも、私、ここの区画が気にって。私だけ、抜けてきたの」


「えっ、りりあ、この人、知り合いなの?」


柚木崎さんの言葉に、かえさんは言った。


「あら、今日はボーイフレンドと買い物?」


「あっ、えっと、まあ、はい」


私がそう言うと、かえさんは言った。


「初めまして。もしかして、貴方も、若葉学園の子?」


「はい、柚木崎 良一と言います。貴方は?」


「かえっ言うの。ねえ、私の名前、呼んでみて」


かえさんに促され、柚木崎さんは答える。


「かえさん」


「呼べるんだ。 じゃあ、柚木崎 亮一くん。貴方も、特別クラス?」


「そうです。⋯⋯でも、僕の呼び名は、りょうです」


「りょう」


かえさん、やっぱ、ただものじゃない。





「宜しかったら、プチアソートと言う、全種類の盛り合わせがオススメです」


「やだっ、それにするわ」


「1200円です」


「もう少しお会計は待って、デザートも選ぶから、ごゆっくりどうぞ」


かえさんは、今度は、デザートの陳列に目を奪われていた。


手の空いたセイさんがこちらに声をかけて来た。


「りりあちゃん達は何にする?」


「りりあは、何が欲しい?」


「私もプチアソートにしようと思うんですけど、デザートも買いたくて、まだ決まらないんです」


「ゆっくり、選んでね。そう言えば、珍しいわね。りりあちゃんが氷室さんと一緒じゃないなんて」


セイさんの何気無い発言に、私は焦った。


確かめては、居ないが、かえさんは、氷室さんの奥さんかも知れない人なのに。


私の表情の変化にセイさんは表情を曇らせた。


「えっ、氷室って、言った?」


「えっ、あっ、言いましたが?」


や、ヤバい。


「えっ、氷室って、まさか、氷室 龍一の事?」


「えっ、そうですけど、ん? お客様も、お知り合いですか?」


「知り合いじゃないわ、家族よ。えっ、りりあちゃん、龍一といつも一緒にいるの? 何で?」


それは、色々理由があってだが、何て説明したら良いんだ。


「柚木崎さん。私、言っても良いんでしょうか?」


「いや、言っても良いに決まってるよ。 仕方ないんじゃない。変な躊躇いなく、簡潔に答えたら良いよ」


昨日、事情を話してしまっているので、相談出来る事を幸いに思った。


「私の保護者が氷室さんで、いつも、お世話になってます。すみません、もしかして、かえさんが氷室さんの家族かも? って、思っていなくもなかったのですが」


複雑な心境でそう言う私に、かえさんは、血相を変えて私に食って掛かった。


「龍一が、あなたの保護者って、えっ、まさか、隠し子?」


「いや、氷室さんに産んで育てて貰った覚えはありません」


そもそも、男性だから、産むはずはない。


氷室さんが産ませて、育てて貰った? が正しいのか?


いや、そうじゃない。


伝えたいことが、違う。


「でも、保護者って言ったわよね。 よ、養子縁組?」


「してません。未成年後見人の契約を交わして、親代わりになって貰っています」


そう、これで良いんだ。


簡潔に言えた。



だが、私の答えに、かえさんは顔色を変えて、その場を立ち去った。



「ご、ごめん。わ、私、もしかして。 何かスゴい⋯不味いこと言っちゃった? りりあちゃんと氷室さんの関係、知らなくて。 私、そんな、つもり無かったのに⋯⋯。その⋯⋯、ごめんなさい」



セイさんが突然の修羅場に、すっかり、青ざめた表情だった。。


「いえ、全面的に、本当にこちらが申し訳ないです。 巻き込んでしまって、謝るのは、こっちです。気にしないで下さい」


「そうですよ。あれで、良かったんです。 こっちが気を遣う手間が省けて、逆に良かったくらいですよ」


そう言い切った柚木崎さんに、私は目を丸くした。


「柚木崎さん、今、何と」


「いや。そもそもさ、向こうから、声をかけて来たんだからさ。 りりあが気を遣う必要ないんだよ。 君と関わりを持ってきたのは、そもそも氷室さんなのに、何でそれを関わりを持たされた側のりりあが苦慮しなきゃ行けないのさ」


言われてみれば、確かにそうだ。


私と氷室さんの接点は、氷室さんからのアクションから生じたものだ。


何で、私を気にかけるのか、契約で接点を繋ぐのか。


理由も、本当は定かではない。


でも、私が自分で望んでそうなって欲しいと頼んだのではないのは確かだけれども。


「良かったら、お詫びにこれから、昼食をいっしょにどう? もうすぐ、お昼までだから、お仕事あがるの。 ここのチェリーブロッサムの社食に招待させて」


「えっ、良いんですか? 」


「勿論よ。関係者と一緒なら、同伴で利用可能なの、折角だから、今日はポークカレーだったと思うけど」


私と柚木崎さんは、喜んでご相伴させて貰うことにした。




結局、贅沢に商品を選んで沢山買い物を済ませ、要冷凍の商品もあって先にお会計を済ませ、食指の後、改めて商品は受け取る事にして、セイさんにチェリーブロッサムに案内された。


IDカードを認証して扉が開くエリアに入るとアメニティルームという部屋やミーティングルーム、シャワー室に、ランドリーに仮眠室まであった。


「スゴい⋯ですね。アメニティルームって何ですか?」


「その名の通り、歯ブラシとか、ブラシとか、ランドリーで使う洗剤を自由に持ち出し出来る部屋なの。イベントや年末年始で忙しい時、徹夜になる事もあるから」


「徹夜勤務あるんですか?」


私が驚きの声を上げると、セイさんは苦笑いで言った。


「私は、無いけど。 ソウとか、この大元のスーパーの店長とか、出入りのイベント設営してくれる人とか、工事とかで、たまに徹夜してるの。 いや、スーパーは棚卸しとかでどうしても、そうなるのは分かるんだけど、ソウとかはやり出すと、すぐ没頭しちゃっ⋯てね。まぁ、みんなもお陰で快適で良いんだよね」


「立派な設備ですが、こんな大掛かりだと維持費高くないですか?」


「2号棟も出来て、そこのテナント関係者も利用可能なの。スタッフの福利厚生も兼ねたものだから、勿論、大丈夫」


建物の裏手の一面を片面ガラス張りの通路に、それぞれの個室が続く、一番奥の大きな部屋が食堂スペースだった。


扉と部屋の壁はガラスで、中は白を基調とした壁と床で清潔感と開放感があった。


何でも、部屋の一番奥だがこの渡り廊下の最奥には、勝手口になっており、外からIDカードで入れるため、駐車場スペースからすぐの場所から、直接入れる利便性の良い構造になっているのだと言う。


入口に、液晶パネルがあって、本日のメニューのプロモーションが流れていた。


メニューとデザートの説明が映像付きで流れて来た。


「すっごいですね」


「ソウのアイデアなの。昔は一食分、陳列したり、ボードに書き出したりしてたけど、定型フォームに打ち込んだり、スマホで撮影するだけで済むんだもん。便利にしてくれるよ」





「美味しい」



大ぶりの豚肉の塊を噛みしめると程良い硬さでじゅわりとした歯ごたえで肉汁を染み出しながら肉がほぐれ、肉の旨みが広がっていく。


大皿に盛られたカレーの隅々に、9種類のふたくち位でたべられる量の色んな副菜が乗っていて、それを味変に楽しめる趣向も乙だ。


「こんな、美味しいカレー初めてです。やみつきになりそうです。このなめこの甘酢煮がカレーに合うなんて衝撃ですよ」


「美味しい」



セイさんに連れられて、やって来たチェリーブロッサムの社食で、私達はお昼をご馳走になって、大満足だった。


カレーを食べ終え、デザートのアサイボウルを食べ終わろうと言うところまでは。



「あっ、りりあちゃん。柚木崎くん。さっきの氷室さんの家族が入って来たよ。まさか、ここまで来るとは。 まあ、氷室さんもテナント用のIDカード持ってるから、無いことも無いにしても、ここまで来たか。 どうする?」



えっ、マジかっ?


私は不安になって、柚木崎さんを見つめた。


「大丈夫です。構いません」


「りりあ、不安そうな顔しないで。 大丈夫、僕がついている」




「居た。探したわ、りりあちゃん」



背後から、かえさんの声が聞こえ、思わず振り返ると片手に氷室さんの腕を掴んで、立っているかえさんの姿に、私は愕然とした。


いや、氷室さん本人まで降臨してるなんて、認識不足だった。


今、会いたい気分じゃ無い。


出来れば、顔も見たくなかったのに。



「か、かえさん」


「龍一。 この子の事で間違いない?」


「⋯⋯あぁ、りりあだ、間違いない」


間違い、間違いって⋯⋯、私は二人にとって、何のあやまちだと言うのか。



「あなた、この子の未成年後見人になったって、本当? 私達に、何の相談もなく」



まあ、天涯孤独でないのなら、家族にしてみれば、相談して欲しいと思うのは、当たり前の事だ。


人の子の後見人になるなんてさ。


事前に話をしていなかったなら、かえさんが怒るのも、無理ない。



「⋯⋯済まない。三年ばかりの事だから、言うまでもないと思っていた」


「そんな訳には、いかないわ。りりあちゃん、悪いけど、一緒に来て。お父さんとお母さんに会って欲しいの」


えっ、かえさんと氷室さんの、どっちの両親に、かは分からないが両親にか、これは、世に言う修羅場か。


私が困惑していると、柚木崎さんが言った。



「では、僕も、ご一緒させて貰えますか?」


「アナタも? 何で?」


「彼女の傍にいたいからです。 この事情については、彼女より、僕の方がよく分かっていますし、何より、一番この状況に不安を感じているのが、彼女だからです」



柚木崎さんの、申し出が嬉しかった。



氷室さんは、何とも言えない複雑な表情で何故か俯いていた。






「どういう事だ?」


「そうよ、龍一。あなた⋯⋯」


かえさんに、初老の男女が座るテーブルに連れてこられ、事のあらましを説明するかえさんにそう言い詰められて、氷室さんは言った。



「高校卒業までの3年間、未成年後見人になった、だけだ。 わざわざ説明するつもりは無かっただけだ。やましい事はない」


氷室さんの言葉に、かえさんが言った。



「全然、納得できないわ。納得の行く説明して」


納得の行く説明⋯⋯。


そう言えば、何で未成年後見人になる必要があったんだろう。


具体的には、分かってない。


私も⋯。



「未成年は、法的手続きをするに当たって保護者が必要になることが多かったからた。俺がアレから貰った財産や土地は、アレの意向で全てを、彼女に譲渡した」


「アレって、龍一が、貰った財産すべてを? えっ⋯この子、何なの?」


アレ、アレ言っているが、もしかして、りゅうの事だろうか?


そう言えば、あの屋敷って、元々は氷室さんの持ち物だった気が、もしかして、現金も元々は、氷室さんがりゅうから貰ったものなら、かえさんやご両親には、耳障りの良くない話に思えてならないが。



「彼女に譲渡して、はい、終わりでは、済まない。財産管理上、顧問税理士契約だけでは、日常生活の監督まで補えないから、そうしたまでだ」


理路整然と、言われると、改めて、私と氷室さんは、義務的な関係なのだと思ってしまった。


かえさんやご両親は、知らないが私はそれに納得していた。


「龍一が人の親のような真似事するとは、夢にも思わなかった」


「えぇ、いつまでも、結婚どころか恋人だって作らない貴方が、義務的なものとは言え、人の面倒見るなんてね。 えっと、あなた、お名前は」


氷室さんの母にそう尋ねられて、私は頭を下げた。


「懸 凛々遊【あがた りりあ】です」


「失礼だけど、君のご両親は?」


「四国に居ます。この春に、氷室さんに大鏡谷に屋敷を貰って、卒業まで、未成年後見人になっていただいて⋯⋯あの、両親と、離れて居るので。いつもお世話になっています」


「お世話って⋯⋯、龍一がか? 出来ているのか?」



氷室さんのお父さんは、信じられないような表情だった。


「あなたは、人間?」


かえさんの質問に、私は目を見開いた。


「りりあは、人間だ」


私だって、そう答えるつもりだったのに。


それよりも、早く氷室さんが答えた。


「⋯⋯分かった。龍一、良い子ね」


「何だよ。良い子って。⋯⋯子供扱いはやめてくれ」


氷室さんらしからぬ、不貞腐れた物言いに私は呆然としていた。





夜、私は柚木崎さんと、チェリーブロッサムで買い求めたプチアソートのお惣菜と、セイさんイチオシのミネストローネで、夕食を摂った。


「厚切りベーコンとソーセージ入れたら、本当、旨みが増しますね」


「肉類はお好みに合わせて後入れだから、気分でアレンジ出来て、今度は、豚肉を入れてみようかな」


「私は鶏モモでアレンジしてみようかな?」


柚木崎さんも私も、真空パックで冷凍された内容量1リットルのパウチを3つずつ購入した。


夕食用とは別に、だ。


お互い自炊勢なので、こういう商品は助かる。


「キャベツ・ピーマン・パプリカ・玉ねぎ・人参・トマト。夕食に野菜を捩じ込む苦労が省けますね」


「これ、定期購入出来るって言ってたね」


「WEBから、申し込みできるって聞いて、もう申し込んじゃいました」


「僕も、後でやろうかな」



夕食の片付けを柚木崎さんとして、お風呂に入って、また、夜は柚木崎さんと、一緒に眠った。


今夜が最後の夜だった。


たった2日ばかりだったが、柚木崎さんと過ごした一時は、楽しかった。


「ねえ、りりあ」


「何ですか?」


「僕と一緒に、暮らさない? 君が大人になったら、僕、君と結婚したい」


本気か?


「それは、冗談とか、何か本題は別で、前置きのようなものでは無く?」


「そうだよ。これが本題だよ。結婚して欲しいんだ。 愛している。 僕は、君だけしか愛せないし、愛さない。例え、ヒッキーの事も、君が愛していても、構わない」


は?


えっ、結局、何か必ずぶっ込むんですね。


「えっ。何、言い出すんですか?」


「僕、変な事言った?」


そもそも、プロポーズから、変な事だと正直突っ込みたいが、そもそもだ。


「私、ヒッキーの事、愛してない」


そんなつもり、ない。


「りりあ。愛してない人に、キスは出来ないよ。君は、意識が朦朧としている時は別にしても、自分でわかっていて、あの時、僕の眼の前で、ヒッキーにキスしただろ? 強制された訳でもなく、自分で物事がきちんと判断出来る状況で、自分の事ぐらい、ちゃんと自分で把握してないと駄目だよ。 どっかの誰かさんみたいに、自分の気持ちに蓋をして、現実から逃れようとして余計に苦しむ羽目になっちゃ駄目だよ」


それって、誰だよ。


誰が、苦しんで居るんだよ。



「いや、でも、私は」


「でも、苦しんで泣いてたじゃん。少なくとも、昨日は。 愛している。そう思って良いんだよ。 楽になれるから」



私は、困惑した。



「はあ? 私、それで、楽になれるんですか?」


不意に、柚木崎さんが私の頬に手を添えて撫でた。


そして、頬をゆっくり揉みほぐして、唇に触れて、今度は唇も揉みほぐした。


「なれるよ。 君は自分の本心が分からないの?」


「私は、柚木崎さんが好き。 愛しているのも、柚木崎さんだもん」


好きなのは、柚木崎さんだ。


愛してもいる。


だから、だからこそ、氷室さんは違う。


「僕を好きなのも、愛しているのも、関係ない。君と僕の事は、君とヒッキーの何とも重ならないし、何の障害にもならない、ましてや、それを言い訳にされるのは不快だよ」


でも、違うんだ。


本当に、違う。



柚木崎さんは、私を後ろ向きに倒して背中から私を抱きしめて言った。



「僕は、躊躇わず、君をいつも愛している。だから、どんなに愛しても、愛されない事が辛くて寂しい時は。 僕の事を思い出して それしか、僕が君にヒッキーの事でしてあげられる事は無い⋯⋯。あまり、苦しまないで」



氷室さんの事、愛してはないけど、氷室さんに対して苦しんで居るのは、確かだ。


「心配させて、ごめんなさい」


私の言葉に、柚木崎さんは私の顎を指で抑えて後ろに少し向かせて、柚木崎さんが私の唇を重ねた。


まるで舌で抱き合うように絡め合った。


最後の夜を惜しむように。









「りりあちゃん、どうしたの?」


3日目の朝、私は朝食の後、午前中は神社の仕事で、宮司姿で境内に向かう柚木崎さんを見送って、遥さんのお店に行った。


龍の絵を最終日に見たかったからだ。



「今日でお祭り終わりだから、龍の絵をもう一度、見たくて」


「そうか。⋯⋯ごめん、りりあちゃん。お願いがあるんだ」


「えっ? 何ですか?」


「一昨日、鏡子と君に店番して貰った時、かえさんって人が、この龍の絵を、売ってって言って来たの覚えてる?」


「はい」


「今日、昼過ぎの便で帰るんだ どうしても、持って帰りたいって言ってて、さ。 本当にさ、悪いけど、かえさんが欲しいなら、渡すのが筋だと思ってさ。 俺の罪滅ぼしだから、ごめん」



⋯⋯絵をかえさんに渡しちゃうって。


それが筋で。


罪滅ぼしって、何だ。


えっ、どういう事だ?



「遥さん、罪滅ぼしって、この絵に、何があるんですか?」


私の問いかけに、遥さんは、苦い顔をした。


「ヒッキーに 【いつまで、姉ちゃんの結婚引きずってんだシスコン⋯⋯。姉ちゃん、居ねえと笑えないなんて、どんだけ、好きなんだよ】 って。俺と要で言った後、ヒッキーの姿が消えて、ヒッキーの居た足元からこの龍が飛び出してきて大暴れしたんだ。最初、空に舞い上がって上がれば上がる程龍は大きくなってさ。場所、若葉学園で、大騒ぎでさ。 みんな⋯⋯停学になった。 悪い事言った。悪いことしたって、ずっと思っていた。 だから、せめて、ヒッキーの大好きな姉ちゃんの願いが叶うなら、叶えてやりたいんだ。⋯⋯本当にスマン」



もう、どっから、何に、手を付けて良いか分からない。


「えっ、かえさんって、氷室さんのお姉さん何ですか? 何か、名前が呪文みたいだったんですけと⋯⋯」


「あぁ、ダブルネームだよ。 複合姓と言って、結婚相手の名字がセカンドネームに入るんだ。 リチャード姓が入ってる。花枝・リチャード・氷室って」


「氷室さん、昔はよく笑ったんですか?」


「あぁ、ああ見えて、姉の前でだけは、にこにこ愛想よく笑ってたんだ。ただ、あいつが10歳の時に、あいつを残して両親とかえさんは渡米して、5年後、かえさんが結婚してからは血も凍ったか?って思うほど笑わない今のヒッキーになったんだ」



そうか⋯⋯。


かえさんは、氷室さんの姉か。


氷室さんは昔、ちゃんと普段……自然に笑ったりも出来る人だったのか。


笑ったり出来る人の前では、していたのか。


今は、かえさんが居ないから、出来ないにしても。


その人、戻って来ての、一昨日のあの継続された微笑みだったのか。


何だよ⋯⋯。


そんなの、知らなかった。


私は気が抜けて、その場に膝を落としてへたり込んで、声を上げた。


「あっつ」


「わっ、アスファルト熱いよ、どうしたの」


私は、馬鹿な事したと分かっていながらも、すぐ立ち上がる事が出来ず、じたばたしているところを遥さんに抱き起こされて、傍の椅子に座らせて貰った。



「⋯⋯遥さん」


「何だい。私の事は気にしないで下さい。 すみません、変な事、言っちゃって。 遥さんの絵は、遥さんのモノです」


「ありがと⋯⋯。でもね、本心からだけど、俺は君に絵を誉めて貰えたのが嬉しかったんだ。だから、君のお願いを本当に叶えてあげたいって思ってたんだ」


私は、遥さんの気持ちを嬉しく思った。


すごく別れがたい気持ちで、もう次、いつ見ることが出来るが分からない絵を自分の目に焼き付けてから、遥さんのお店を後にした。


絵をスマホで撮影して、画像に残そうか?とも考えたが、やめておいた。


複製では無く、本体が欲しいと思って。


でも、馬鹿げたこだわりだ。


そもそも、絵自体、実物の複製なのに。


本体、何て手に入れようもないのに。



リリア……



ん?



誰か、近くで誰がか、私を呼んだ。



リリア……


誰かな。



呼びかけに、応じようか?



小さな声で、誰か分からない。



アイタイ……


オネガイ……


リリア……


モウツギイツコノチヲフメルカワカラナイカラ……



もしかして、かえさんか。


だったら、私は呼びかけに応じようと、彼女に。


彼女の問いかけに応じようと、心に念じた。



すると、私はいつの間にか、境内の隅の木陰にある船の形をした大きな岩な前に居た。


目の前に、信じられないと言わんばかりにこちらを見つめるかえさんが立っていた。



「りりあちゃん、あなた、凄い人なのね」



言われてみれば、確かに、凄い事ではあるのだろうが。


私にとって、もうこれぐらいは朝飯前なのだけれども。



「かえさん、お呼びですか」


「そうよ。あなたに、会いたかった」



かえさん、一人でまた出歩いて。



「今日、お帰りになるんですか?」


「ええ、日本は10年振りなの……。帰ってきて本当に良かった。 龍一が、法的手続きの為でも、親代わりになるなんて事をしている時に、日本に戻れて、そして、あなたに会えて」


「私も、嬉しいです。ヒッキー、自分の事、何もお話になられないので。ちゃんと、ご両親も、ご兄弟もいらっしゃるって知れて安心しました」


「ヒッキーって? あなたも、弟の事、ヒッキーって呼ぶのね」


「だって、名指しで呼ぶと、呼び寄せてしまうので。ご本人が嫌う愛称で呼ばないと、面倒になるんです」


「あっ、そう言う仕組みなのね。 だから、いつも、あんなに嫌がる呼び方してたのね、要も遥も。 ここに居るときだけ、よく名前を呼ばれた様な気がするのって、私を誰かが噂している時なのかな?」


「おそらく……」


「そっか、じゃあ、弟って言おう。名前を何度も人と話して口にする度、弟が何処に行っていても、見つけに来ると思っていたの」



レンズサイドウオーカーでも、かえさんはあまり理【ことわり】に精通してないらしい。



「私、両親と夫と子供と7人でLA に住んでいるの」


「アメリカですか?」


「そうよ。弟は、この地でないと生きられない。だから、一緒に行けなくて。本当は、私、いつかここに戻って、ずっと一緒にいてあげるつもりだったけど、その人生を私は選ぶ事が出来なかった」


「ヒッキーは、何でここでしか、生きられないんですか?」


そう言えば、氷室さんはりゅうとの繋がり無しでは、生きられなかった。


りゅうが封じられて、氷室さんとりゅうが途切れた時、氷室さんの心臓は止まった。


私が代わりをして、あの時は延命できたのだが、そもそも、氷室さんは。



「私がアレに願ったの。 私の全てをあげるから、死んだ彼に、命を下さいって」


なんだって。


あのりゅうに……。


正気か? 


「アレって、ヒッキーのアレの事ですか?」


「りりあちゃんも、アレと何か契約したの?」



いや、強姦はされたが、契約はしていない。


でも、強姦された事は、言いたくない。



「契約はしてません。す、ストーカーされてます」


「そ、そうなの? 弟は、私達の渡米の時に、若葉学園の学園長を介して、大鏡谷の屋敷と現金を譲渡されたの。 その時の財産管理は学園長が未成年後見人になってくれて、税理計算は、学園長がしてくれるのを見て、税理士になったのよ。あの子」


「えっ、ヒッキーが税理士になったのって。自分に係る税金計算がきっかけだったんですね」


私は、全部、氷室さんに丸投げしているので、ちょっと耳が痛い。


改めて、かえさんと話してみて、私は改めて、自分は氷室さんの事を何も知らない事を実感した。


「龍の絵、私に譲って良いって、言ってくれてありがとう」


「えっ、あっ、いえ、すみません。あれは、遥さんが書いた、遥さんのものですから、私がそもそも口を挟んで、非売品にしてしまっていて、私こそ申し訳なかったです」


「う~ううん。 でも、あなたがこの絵をとっても気に入ってたの聞いてる。 本当に良いかしら?」


「はい。勿論です。きっと、ここに描かれている、可愛い龍は、かえさんの傍にいた方が幸せだと思います、私じゃ力不足です」


「りりあちゃんにとって、この龍は可愛い龍に見えるの?」


不思議そうにするかえさんに、私は言った。


「ええ。 まだ心若く、血気盛んな、怒りんぼうさん……に見えますが?」


かえさんは、屈託のない笑みで私に笑いかけて、私に言った。


「そっか……。りりあちゃんには、そう見えるのね」



また。そのうち、絶対に会いに行くから。


そう言い残して、かえさんはその場を後にした。






午前中は、後からやって来た鏡子ちゃんとまた昼まで遊んで、昼過ぎにお弁当を2人分持ってやって来た柚木崎さんと家に帰って昼食を摂った。


2回目の賄のちらし寿司は、前回同様のラインナップだが、美味しかった。

ピンクの桜でんぷと、錦糸卵とそぼろのエリアの三色で良く酢の効いたしっかりとした味付けで、野菜とガンモの炊合せと甘い卵焼きの具も美味しかった。



「君が帰ると寂しくなるよ」


「私も、新学期まで、柚木崎さんに会えないと思うと、寂しいです」


「宿題はもう終わった?」


「はい、後は夏休み明けのテスト勉強くらいしか無いです」


夕方まで、のんびり、冷房の効いたリビングで過ごして、夕方、氷室さんの迎えを待って外に出て、私と柚木崎さんの2日間の同棲は終わりを告げた。



「りりあ」


帰りの車の中で、氷室さんは私に声をかけて来た。


「何ですか?」


「悪かった。俺の家族の問題に、お前を巻き込んだ」


すっかり、いつもの無表情のしかめっ面で、謝られてもな。


まぁ、お姉さんにしか笑えないらしいから。


仕方ない。


「いえ、私も⋯。どうして良いのか、分からなくて」


「お前には。何も言ってなかった。 戸惑わせて、悪かった」


「いえ。そもそも、私が、一人で大人しく家に籠もって居れば良かったんです。事情を話していただけたら、私も我が儘言いませんでした。 なのに、私が、大鏡神社に居たいって言ったの反対しないでくれたんですから」


私の言葉に、暫く氷室さんは沈黙した後。


「俺は、お前を閉じ込めたい訳じゃない。そんな事、お前に強いるつもりは無い。……矛盾した事を言うが。俺は、お前を自由にしてやる事は出来ないのにな」


どういう事なんだろう。


氷室さんは、私に、何の葛藤を抱えているんだ?


自由ってなんだ。


確かに、色々制約はあるが。


私は、不自由でも、自分の意思で、ここに居るのに。


ここに居られて、幸福なのに。

















この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?