「カレーは、スパイスが大事だよね」
柚木崎さんのその意見はもっともだ。
「揚げも大事だ」
宇賀神先輩のその意見は、却下だ。
流石に、今回はご遠慮願おう。
「お父さんが付け合わせにキムチは必須っていってました。福神漬けだけじゃなくて、他の付け合わせも出しましょう!」
鏡子ちゃん。カレーにキムチは、私も本人から聞いたが…。
確かに、福神漬けの他も、付け合わせを採用する余地はある。
前に、セイさんにご馳走になったチェリーブロッサムのカレーでそれは、実感している。
「学園長が家庭菜園で作ったキュウリを大量に下さるそうです。 カレーに合うかは別ですが」
それは、ありがたい。
キュウリを輪切りにして、塩揉みしてキムチと和えたら、付け合わせに会うかもしれない。
まあ、それは、置いていて。
目下の問題は……。
「私、カレーは市販のルゥで作るから、凝ったスパイスは思い付かないんだよね」
「僕も、あんまり詳しくないんだ……」
柚木崎さんは、そう言って溜め息を、ついた。
「カレー、材料を使いきるために計算したら、500人分になっちゃったよ。はは。うち、全校生徒、1500人でしよ。他校からの来訪者や保護者の数も考えても、完売は至難の技だよ」
みんなが是非食べたいと思えるようなカレーで臨まないと、売れ残りは必至だ。
何か、作るカレーに、普通のものとは違う趣向が欲しい。
そう思って止まない時、私は、自宅の台所に気になる調味料を見かけて、それとにらめっこしていた。
台所の調味料スペースの戸棚の奥に、追いやられたように隅に並んだモノ達と。
ガラムマサラ。
チリペッパー。
オールスパイス。
コリアンダー。
ターメリック。
クミン。
シナモン。
カルダモン。
サフラン。
ジンジャー。
ガーリック。
これは、誰がここに、寄せ集めたカレーに使いそうなスパイスの妖精達だろうか?
何の為に。
まぁ、心当たりは一人しか居ない。
「氷室さん、料理は好きですか?」
「何だ、いきなり」
夕食時、わたしは氷室さんにそう持ちかけた。
「カレーが食べたいんです」
「そうか……。俺も、嫌いじゃない。 俺は、明日の夕食が、カレーでも構わないが」
いや、そうでは無い。
「……私、カレーを作る才能が無くて」
「前に作っていただろう? 充分だ」
あぁ、もう、回りくどいのは、無しだ。
話を拗らせると、氷室さんの低い沸点が振り切れ兼ねない。
「氷室さん、時々、私が居ない時にカレー……作ってますよね。 平日、帰ったら、凄く良い匂いだけ、仄かに台所に残っていて、私、それが食べたいんです」
実は、何度かそれを経験していた。
まさか?
きっと、名だたる有名店のテイクアウトだと、思ってもいたが。
まぁ、その可能性も捨てきれないが。
と言うか、この人、最近は私を学校に送り届けた後。
実は、チェリーブロッサムのオフィススペースに事務所を持っているのにも関わらず、日中たまにここに戻って過ごしていたかのような毛があった。
時々、リビングや玄関が学校に行く前より、綺麗になってたり、朝はなかった洗濯物が帰ったら洗濯機に入っていて、帰ったらすぐ取り出していたのも目の当たりにしてた。
ちゃんと、事務所に出勤しているのか。
本業は大丈夫か?と、思ってもいるが。
今は、カレーの事をはっきりさせなければ。
と、邪念を捨てて、挑んだ。
「カレーの作り方、教えて欲しいんです。 私、市販のルゥでしか、作れないんです」
縋るような気持ちで、強く願ったのだが。
「充分だろう⋯⋯」
そう言われると、取り付く島もない。
絶望的か⋯⋯と、諦めかけた。
「何だ、気付いていたのか? 辛いのが好きなのか?」
ん?
強いて言えば。
「もう高校生なので、激辛は嫌ですが、スパイスの効いたカレーに憧れています。 私、甘口しか作った事無いんです。⋯⋯両親から、甘口以外、教わって無いんです」
良し、ワタシ今、多分、話をカタに嵌めたよ。
私、嘘も付いてない。
正真正銘 私の両親は真性の親バカで、一人娘の私を溺愛するあまり、私の前で一度たりとも甘口以外のカレーを作った事が無いんだ。
私は、非常に困っている。
そこにきて、氷室さんは、私の未成年後見人。
つまり、私の親代わりだ。
断るはずが、断って良いはずが無い。
そう信じた。
「そうか⋯⋯まぁ、小難しい事は無い代物だが、それで良いなら」
「ありがとうございます。氷室さん、お料理するんですね」
「当たり前だ。俺を今年いくつになるおっさんだと思っている」
「鏡子ちゃんのご両親と同い年ですよね? 知ってます。忘れる方が無理です。 ですから、迂闊に中年アピール良くないですよ」
黙ってたら、30代前半に見えるんだから。
「ほっとけ。 ⋯⋯土曜の夕食で良いか?」
「願ったり叶ったりです。 嬉しい、絶対ですよ」
嬉しい。
私は、ワクワクしながら土曜の午後を向かえた。
「玉ねぎ1個を千切りにして、フライパンで炒める。油はオリーブオイルを使う。バターで炒めても良いが、味がくどくならないように、俺はオリーブオ イルを使っている。 野菜は、セロリと玉ねぎと人参。じゃがいもは、あっても無くても良い」
それは嬉しい。
じゃがいもは、腐りやすくなるから、極力、入れたくなかった。
でも、セロリだと?
「えっ、セロリ入れるんですか?」
「あぁ、肉の臭みを抑えて、食感も良い割に、カレーに溶け込んで生食の時のようにえぐみがない。まぁ、食べてみろ」
肉には、しっかり下味を付け、一晩寝かして、小麦粉をまぶしてから、フライパンで焼き色を付けて、野菜と一緒にしっかり炒めて、台所のスパイスの妖精さん達を余すことなく使って秘伝の配分で出来あがった。
そんな氷室さんの珠玉のスパイスカレーの味は、勿論……。
「えっ、超絶、美味しい……。辛いけど、美味しい」
「で、お前、早速、クラブ活動でこれを披露するつもりか?」
ん?
違う。
私は、七封じからの猪肉とお米の処遇を生徒会に一任されて苦慮している事態を説明した。
「そうか⋯。大変だな。じゃあ、この方法で、何人分作るつもりだ?」
えっ、何人ぶん作るかって。
「500人分です」
私の言葉に、氷室さんは丁度口にしていた、コップの麦茶をしたたか吹いて、咳き込んだ。
「ごほっごほ。……正気か?」
「えぇ、業務用の大鍋などの発注の見積もりはこれからで、まだ計画段階ですけど」
「ちょっと、待て……。お前、予算はどこから、いくら、出るんだ?」
「ん? あっ、聞いてない」
「お前達は、阿呆か。 創部している場合じゃない。この事をまず、解決すべきだったんじゃないのか? 柚木崎がいて、この体たらくか」
「……言われてみれば、そうですね」
氷室さん、唐辛子みたいに真っ赤にならないで、上機嫌で料理を教えてくれて、私も楽しかった。
お説教は嫌だ。
「月曜、柚木崎にきちんと話をしろ。 【カレーを作る前に、カレーを作る原資の担保が肝心じゃないか?】と」
「えっ、カレーはたんぽぽとレバーはジャマイカですか?」
「違うっ。何だその、破滅的なオウム返はっ」
怒鳴りおった。
一生懸命、理解しようと思ったのに。
基礎IQが違うんだ。
本気で、小難しい話をされたら、会話が成立しないのも、氷室さんの地頭で理解して話して欲しい。
子供でも、分かるレベルで。
いいや、駄目だ。
そんなの時間の無駄だ。
「氷室さん、明日、柚木崎さんに来てもらいましよ。私に、難しい話は分かりません」
「くそっ。……昼から⋯⋯なら良い。連絡しておけ」
「良いんですか?」
「お前の親代わりだ。致し方ない」
※
「あっ、バレちゃいました。 俺と宇賀神で、資金調達は何とかしようと思って、りりあ達には敢えて言ってなかったんですよ。 もう、りりあが氷室さんに話すなんて、思ってませんでした。 このカレー美味しいですね」
柚木崎さんに、昨夜の残りのカレーを食べてもらった。
「何だ、俺の取り越し苦労か……」
「いえ、そうでもないです。 採算取れれば、問題ないんですけど、はは。 最悪、手出ししようと思ってました」
えっ、いくら手出し、するつもりだ?
家庭科室の備品で作るなら、機材は要らなかったが500人用なら、業務又はイベント向けで大型鍋やプロパンガスのレンタルをしなければならず、費用が大幅にかさむ。
500人分の紙皿や使い捨てスプーンだって、購入しないといけない。
肉と米以外の食材や調味料だっている。
「えっ、生徒会から予算を出しては?」
「今回は、そもそも、イレギュラーで前例が無い上に、わざわざその予算承認で、全校集会開く余裕無いよ。 うちは、体育祭と翌日から文化祭を抱き合わせてやるだろ? 予定が詰まってる」
そうだ。
体育祭と学園祭セットでやることで、それぞれのイベント準備をスマートにして、より学業や部活動に打ち込み易くするって、今年からそうなるから、結構、今、生徒会も忙しい。
「えっ、でも、ですよ。出店費用を手出しなんてしたら、後で収支報告書がおかしくなりません」
「仮受金で通したら、大丈夫」
「生徒会の予算には、敢えて手を出さず、あくまで……生徒会役員の自腹による手出しなんて」
渋る私に、氷室さんは言った。
「あの狸の事だ、何か、たくらんでいるのかもな?」
「えっ、たぬきってどこに……」
「学園長の事だ……」
氷室さんの意味深な物言いが不可解で解せなかったが、柚木崎さんは私に心配しなくても良い言って、その日の話しはそこまでとなった。
※
「おう、嬢ちゃんじゃねえか」
「お久しぶりです」
あれ、何で竹中さん。
月曜の昼休み、私が学園長に呼ばれて、一人で学園長室に行くと、そこに竹中さんの姿があった。
「よく来たね。懸さん」
「はい、お呼びでしょうか?」
そう言えば、氷室さんが学園長はたぬきだと言っていたが、本当に呼びつけて来るなんて、どういう了見だ。
呼ばれたのは、私だけで、今回せめて菅原先生くらい、一緒に同席して欲しかったが。
竹中さんの姿には、救われた。
「実はね、折り入って頼みがあるんだよ。君が、竹中さんの頼みを快く引き受けてくれるなら、生徒会の出店に、僕の手出しで50万円出資してあげるよ。勿論、採算が取れたら、全額返して貰うけどね」
何だと。
まさか、わざとか。
「学園長、無理強いするつもりはねえ。 俺はあくまで、誰でも良いから口利きを頼んだだけだ。 嬢ちゃんに、そんな事……」
「竹中さん、良いんです。渡りに船です。 それに、私は、竹中さんのお願いなら、何でも聞きますっ。 学園長、もう、私に提示したんですから、今更、無しは、無しですよ」
私は、内容も聞かず、話に飛び付いて、その場で、学園長に出資50万円の約定を取り付け、竹中さんと共に学園長室を後にした。
「嬢ちゃん、学校は良いのか?」
「はい、午後は体育祭の合同練習なんで、願ったり叶ったりです」
炎天下の中、集合や行進、マスゲームの練習何てこっちから願い下げだ。
「じゃあ、すまんが、これから大鏡公園に着いてきてくれ」
ん、校外じゃないか。
「えっ、こ、校外ですか?」
「あぁ」
ヤバい。
一人で、行って良いものか?
まぁ、たまには良いか。
大人しくしてれば、前も氷室さんと柚木崎さんから逃げ出しても、無事だった。
魑魅魍魎みたいなのが来たときも自分で祓えたし。
私は、竹中さんの軽トラで、大鏡公園に向かった。
関係者許可証を掲げて、公園内にゆっくりと軽トラで入り、池から少し離れた雑木林の前に車を停めて降りると、そこには、ソウさんと初めて見る、ソウさんよりも若い男の人がいた。
「おう、嬢ちゃん。親っさん、本当に連れて来たのか?」
「おうよっ。俺に二言はねえよ。 シュウっどうだ?」
「ダメだっ。マジやめとけって。 何、女子高生なんて連れて来てんだよ。 血迷ってんなよ」
何、この人、口が悪い。
竹中さんとソウさんは、粗っぽいけど、口悪くないのに。
「えっと、私、何をしたら」
「嬢ちゃん、ちょっと、来てくれ」
竹中さんに連れられて言った先には、【KEEP OUT】と扉部分にテープで閉じられたちんちん電車の車輌 があった。
確か50年前まで運行していた路面電車、通称ちんちん電車、私が生まれる前からこの状態で、何故か撤去される事なくここに残り続けている謎の遊具。
扉と窓口部分は板張りに張り替えられ、そこに不自然に外の光景の絵を描いていて、中は見えず。
扉は開かずの扉だが、老朽化により、扉の先の床が抜けており、実は中に入れるのだが。
「えっ、これ、どうしたんですか?」
「実は……駆が入って出て来ねえ」
ん?
「は?」
「俺の息子が出て来ねえんだ」
「えっ、嘘」
私は慌てて、ちんちん電車の運転席横の乗降口に潜り込んで見上げて言った。
「えっ、嘘。床が抜けてない」
「4年前に市で、床が抜けてる事を把握した職員が業者を手配して、閉じてんだ。嬢ちゃん、中に入ったことあるのか?」
……いや、底が抜けてる事は、知ってはいたが、中に入った記憶はない。
私はここは遊ぶエリアじゃないから、行ってはいけない区域で、生身で立ち入った事はない。
でも、もしかすると。
そもそも、だ。
4年前、分魂した私の核は、レンズサイドでの殆んどの記憶で作られているから。
もしかすると。
私は心の中で、名を呼んだ。
【チビりあ】
【チビりあ】
2度呼んでみたが、返答はない。
どうしよう。
諦めて、この上は、レンズサイドに切り替えて、中を探ってみようか?
【チビりあの薄情者】
【誰が、薄情だって?】
すぐ隣で声を聞き、私は驚いて、飛び退いた。
「嬢ちゃん、どうした、急に」
竹中さんが、驚く私にそう声をかけた。
チビりあが、見えて居ないから、さぞ私の挙動が不可解に見えただろう。
「いえっ、気にしないで下さい」
【チビりあごめん。この電車の車輛の中で遊んだことある?】
【あるわよ。りゅうとりょうと一緒に動かしてよく遊んだ】
そっか、思ったより、がっつり遊んでいたと言う事実に驚愕だわ。
【ねえ、中に何か視える?】
【自分で視なさいよ。吹き抜けじゃない】
【えっ、板張りに張り替えられてるじゃん】
【レンズサイドで視たらガラス張りよ。運転席で男の子が遊んでる。あっ鐘を鳴らした】
チーン チーン チーン
「何だっ、この音はっ」
「本当に、中にいんのか?」
「うっわ、マジかよ」
ソウさんと竹中さんと知らない男の人が口々に驚きの声を上げる。
私は、咄嗟にレンズサイドに切り替えた。
目の前の板張りのボロボロのちんちん電車は、ピカピカの車輛、扉も窓もガラス張りに視えた。
でも、次の瞬間、ちんちん電車は走り出した。
はっ
私の傍らを走り抜けて行く。
すれ違う間際、運転席には確かに、見えた。
この前、一緒にメリーゴーランドに乗った、ソウさんの息子。
駆君だった。
「チビりあっ、あの運転席の子。 何でこんな真っ昼間にレンズサイドにいるのよ」
もう、レンズサイドだから、お構い無く、私はチビりあに尋ねると、チビりあは言った。
「人の子は7つになるまでは、神の子だからね。……でも、まぁ、おかしいと言えば、まぁ、おかしいわね。 あぁ、分かった。 りりあ、あの子……私と貴方の涙を持ってる」
えっ、私とチビりあの涙って?
チビりあは私の手を引き、地を蹴った。
チビりあに手を引かれ、空を飛び、電車を追った。
「チビりあ……手伝ってくれるの」
「違うわ。あれは、ワタシと貴方のものよ。 放って置けない」
※
チビりあは、ちんちん電車に追い付くと運転席側の窓を叩いて声をかけた。。
「ねえ、君、何処を目指しているの?」
「イブノトコ……。おネエちゃん、パパのオトモダチ……」
お、おう、覚えていたか。
「イブノトコ、どこなのそれ?」
「おネエちゃんも、ノッテ。 イクヨ。 イブノトコ、イブノトコ」
イブノトコとは……。
チーン チーン チーン
不意に、ちんちん電車の鐘が鳴り、車輛は止まると昇降口が開いた。
私は、チビりあと一緒に電車に乗り込んだ。
「ゴジョウチャアリヤトゴザイマス、ツギは、イブノトコ、イブノトコ」
はいテンションだな。
「楽しいっ」
チビりあは、ノリノリで運転席の後ろの席に着いた。
私は、運転席の所へ行って、駆君に話しかけた。
「駆君、イブノトコって、何処なの?」
「えっとね。 ママとメリーゴーランドのとこにイッテルノ。オトウサンのオチゴトおわったら、 イッチョニ、カボチャのバチャにノルノ。 どこかな、チェリブロム」
イブノトコは分からないが、どうやら、それは……。
「もしかして、そこって、私とこの前、メリーゴーランドに、おうまさんに乗った所?」
私の質問に、駆君は破顔の笑みで頷いた。
「だったら、逆方向……だよ」
私は、駆君に指示を出して、チェリーブロッサムへと駆君を導いた。
誰も居ない、私達三人の世界。
車も走っていなければ、人も歩いていない。
昼日中の街中で、あり得ない。
事なのに。
明るい街中のレンズサイド。
嫌いじゃない。
「私と貴方の涙が燃え尽きてく」
チビりあが言った。
「えっ、どういう事?」
「特別な涙だから、特別な力があるの。 本来なら、この子の力じゃ、ここまで出来る筈ないの。 私も貴方もかなりの力を使って、この車輛に乗り込んだ。今は、涙の範囲内だから、私達も涙の力で自分を保ってる。 涙の力が尽きれば、車輌は消えて、元に戻る。 その子から、目を離さないで。 特別な状況だから、下手すると、私は実体が無いから良いけど。 分かるわよね? 空を飛んでるの。 ここで生身に戻ったら、貴方とその子は、ただじゃ済まないから」
やめてよっ。
嘘でしょ。
「後、5分はかかるよ。チェリーブロッサムって桜木町の商業区域を目指しているのっ」
「そっか、じゃあ、何とかしてあげる。仕方ないわね。私の肩に手を乗せて、私から手を離したら、置いていくわよ」
私は、チビりあの背に手を乗せた。
チビりあは片手で車輛の手すりを掴み、もう片方の手で、駆君の肩に手を置いた。
※
チーン チーン チーン。
「イブノトコ。イブノトコ。 ツイタッ」
メリーゴーランドの前の待合室のベンチの前で車輛は停まり、そこには、ベンチに横たわった女の子がいた。
「イブ、イブ。 イブキっ」
ん、イブキ?
駆君の呼びかけに目を覚ました女の子に見覚えがあった。
セイさんの実家で、夕食をご馳走になった時、フルーチェ食べてた。
セイさんの娘さんだ。
「カケル……わぁっ、チンデンチャ」
「ノッテ、ノッテ! チュッパツ スルヨ」
いや、すんなよ!!
「わっ、もう、だ……うぎゃ」
駄目、危ないと言おうとしたのを、チビりあにみぞおちに肘を入れられ、悶絶した。
「カケルクン、電車は地面を走ろうね。 メリーゴーランドの回りを走ろうね」
チビりあが優しい声色で言った。
「うん、わーい」
「カケウ、ワタチモ……」
駆君が奥に詰めて、息吹ちゃんと並んで、しばらくメリーゴーランドの回りを走って、やがて、電車は消えてしまい。
私とチビりあと駆君と息吹ちゃんがメリーゴーランドの前に残された。
チーン チーン チーン
最後に聞こえた鐘の音が、まるで私達の降車を惜しんでいるように聞こえた。
「息吹っ」
そして、セイさんが青い顔で立っていた。
「ママっ、かけう、来たよ。チンデンチャで」
「息吹きっ、何処に言ってたのっ。 ベンチで寝てたのに。隣にいたのに、急にいなくなって。 えっ、駆に、りりあちゃん?」
私は、どうして良いか戸惑っていると、背後から、声をかけられた。
「君、何者?」
知らない男の人だった。
私にいきなり、その質問は、おかしいはずだ。
チビりあに聞こうと思ったが、チビりあが居ない。
消えたのか。
半袖の白のY シャツに、紫色のベストのサマーセーター、白のジーンズを着たオフィスカジュアル姿の音この人だ。
「貴方は?」
「もしも、君が着ている学園の特別クラスなら。僕の名前に、覚えはあると思うけど」
「でしたら、特別クラスです。えっと、駆君を探してました」
「君が誰だか知らないけど、学園長に頼まれたの?」
「はい。あの……ごめんなさい。 駆君がどうしても、息吹ちゃんとここに来て、一緒に電車に乗りたいって行って」
「こっち来て……。セイさん、駆君がここに居ること、ソウに連絡してあげて」
男の人は、私の手を引いて、その場を離れ、私を……あろう事か。
氷室税理士事務所の隣の、菅原 慶太一級建築士事務所に招き入れた。
前、来た時は、こんな事務所無かった。
何か、真新しい感じの綺麗なオフィスだ。
「社長、どちら様ですか、そのお嬢さんは」
「うん? あぁ、ちょっとね。 応接室使うから、後でオレンジジュース持ってきて」
私は手を引かれたまま、応接室に入り、そこでやっと、手を離して貰えた。
「えっと、ごめんね。 あんま、部外者の前で色々話せないと思って。 えっと、とにかく。 ありがとう、僕は」
「菅原先生の宿主さん……」
「何だ、もう分かっちゃった。君は?」
「私は、懸 凛々遊【あがた りりあ】。私も、特待生……です」
「君が。 そうか。 チトセから、話しは良く聞いていたよ。 そうか、それは、本当に」
何故か、菅原 慶太さんは、両手で顔を覆って嘆いた。
「申し訳ない事をした」
えっ、どういう事だ。
「えっ、あの、どういう事ですか」
「君、今、一人だろ? 僕は、ソウ達に、若葉学園に相談するよう言ったんだ。 出張で飛行機で羽田を出たばかりで流石に手立てが無くて、要や遥に頼むより、大鏡公園の場所的にその方が良いって、直接、千都世に頼めば良かった。菅原を頼れって、言えば良かった。よもや、生徒に頼むなんて……学園長……」
「えっ、何をそんなに後悔してるんですか?」
「君、自分の屋敷の敷地と学園の内を除く場所で一人で行動しちゃ行けないって、言われてたのに。 君、今、1人だろ? 付き添いの生徒が来るのを待たずに出て、今、学園、大騒ぎだよ」
「はっ」
えっ、聞いてないよ。
言われてないもん。
「うっそ。えっ、じゃあ、まさか、あの……この隣の、事務所の看板の名前の人も……」
「血相変えて、二時間前に出て行ったの、うちの事務員が見てる」
えっ、今何時だと腕時計で確認して、驚いた。
15時半だと。
駆君が行き先が分からず、荒戸大橋を渡った先の博多湾の見えるとこまで行ってたから、時間かかったもんな。
※
私は、学園に事の次第を連絡しに行くと菅原さんは部屋を出ていき、入れ替わりに、事務員さんがオレンジジュースを持ってきてくれて、ご馳走になった。
しばらくして、戻ってきた菅原さんは、暗い顔で私に言った。
「これから、学園に送るよ。 僕も一緒に話すから、君に迷惑をかけるつもりは無かったんだ。 本当にごめん」
「えっと、その……だ、大丈夫です。わたし、後悔してませんから」
そう答える私に依然として、菅原さんの表情は暗かった。
「りりあちゃん」
外に出ると、セイさんとソウさんがそれぞれ、息吹ちゃんと駆君を連れて立っていた。
「嬢ちゃん、駆見つけてくれてありがとな。 何か良く分からねぇけど、走り回って、ここまで連れて来てくれたんだろ?」
「破滅的な方向音痴なのに、大変だったよね?」
どちらも、違う。
特に破滅的な方向音痴は激しく否定したいのだが。
レンズサイドについては、口外できない、この上はもうそれで良いか。
「ソウさん、すみません。戻ってこれなくて」
「良い、気にすんなっ。……菅原、嬢ちゃん連れて何処に行ってたんだ」
「軽く脱水症状起こしてたから、オフィスで休ませてた。僕の母校の生徒だったから、学校に連絡して、送ってあげるところだよ」
「嬢ちゃん、菅原の通ってた学校の生徒なのか?」
「はい。そのようで……」
「今度、改めて、礼をさせてくれ」
「ごめん。ソウ、急ぐから」
菅原さんはそう言って、話を打ち切るように歩き出した。
「オネエチャン、アリアトネ。チビアもアリアトネ」
「チビアもアリアトネ」
駆君と息吹ちゃんが口々に言った。
チビア?
チビりあの事か?
私は、思わず周囲を見渡すと物陰に隠れたところに、恐らく菅原さんに視えることを案じたチビりあがこそっと手を振っているのが見えた。
私も、二人に手を振って別れた。
「懸 凛々遊【あがた りりあ】。 悪いけど、協議の結果ね。 君の保護者のたっての願いもあって、一週間 非公開の自宅謹慎を言い渡す」
何ですか、非公開の自宅謹慎って。
私の保護者のたっての願いの件も釈然としない。
学園に着くなり、柚木崎さんにさえ、車を降りるなり、駆け寄ってきて。
「何で僕が来るまで待てなかったのっ」
って、抱き締められて。
学園長室では、閻魔降臨の勢いの氷室さんから、 頬を引っ叩かれる と言う公害処刑に遭った。
目の前で、菅原 慶太さんと、菅原先生と、氷室さんの三人で大喧嘩始めて。
学園長に柚木崎さんを見張りに付けられ、外に出された揚げ句、そこでまたまた、くどくどと、柚木崎さんに恨み言云われながら、誰もいない生徒会室で抱きしめられ、キスもした。
キスは、最近、してなかったので嬉しかったが。
何かいつもより、やらしいキスだった。
膝の上にのせられて、背中に腕を回して来て、背中のシャツをスカートから抜き出して、そこから上着の中に手を入れて来て、ブラのホック外されるかも……とはらはらしていた所で時間切れだったのは、幸いだったと思う。
校内アナウンスで呼び出されたんだ。
柚木崎さんに、乱された制服を整えて学園長室に向かうと、菅原さんも、菅原先生も、氷室さんもしかめっ面でこの処分だ。
「懸さんは、この処分に依存は?」
「それをお答えする前に、1つだけ、確認しても良いですか?」
「良いよ、聞こう」
「学園長から、いただいた約定は有効ですか?」
「あぁ、今になっても、君、そこに、こだわるのね……。まぁ、だったら、有効だ。 懸さん、この処分は君の経歴には乗らない処分だから、安心して謹慎の後、また学業と生徒会活動に取り組んでくれ」
「分かりました。この度は、もう……し、訳ございませんでした」
私は、最悪、50万円の約定を得たことで、全ての事に納得しようと心に決めた。
※
「僕が発端で君に、悪いことをしてしまって済まない」
「悪かった。 所用で校外にいたばかりに、君に慶太の頼み事が降りかかるなんて思いも寄らなかった」
「いいえ、お二人とも、良いんです。 ……菅原先生」
「何だい?」
「私の悪いところは、私が一番分かってないといけないこと、です。 だから、ちゃんと反省します。 菅原さんも気にしないでください。 今日のお願い事、わたしが行けてほんとうに良かったと思ってます。 だって、駆君も息吹ちゃんも両方の事知ってるの、この学園で私だけだったんですから。 だから、良かったんです」
私は、その後、首根っこひっつかまれて、車に放り込まれた。
誰にって?
氷室さんしか、居ない。
あぁ、どうしよう。
卵が後、三個しかない。
牛乳は、開けて無いのが一本あるけど。
私、買い物連れて行って貰えるだろうか?
ワンチャン。
【一週間分の買い出しだ】って、スーパー寄ってくれないだろうか?
えっ、いつもより、かなり早く、もう屋敷の前だよ。
断食させるつもりか?
車は外門の中に入ったところで止まった。
「降りろ」
「はい」
このまま、駐車スペースに行くこともなく、帰るつもりかと荷物を持って車を降りた。
そして、車を降りてドアを閉めると車はU ターンして、外門を出て行った。
「もしも、わたしがさ、この門を出ていったら元も子も無いのに、よく置き去りにするよね……バーカ」
私は、悔し紛れにそう言って、とぼとぼ家に入って、荷物を部屋に片付けて、台所に向かった。
昼食食べ損ねていて、朝から何も食べてなかった。
そう言えば、大体、夕食は作り置きしているから、買い物しなくても、飢えないって分かってるんだ。
牛乳は、明後日には、飲みきるだろうけど。
水道ひねれば、飲み水が出てくる便利な国だもんね。
ここは。
※
「ばかか……お前は」
意味わからない。
今、何時だ。
ここ、どこだ。
「…………」
分からない。
「おい、りりあ。 りりあ」
氷室さんの声に目を開けた。
冷蔵庫開けたけど結局、何も、食べられなかった。
ずっと、ずっと。
一緒に、氷室さんが食べてくれてたから。
もう、いつ。
この前、ここで、ひとりでご飯食べたか思い出せなかったから。
もう、食べられなかった。
一人で。
水くらい⋯飲めば良かったかも、知れないが、もう、何もかも、嫌だった。
「…………ひ、……とりぃは、嫌」
氷室さんが居る気がする。
あれ、もう一週間経ったのかな?
頰に人の手の感触を感じる。
人恋しかったから、嬉しくて、笑みが溢れた。
頬に当たる手をもっと強く感じたくて、私は力を振り絞って、手を差し伸べて、その手を自分の頬に押し当てた。
「氷室さん…… いるの?」
「あぁ、そうだ。俺だ。 俺がいる。 りりあ。⋯⋯そうだ⋯な、一人にしたら、意味ないな。 嫌だったな……。悪かった。 俺は、お前を⋯⋯叩いた事さえ、謝れなかった。 後悔⋯⋯している⋯⋯」
暫く眠って、起きたら、救急病院で点滴されていた。
脱水症状で、念のため、夜運ばれて朝まで半日入院した。
氷室さんは私を置き去りにした明くる日の夕方、屋敷に立ち寄って、倒れた私を見つけたらしい。
氷室さんは、いつもの仏頂面で退院するまで私に付き添って、仏頂面で退院する私を車に乗せた。
「何か買うか?」
「いいえ。家に帰れば、食べ物は沢山在るのに……すみませんでした」
「…………そうか」
「私、分かっている……つもりです」
「…………何をだ?」
「一人で、出歩いては…………いけなかった。 私、ついて来てって柚木崎さんに頼むべきだった⋯。 一人にならない。 それを守れなかった私を、氷室さんが許せないのも、分かっています」
「…………もう良い。 お前が、いなくなるなら、意味が無い。保護者として不適切だった。 俺は、お前のそばに居る」
その後、氷室さんは、わたしと家でご飯を食べて、謹慎明けまで、数度、短い外出はあったが、それ以外を全て、私の居る家で過ごした。
ご飯は、必ず一緒に食べてくれた。