謹慎明けの朝。
いつものように。
まるで、何事も無かったかのように。
私は、朝の身支度を済ませて、氷室さんの車で学園に登校した。
ところが、氷室さんが車を学園の駐車場に停めて、私と一緒に車を降りるから、驚いた。
「えっ、氷室さん?」
氷室さんが何か言いかけようとしたが、校舎から声をかけられ、聞けなかった。
「懸さん」
「りりあ」
菅原先生と柚木崎さんが駆け寄って来た。
私は、嬉しくて二人に言った。
「菅原先生、柚木崎さん。おはようございます」
一週間振りに会えて嬉しかった。
「おはよう、氷室さん。りりあは、大丈夫だったの?」
引きつった表情の菅原先生がそう言うと、今度は、柚木崎さんが後を続けた。
「救急病院に一晩入院したって聞いて、心配してたんだからね。 氷室さんが連絡して来て【頼むから、りりあと一緒に居てあげて欲しい】って、さ。僕も、菅原先生も頼まれたけど。 もうさ、一番今回の事で、反省して欲しいのに、全然分かろうとしない分からず屋の頼みなんて、聞けないよ。 みんなの説得を完全拒絶して、りりあを苦しめてさ。 何やってんの? って、思ってさ。 断わって本当にごめん」
何のごめんだよ、柚木崎さん。
謝罪にかこつけて、氷室さんへの非難じゃないか。
「少しは懲りた?」
菅原先生が言った。
「あぁ、懲りた。悪かった⋯⋯」
氷室さんは、そう言って、車に乗り込み、帰って行った。
⋯⋯氷室さん。
もしかして、二人に謝る為にだけ、車を降りたのか?
「ヒッキーが謝った⋯⋯」
菅原先生は、呆然としていた。
柚木崎さんは、スッキリした顔で、その場を立ち去り、私は菅原先生に連れられて、学園長室に連行された。
まだ、何かあるのか。
「そうか。菅原先生と柚木崎君に謝罪して帰ったか」
「はい。最初は、耳を疑いましたよ。後で、慶太にも、今日の事を、伝えておきます。きっと、驚きますよ」
「はは、それが良い。 懸さん⋯ 僕は、正直、昔の教え子であるだけじゃなくて、10歳の頃から成人するまで、彼の未成年後見人を務めたけどね。 諦めてたよ。 彼の意固地には。 だから、今回、君には、学校を休んで貰ったんだけどね」
そう言って、学園長は改めて、また私に呼びかけた。
「懸 凛々遊【あがた りりあ】さん」
「はい、何でしょうか?」
「彼の事、宜しく頼む。本来は、彼に君の保護監督を頼むべきところなのに。彼は、人と関わりを持つのを恐れて生きて来たんだ」
【何を言い出す】と思ったが話はまだ続く。
昔ね、彼女のお姉さんの前で、龍の姿に変わってしまった時、お姉さんに泣かれてしまってからずっと。
良い年して、私は未婚でね。彼の親代わりなんて、一世一代の僅かな子育てを経験した手前ね。
なのに、子供を見せるどころか、結婚もしない彼に。どれだけ、痛々しい想いをさせるんだって。
文句の一つも言いたいのに。
「⋯⋯もうね。そう思ったら、言葉が無いよ」
その割には、随分熱弁してましたけど。
何て、突っ込みはナンセンスだ。
何か、小舅じみた愚痴を始めたが、中々普段知り得る事のない、氷室さんの貴重な過去をゲロってるし、黙って心ゆくまで聞いた。
※
「りりあちゃん、家庭の事情で、一週間も休むなんてどうしたの?」
「何か、大変な事が、あったの? ママもパパも、聞かないであげてって、教えてくれないどころか、りりあちゃんに聞いちゃ駄目っていうんだよ」
鏡子ちゃん、言ってることとやってる事が激しくかけ離れているよ。
もはや、すべすべ通り越して、つるつるだよ。
口の軽さ。
「の、ノーコメントで。 ね、ねえ、学園祭のカレー屋台の予算の事だけど、何か聞いてる?」
私の質問に、セイレンちゃんが困惑気味に答えた。
「あっ、うん。何かね、今週の土曜、その事で生徒会役員全員、チェリーブロッサムに行く事になったんだって」
何だ⋯⋯それは。
放課後、柚木崎さんに、セイレンちゃんから聞いた話の事を尋ねると。
「あぁ、この前のお礼がしたいから、おいでって、詳しい事は、鏡子っ、要さんが何か言ってたんだろう」
「はい、ママのスマホに連絡が来て、私が生徒会の会計しているって話しをし出して、ママがスマホ渡してきて、ダンディな男の人が電話に出て、カレーの屋台の為の機材の貸し出しや、資材の調達について、相談に乗ってくれて、何かさっき、郵送で届いたって、菅原先生から、これを貰いました」
そこには、2週間後に迫ったカレー屋台に必要となるプロパンガスや業務用機材、カレーの器やスプーンの資材の見積もり書が記載された資料だった。
差出人は。
菅原 慶太 一級建築士事務所 方
冬野 総一郎
ん、まさか。
私、ソウさんのフルネーム知らないけど。
多分、そうだよね。
ってか、何で菅原さんのとこを経由してんだ。
「私が話したけど、その人、何で、こんなに親切に私達の事、助けてくれるのかな?」
鏡子ちゃんの言葉に、私は柚木崎さんの方に目を逸らしたが、柚木崎さんは、逆に私の方を見つめて来た。
「⋯⋯そうだね。心当たりがあるのに、わざとらしく、目を逸らす、張本人に聞いてみようか? ねえ、りりあ」
バレてた。
※
私は、先日の騒動の全貌をみんなの前で全部話した。
「りりあちゃん、大変だったね」
セイレンちゃんが労いの言葉をくれた。
「少しは、昔の自分がどんな性格だったか、分かって良かったな。本当に、今とは、別人みたいだったろ」
「まぁ、はい」
昔の自分を知る宇賀神先輩は、嬉しそうに語った。
「りりあちゃんの涙、消えちゃったの。勿体無いな」
鏡子ちゃんは、本当、げんきんだな。
「⋯⋯りりあ。後で、話があるから、今日は氷室さんのお迎えに僕も同乗させてもらうね」
「えっ、はっ⋯⋯」
「どうせ、週末の外出許可が要るだろ? 良いの?
絶対、説得出来る自信ある?」
「⋯⋯無いです。 オネガイシマス」
その日は、そこまでで、立て込んでいる生徒会業務に徹した。
宇賀神先輩は、ことセイレンちゃんにはダメダメだが、仕事は優秀に粉していて、殆ど仕事は溜まって無かった。
私の代行業務全部やって来れていたのだ。
それでも、これからの業務にやらないといけないことは山積みで忙しかった。
「なぜ、柚木崎まで、来る?」
「ちゃんと今回の事の顛末を、聞いてます?
僕は今日、生徒会のみんなでりりあから、聞いてますけど、氷室さんには、話して無いってりりあが言うから。 お節介なら、おいとましますが?」
「そうか。黙って乗れ」
私と柚木崎さんは、氷室さんの車に乗り込んだ。
私は、いつも後部座席の助手席側に乗り込むのだが、柚木崎さんは、迷わず助手席に乗り込んだ。
この地に連れて帰って貰った時、みたいだった。
もう、半年が経とうとしている。
考えてみれば、色々あったと、感慨深い気持ちにさせられた。
「外で夕食を摂って、柚木崎を大鏡神社の前で降ろす。 依存は無いな」
そう言って、氷室さんが車を停めたのは、平和樓と言う、地元の老舗中華料理店だった。
昔、両親と年に一度、山笠と言うふんどし夏祭りがあり、飾り山と言う大型みこしが天神と中洲川端の随所に飾られるのを観に行く帰りに、外食でよく連れて行って貰った。
懐かしい。
このお店は、そのお店の支店だから、ここは初めて来るけど。
「僕、ここ好きですよ。氷室さんも良く行くんですか?」
「御霊祭りの時に10年振り来た。 そんなに、頻繁には来ない」
御霊祭り……、その時、きっと家族で来たんだろうな。
「りりあは?」
「5,6年振り……です。天神の本店の方ばかりでここは、初めてです」
ほどなく、私たちは個室に通された。
な、なぜ個室。
「メニューをどうそ」
テーブルに広げられたメニューを開く前に、氷室さんは私と柚木崎さんに言った。
「コースで良いか?」
「はい、好き嫌いはありませんから。僕は良いですよ」
「私も、たくさん色々なものが食べられる方が嬉しいです」
氷室さんは、飲み物のページを捲って、言った。
「飲み物は?」
「僕は、お茶で良いですよ。ご飯に、ジュースはいりませんから」
「同じくです」
そう答えると、氷室さんは、コースメニューの木蓮を店員さんにオーダーした。
3種の前菜 盛り合わせ。
蟹肉入りフカヒレスープ。
エビのチリソース。
鶏肉の北京ソースかけ。
キノコと青菜の炒め
牛肉と彩り野菜の炒め。
やきめし。
杏仁豆腐。
どれも、美味しくて、本題に入るのに、デザートが提供されるまでかかった。
「美味しかった……」
「ごめん、ちょっと、夕食のセンスのインパクトが強すぎて……」
「分かったから、流石に、本題を話せ」
氷室さんは怒るでもなく、淡々とそう言って、私の話す、先週の騒動の顛末に、耳を傾けた。
そして。
「チビりあ……。出てこい」
はっ、私は驚愕した。
だって、氷室さんがまさか、彼女を個室とは言え、この場で呼び出すなんて夢にも思っていなかったからだ。
と、言うか。
氷室さん、分かっていると思っていたが。
自分でも、言ってたじゃないか。
チビりあは、氷室さんが。
氷室さんの事が、大嫌いなんだ。
他ならぬ、誰よりも、絶対、呼んで来る筈が無いだろう。
「りりあ、チビりあを呼べ」
「あ、あのですね。 氷室さんが呼んで来ないのが、問題じゃない……と思います。 私が呼んでも、今は来ない……かな? って、思えてならないのですが」
「そうか。なら、良い。 柚木崎、りょうを呼べ。 俺は、りゅうを呼ぶ。 りゅう、出てこい」
やめてよっ。
ここが個室だと思って、遠慮なく盛大に何を呼び出してんだよ。
「僕の呼び出しは無用だよ。 君の呼び掛けに応じた。何の用かな」
現実に飛び出してきた。
柚木崎さんと切り替わったり、柚木崎さんの肉体を通して出てくると判別に苦慮するから、まぁ、良いか。
だが、問題は。
「服を着て」
私が言った。
「服を着ろ」
氷室さんも言った。
「人を呼びつけておいて、何だ。いっそ、お前らが脱げば」
「黙れ。早く、服を着ろ」
りゅうは渋々、今日は氷室さんと同じ服装に変身した。
同じ服を着てると二人は若干似てなくも無いが、やはり、改めて別人で間違いない。
「りょうはいつも、宮司姿だね」
「うん、気に入ってる」
金髪碧眼だから、似つかわしくないけど、神秘的で、似合わない訳ではない。
「で、僕たちに何の用?」
りょうの問いかけに氷室さんが言った。
「りりあの涙も、かたちが残るのか?」
「何の話しだ」
りゅうが答えた。
りょうと氷室さんの会話だったのに、割り込んで喰い付くのには、何か思うところが、あったからだろうか?
「子供がりりあの涙を拾って、昼間に、大鏡公園の電車を動かした。 りりあの涙も、特別なのか?」
「デンシャ⋯⋯」
りゅうは、電車が分からないらしい。
「チーンって鐘の鳴る、走る部屋⋯っで、分かる?」
「あぁ、覚えてるよ。前に3人で海まで行ったよ」
りょうがそうりゅうに言うと、りゅうも何の事か理解したようだった。
「あぁ、あれか。⋯⋯で、涙の話か。なら、お前も、俺も、みな同じだ。 命が千切れるほど振り絞って流した涙は、カタチに遺る。 お前も流した事があるだろう。 りりあのも、遺ったのなら、そう言う事だ」
私とチビりあの特別な涙と、チビりあは言った。
私とチビりあが別れる前の涙だと言うなら、それは、一体、いつの涙だ。
「チビりあを出せ」
氷室さんは、言った。
呼び寄せる事
が不可能だから、二人にそうさせるつもりで呼んだのか?
「断る」
りゅうは、断言した。
「チビりあをどうするつもり?」
りょうは、尋ねた。
それは、私も知りたい。
「りりあの涙は、何だった。それを聞きたい」
それは、私も知りたくは、ある。
でも、きっと、命が千切れる程、振り絞ってまで溢した時って、それは、きっと。
突然、氷室さんの前に、すっとチビりあが姿を表した。
「その涙は、神の子の洗礼の時のよ。 大嫌い、2度と私の名前を呼ばないで。 おぞましいっ」
って、違った。
てっきり、私は、4年前の時に、柚木崎さんのお母さんを人質に取られた時に流した涙だと、思ってたが。
何だ。
そうか、カミサマになれなくて、私が流した、今はチビりあの一部になった私の涙か。
※
「ご馳走になりました」
「気にするな」
柚木崎さんのお礼に、氷室さんはそう言った。
「ご馳走様でした。また、来たいです」
「柚木崎に頼め」
「メニュー表見ました? 今日のコースは3名からしか頼めないんですよ。 柚木崎さんに頼むのは良いですが、 その時は、氷室さんも一緒です」
私の言葉に、柚木崎さんは吹き出した。
氷室さんは、顔をしかめたが、素っ気ないのは、無しだと思った。
柚木崎さんを大鏡神社の前で降ろし、帰りの途に着いた。
帰りの車中で、ごく自然に柚木崎さんは土曜の用事を氷室さんに報告して、許可を得ていた。
「俺は、チェリーブロッサムの新館の自分の事務所に居る。帰りは、そこまで柚木崎と帰って来い」
行きは、出勤がてら車で送り、帰りは事務所に帰って来いって。
結局、元々、チェリーブロッサムに事務所持ってる話もせず、さも当然のように、帰りの待ち合わせ場所に指定して来るなんて。
釈然としない。
「はい。⋯⋯氷室 龍一税理士事務所ですね」
「お前、知っていたのか?」
「はい。 先週。隣の菅原 慶太一級建築士事務所で、オレンジジュースをご馳走になりましたから。隣まで行った事、あります」
※
当日、待ち合わせ場所のチェリーブロッサムのエントランスで、私達は、ソウさんと菅原 慶太さんの出迎えを受けた。
「えっ、柚木崎の息子さんなの? へぇ」
「はい。柚木崎 亮一【ゆきざき りょういち】です」
「じゃあ、時間が勿体ねえから、この前、俺の電話に出てくれた、会計の子と後二人。手先の器用なやつは菅原のとこ。料理担当は俺に、ついてこい」
急に班分けを促され、セイレンちゃんが料理班が良いと言ったので、私はすかさず。
「宇賀神先輩は、今回、揚げの出番無いので、鏡子ちゃんとお願いします」
と言い放った。
「懸、それは、無いよ」
「宇賀神先輩、セイレンちゃんは一日にして成らずです。少しずつ、歩み寄りましょう。いきなり、至近距離に詰めても、余計突き放されるだけですから」
「りりあちゃん、ありがとう。 百年に一歩でも、近寄らないで欲しいけどね」
結局、鏡子ちゃんと宇賀神先輩と一ノ瀬君の三人で、菅原さん班。
私と柚木崎さんとセイレンちゃんの三人で、ソウさん班。
となった。
柚木崎さんは、手先器用で、料理も上手いが、私の付き添いが必要な為、迷う余地がなかった。
ソウさんが連れてきたのは、チェリーブロッサムの食堂だった。
「材料も調味料も自由に使って良い。足りない材料は、このカードで自由に買って良い。試しに作ってみようじゃねえか? 500人は無理だが、まずは、200人分」
「はっ、良いですか?」
予行練習なんて、思っても見なかった。
だって、不可能だから。
作る道具も、材料費も、場所も。
何よりも、作った後の消費に困るからだ。
「大体、作ってる食堂の夕食は100人分。それに、株式会社ベアローズの社員家族を招いて、カレーパーティーで、100人分、俺から福利厚生の一環で企画した。 迷惑だったか?」
「いいえ、願ったり叶ったりです。ねえ、柚木崎さん」
「えっ、本当に良いんですか?」
「あぁ、嬢ちゃんの為なら、ちゃんと最後まで面倒見てやれって。セイにも言われてんだ。半端はしねぇっ」
ヤバい、嬉しい。
セイレンちゃんも、目がキラキラ輝いていた。
「宜しくお願いします」
※
「分量計算を200人分にリテイク完了」
「じゃあ。みんな取りかかろう」
「不足分の材料は、セロリと香辛料か……。嬢ちゃんがレシピ作ったのか?」
「はい」
「香辛料は、流石にここのを使ったら、調理場の奴等が困るから、全部、買ったのを使う」
「はい」
「じゃあ、売場に案内する、行くぞ」
柚木崎さんに、目をやると。
「この敷地内なら、大丈夫だから、行って来て。僕は、セイレンと野菜の下処理してるから」
と、送り出してくれた。
ソウさんと売場に出て、まずは、野菜コーナーに向かった。
「嬢ちゃん、野菜の発注はここに頼め。今日の買い付けも、ブーストして、当日の大量購入に、俺とセイからも口利きしてやる。他で買うより断然得だぞっ」
「はいっ」
私は、セロリの調達を終え、香辛料の調達に向かった。
「流石に200人分のカレーの香辛料は、売場の香辛料全部買っても足りませんよね⋯⋯」
「はは、嬢ちゃんは、どうしても、その香辛料全部使った凝ったカレーをみんなに食べさせるのが、目的なのか?」
……しまった。
本末転倒だ。
「違う。私は、まずは500人分のカレーを作りたい。 スパイスカレー、美味しかったけど、500人分カレーを、教わった通りに作るのは無理だし、駄目だ」
「ふ〜ん、何が駄目なんだ?」
「高校生の私が、やっとデビュー出来た辛口で出したら、子供は無理だ」
今更、真性の親馬鹿の両親のカレーの優しさが身に染みた。
ソウさんが社員の家族を呼ぶと言ったとき、きっと子供も来ると思った時から、引っ掛かってきた。
氷室さんのカレーは、家でこれから、自分の食事の為に大事に作って食べよう。
「じゃあ、市販のカレーのるうは、食堂にストックがある、気に入ったら、本番の時、発注は任せとけ、格安で卸してやる」
「……お恥ずかしいです」
※
「あっ柚木崎さん、人参は剥いちゃダメです。量が減りますし、手間が増えます」
私は、調理場に戻り、野菜のカットに取りかかった。
「りりあちゃん。玉ねぎの千切り上手く行かないよ。最後がきりにくいよ」
「大丈夫、切りにくいのは、煮込みように回して」
野菜は、玉ねぎと人参とセロリに絞った。
「りりあ、人参の大きさどれくらいにする?」
「今日は煮込みに時間が取れないのと、小さなお子さんも来ると思うので半月に割って、薄切りで」
私は、適度に指示を出しつつ、1時間かけてカット作業を終えた。
合間に、まず最初に取りかかったセロリと玉ねぎの千切りを牛脂を溶かした大鍋で茶色になるまで炒めた。
そこに、大きめに切った玉ねぎと人参を入れて炒めて、具の三倍の量の水を入れて煮込む間に。
にんにく醤油で下味をつけた鶏肉と、豚の細切れ肉に生姜醤油とラーメンたれで揉み込んだものを、それぞれ小麦粉をまんべんなくまぶしたとものをオリーブオイルで焼き色が付くまで、炒めて。
仕上げに、赤ワインで風味付けして、野菜を煮立てた鍋が沸騰したタイミングで投入した。
やってみてわかったが、200人分でも、肉の焼き付けはフライパンで三回同じ一連の作業が必要だったので、当日は結構な手間になる。
それも、当日の肉は。
「猪肉……じゃな」
思わず、そう呟いたのをソウさんは聞き漏らさなかった。
「はぁっ、いのししで、作るのか?」
「はい、そもそも、猪肉を30キロ。消費するのに、迫られての、今回のカレー作りなんですよ」
「そんな難しい食材で挑むなんて、都会育ちの高校生には、酷だな」
「私、四年間は四国で山暮らしだったんで、それは良いんです」
「……肉は、赤ワインで煮込んで使うつもりです。 でも、流石にレンタルの機材でレンタルのプロパンガス使ったら……ガス代が」
「だったら、予定教えろ。猪肉は、それまでに取りに行く。猪肉は、ここで煮込め」
「そんな、流石に悪いですよ」
「今日、ここでカレーを作る謝礼だ。 今日、ボランティアでカレーを作るお前達への、な?」
「ソウさん。何から何まで、お世話になります」
「気にすんな」
※
夕方16時。
無事、カレー200人分が出来た。
チェリーブロッサム御用達のカレールゥで基本を作り、ソウさんの助言を得て、何とかみんなで納得の行くカレーの味に行き着いた。
「問題は、当日、500人分のカレーでこの味を再現出来るかだね」
柚木崎さんの言葉に、ソウが言った。
「だから、今日のこの味を忘れんな。答えは、コレだ。 どんなに迷っても、この味まで持ってくれば良い」
「そうですね。本当にありがとうございました。ここまで、僕達を導いてくれて」
「気にすんなって」
「いや、今更、恐ろしいです。考えが甘かった。本当、僕達、このまま、自分たちで思うように当日を迎えたら、大惨事でした」
「まぁ、その時はその時だぜ? きっと、お前さんも、嬢ちゃんも、他のみんなも、途中で諦めたりしねぇだろ?」
「はい、勿論」
「まぁ、どんなに準備万全を期しても、トラブルは付きもんだから、気を抜くな」
「はは、はい」
ソウさんと柚木崎さんの会話を聞きながら、私はセイレンちゃんと必死になって、今日の味付けの配合を文字に起こしていた。
「えっと、市販のとろけるカレーとジャワをブレンドして。今日使った2.5倍の分量は⋯⋯セイレンちゃん、この分量で書いて」
「分かった。さしみ醤油、入れてたよね?」
何か、本当に至れり尽くせりだった。
後は、食事までとろ火でひたすら煮込むだけ。
17時過ぎに、セイさんが1人でやって来た。
「えっ、どうしたんですか、セイさん」
「ソウがさ、先週、湯布院の実家から10キロ猪肉送って来た時に、私もお裾分けに1キロ貰って、赤ワイン100%で煮込んだ猪肉を冷凍してたんだけど。それ持って来いってさ」
話を聞けば、ソウさんに私に秘伝のずぼら料理を伝授して欲しいと呼ばれたそうだ。
それで、私はセイさんから、猪肉の調理方法を聞いた。
冷凍のブロックであれば、まず解凍して、塩水で血抜きする。
圧力鍋に塩水と猪肉とセロリの葉を手で千切って、しっかり煮込む。
その後、お肉だけ残して、残りは捨てる。
お肉を水にさらして、アクやごみを洗い流す。
赤ワインと塩で、お肉を常温から煮込んで出来上がり。
「えっ、私は最初はさっと湯がいて、それから改めて最初はお湯で煮込んで、あくを取ってからワインを入れていたんですが⋯⋯」
「私、面倒臭がりだっから、最初にぐったりするまで煮込んで、後でアク取りしないで良いように、アクを出し切るまで煮て。後は下味を赤ワインとお塩にお任せして放置よ」
「えっ、楽、むっちゃ、楽じゃないですかっ」
感動する私にセイさんは不思議そうな顔で【えっ、りりあちゃんも、ソウに猪肉貰ったの?】と言ってきた。
私は、事情を説明した。
当初のスパイスカレーを断念した話しもした。
「なるほどね。分かった。ちょっと、待ってて」
そう言うとセイさんは、真空パックに入った1リットルの具沢山野菜スープを2つ持って来て言った。
「あっこれ、私が定期購入してるセイさんのお店の野菜スープですよね?」
「そうよ。これで、そうね。30人分は作れるわ。作りましょ。ソウがね、あなたの作るスパイスカレーが食べたいって言っているから」
セイさんは、笑いながらそう言った。
私は、氷室さんから教わったレシピでルゥを作り、野菜スープと猪肉のワイン煮を解凍したものを、一緒の鍋で煮込み。
新たに、玉ねぎを2玉、千切りにしてオリーブオイルで茶色になるまで炒めたものと、ルゥを入れて味を整えた。
「やだ、本格的ね。 りりあちゃんの秘伝のスパイス、これ、駄目だわ」
「えっ、駄目ですか」
出来上がったスパイスカレーを味見した、セイさんは、かなり深刻そうな顔で俯いてしまった。
「りりあちゃん、これ、ソウに食べさせたらまずいよ」
不味いって。
えっ、まずいの、このカレー……。
「美味しくないんですね……すみません」
「いや、美味しいから駄目なのよ。ソウの商売っ気に火が付くわ。 何、このスパイス配分、ホテルか何かのレストランのかよっ!」
いや、氷室さんのレシピだけど。
そうか、どうやら、美味しくて……で派生するヤバさを懸念してか。
「おっ出来たのか? 俺も味見」
ソウさんの出現に、セイさんはソウさんを睨み付けて、言った。
「ソウ。……今回は、この件で、商売っ気出したら、許さないわよ」
「何、むきになってんだ……」
ソウさんは、出来たスパイスカレーを味見して、私に向かってさらっと言った。
「さっきのレシピ……もう一度、見て良いか?」
「良いですが、氷室さんのレシピなので、著作権的なものは、氷室さんにあります」
ソウさんは、にんまりして言った。
「そうか、じゃあ、本人にちゃんと許可を取るか」
結局、全然、商売っ気出して、セイさんは、項垂れた。
結局、別鍋でそれも、家庭科室で一番大きな鍋で作れば、スパイスカレーも販売出来る事になった。
ただし、スパイスカレーの下ごしらえを簡略するため、野菜は、玉ねぎを炒めたもの以外は、セイさんの惣菜店の野菜スープを買い取りで使う事になった。
それでも、今回の屋台出店の出店費用は充分おつりの出る金額に収まった。
なぜなら。
「りりあちゃん、菅原さんが、カレー皿とスプーンを建築事務所で出る良い素材の廃材大量にくれて、ここの施設の工芸スペースで作業させて貰えてさ。ママもパパも手伝ってくれて、全部手作りで、皿もスプーンも使い捨てじゃなくてさ。持って帰って、食器に使えて記念になるって。 加工にかかる費用は、菅原さんから、お礼って。 何かね、工芸スペースの管理人の人がのりのりで本当、楽しかった」
「えっ、管理人さん、のりのりなの?」
私が首を傾げて居ると、セイさんが言った。
「あぁ、私の妹よ。 前から、気の廃材で食器作りたいって言ってたから、多分、喜んでたんじゃないかな?」
あぁ、あの人か。
※
鏡子ちゃん達と一緒に、要さんと遥さんの姿もあり。
「お母さんが、カレンさん達も招待してくれたんだ」
何と、鏡子ちゃんとぬきめがねで、脱走したとき、保護してくれたセイレンちゃんのお父さんとの再会を果たした。
「すっかり、娘と仲良くなったね。 あんまり、鏡子ちゃんと悪ふざけしちゃ駄目だよ」
「はい、気を付けます」
後から、竹中さんやこの前、海沿いのモールのチェリーブロッサムで会った市丸さんもやって来た。
「市丸君、久しぶり」
セイさんが声をかけた。
「お久しぶりです。急にカレーパーティー何て、ソウさん、今度は何を企んでいるんですかね?」
「……まぁ、それ以前に、今日、クラウン、誰がマスターしてるの?」
「アニキが行ってこいって、……その新婚だから、たまには、ゆっくりしてこいって」
えっ、新婚なんだ。
「センちゃんは?」
「あなたの妹さんと調理場で、ソウさんの許可を貰ってフルーツポンチソーダ、作ってますよ。僕も、今から、手伝って来ますね」
そう言って、市丸さんは調理場へと去っていった。
「あはは、もう、やぁね。 みんなに、出すのに間に合うかしら」
「私もご一緒してよいですか?」
セイさんは、笑顔で【もちろん】と言ってくれた。
セイさんと一緒に、デザート作りのメンバーと、合流してわいわいきゃあきゃあ言いながら、サイダーがしゅわしゅわ弾けるフルーツポンチを作って、みんなで一緒にカレーとデザートを楽しんだ。
終わったら、氷室さんの所に行くこと何てすっかり忘れていたが、いつの間にか、氷室さんも菅原さんやソウさん達と別なテーブルで夕食を楽しんでいて、わたしはホッと胸を撫で下ろした。
「りりあ。ソウさんから、俺のカレーのスパイスレシピで、今度、チェリーブロッサムのフードコートの方でカレーの店を出したいと言ってきたが。……それは、どういう了見だろうか?」
帰りの車の中で、氷室さんは私に言った。
「どういう了見だろうか?っと、言いますと……」
氷室さんは、淡々と言った。
「俺のスパイスカレーを誉めているのか? それとも、本気でまさか店を出したいのか? と言うことだ」
あぁ、だったら。
「断言はできませんが、本気で店を……だと、私は思います。 すみません。ご迷惑をかけるつもりは、なかったのですが」
私がそう言うと、氷室さんは苦笑いで言った。
「今日、お前が作ったスパイスカレーは、ルゥを入れた後、もう少し煮込まか、時間を追い方が味が馴染むとは思ったが、良くできていた。 トマトに茄子、パプリカまで入れて、具のアレンジも良かった。 気にするな……ソウさんの思い付き癖は今に始まった事じゃあない……」