恐るべきは霞砂港。
軽んずべからざるはしく、眠月川。
その言葉の意味を、本当の意味で知ったのは、あの部屋に住んだあとだった。
大学の研究課題を進めていたある日。
郷土誌の片隅に載っていた、かつて地元で流行した疫病の記事がふと目にとまった。
それをきっかけに、私はずっと奥に沈んでいた記憶がよみがえってきた。
小学校の高学年まで、私は海と森に挟まれた田舎町の、立派なアパートに暮らしていた。
今でもはっきりと覚えている。
そこに住むまでの経緯と、住んでからの出来事の数々を。
あの頃、私たちは父・母・私・妹(門音)の四人家族だった。
妹の門音はまだ言葉もおぼつかず、私は母と交代で彼女の世話をしていたっけ。
始まりは、くじ運の悪さに定評のあった父が、信じられない倍率の抽選を勝ち取り、
そのアパートの1階、214号室の権利を手にしたことだった。
「母さん、聞いてくれよ。前に話してた引っ越しの件だけど、今より広くて、しかも家賃の安いアパートが当たったんだ!」
「まぁ……本当? あなたがクジで? 明日は雪かしら」
「ちょっとひどくないか……?」
父が肩を落とすのも気にせず、私は引っ越しという言葉に胸を躍らせていた。
「お父さん、お父さん、引っ越しするの? 次は大きいお家?」
私の声に反応して、眠っていた門音もぱちぱちとまばたきしながら体を起こした。
「ごめんな、まだお金はないから次もアパートだ。でも広さはかなり違うぞ」
少し申し訳なさそうに言う父の顔を見ても、私はまったく気にならなかった。
ただただ、新しい環境が楽しみだった。
「いいよ! 今より広いんでしょ? 遊ぶ場所もあるの?」
「ありがとうな、鈴。部屋も今の一つから三つに増えるし、かなり広いぞ。それにアパートの前には大きな公園と森もあるから思いっきり遊べるぞ」
「え、すごい! ねぇ門音、引っ越したらお姉ちゃんといっぱい遊ぼうね!」
門音が意味をどこまで理解していたのかは分からないけど、嬉しそうにこくんと頷いた。
「そのためにも、鈴。お父さんと一緒に準備を進めていこうね」
母の声は、いつも通り優しくて、とてもあたたかかった。
「うん! 私、いっぱいお手伝いする!」
引っ越しが決まって私たちはゆっくりと準備を進めていった。そして三ヶ月後、あの214号室へと移り住んだ。
……これは、その部屋で起こった出来事。
私たち家族が、今でも忘れたがっている、そんなお話だ。