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第1話

黒崎くろさきまことはベッドの上で目を覚ました。


見慣れない真っ白な天井。

後頭部に感じる、硬い枕の感触。

ここが、いつも寝起きしている自分の部屋でないのはすぐにわかった。


ずいぶん昔の記憶を夢に見ていた気がするが、覚醒に近づくにつれて次第に薄れていくの中のとともに、それは思い出せなくなった。


ゆっくりと視線を動かす。


光の差し込む窓が見えた。

真っ白なカーテンが、窓から吹き込む暖かな風にゆらめいている。


天井だけでなく壁も床も真っ白な部屋。

ドアのすぐ隣には簡素な洗面台と狭いクローゼット。

ベッドの脇には、コの字型をしたキャスター付きのサイドテーブルがあって、その上には、畳んだ三面鏡が置かれているのが見えた。


自分の部屋ではなくとも見覚えのある空間、どうやら、ここは病室のようだ。


「ぼ、くは……」


何かを呟こうとして、けれど、違和感に阻まれた。


喉の声帯が震え、鼓膜に伝わったのは間違いなく自分の発した声。

そのはずなのに、何かが変だった。


「あ……れ、?」


その声は自分のものではなかった。


意識を失っていたらしいのは、まさにこの病室でベッドに横たわっているという状況が説明している。

どれほどの時間をここにいるのかは分からない。

頭に浮かぶ記憶はどれも断片的で、自分の身に何が起きてここにいるのかはまだ上手く思い出せなかった。


「なんで……」


そうやって絞り出す声はカラカラに渇いていて、確かに普段のものとは程遠い。

しかし、自分の声に対する違和感を説明するには、それだけでは不十分だった。


「あ、」だの「え、」だの、とにかく出せる声を発してみるが、喉から漏れ出すのは何度聞いても女の子の声。


「……」


自分の身に起きている異変に、言いようのない不安がじわじわと高まっていく。


無性に、鏡で自分の姿を確かめたかった。

なぜか、そうしなければならないという衝動に突き動かされた。


洗面台にも鏡があるが、あそこまで立って歩けるとは思えなかった、体は鉛にでもなったかのように重たい。

真はそばのサイドテーブルにある三面鏡を取ろうと腕を伸ばそうとした。


しかし、腕は動かなかった。


何度も腕を動かそうと試みるも、ぴくりともしない。

それどころか、全身が、まるで他人の体であるかのように意識の命令を拒んでいる。


なぜ?

疑問と不安が頭を埋め尽くしていく。


自分の身に何が起きたのか。


なぜ動くことすらできないのか。


なぜ自分の声が知らない女の子の声に置き換わっているのか。


不安が焦燥に変わる。

動け、動けと、ほとんど意地になっているうち、ようやく腕は持ち上がり、なんとかサイドテーブルへと到達した。

ただ、位置が悪いのか畳んだ三面鏡の角に指先が触れるも掴むことができない。


仕方なく腕を引っ込め、寝返りを打って反対側の手を伸ばす。

たったそれだけの動作が、今の真には途方もない重労働にすら感じられた。


「んっ……ふ、うぅ……っ」


頑張って体を捻って、伸ばした手がサイドテーブルに触れる。

目当てのものにはまだ僅かに届かない。

もう少し体を寄せようとサイドテーブルに体重を乗せた時、キャスターのロックがされていなかったのかテーブルがそのまま動いてしまった。


「ぅわ……!」


声のせいもあるが、自分でも驚くほど情けなくてか細い悲鳴が喉から漏れた。


視界が大きく揺れる。

全身を鈍い痛みが襲った。


「い……たぁ……っ」


ベッドから転げ落ち、たまらずその場で体を丸めた。

目尻がじんわりと熱くなる。


濡れたまつ毛を開くと、滲んだ病室の白い床に長くて黒い髪が広がっているのが見えた。


どうやらそれは自分の髪のようだ。

おかしい、自分の髪はこんなに長くはなかったはずだ。


もはや自分に対する違和感は声だけにとどまらなかった。

視界に広がる長い髪もそうだが、抱き竦めた自分の体のとても柔らかな感触も不自然だ。


自分が置かれている状況にまるで理解が追いつかない。

じくじくと痛む体を抱いたまま、起き上がることもできず処理し切れない感情だけがただ涙となってこぼれ落ちていく。


数秒か、数分か、そうしているうち、突然、病室のドアが開く音が聞こえた。


「やあ少年。起きたようだな、約90時間振りの目覚めだ」


どうにか首だけを向けて、声のしたドアのほうを確認する。

視界は涙で歪んでいたが、そこには、白衣姿の女性が立っているのが見えた。


年齢は20代前半、長い茶髪をポニーテールに結い上げ、鼻筋の通った顔には小さな丸いメガネをかけている。

いずれも見覚えのある特徴、その女性は真が通う市立青海ヶ丘あおみがおか中学校の保健医である神門みかど春華はるはなだった。


「せ、ん……せい……?」

「そうだ、私だ。どうやら記憶に問題はないようだな」


パンプスの靴底を床に鳴らしながら、春華は両手を突っ込んだ長い白衣の裾を揺らして、床でうずくまる真へと近づいてくる。


真の傍らに立った春華は、鼻先に乗せたメガネを細い指で押し上げて真の顔を覗き込んだ。


「うむ。意識もはっきりしている。視覚、聴覚、ともに機能している。定着は順調なようだ」


どこか平坦で抑揚のない喋り方をすることで知られている春華だが、今は、一段とそう感じる。

言うならば事務的。

患者の経過を観察、記録しているかのような話し方だった。


春華は真とサイドテーブルの位置関係を見比べると、それだけで何があったのかを察したようだ。


「心配せずともその体はじきに動くようになる」

「あの……僕は……」

「聞きたいことは多いだろうが、まずは君をベッドへ戻そう」


春華に体を起こしてもらい、ベッドに戻される。


「さて少年。まずは結論から伝えよう」

「……」

「黒崎真君、君は……死んだ」


あまりにも端的に告げられたその言葉に、頭を強く殴られたような衝撃を感じた。


しんだ。

……死んだ?

自分が……?


自分が置かれている状況すら飲み込めていない真にさらなる混乱が押し寄せる。


「混乱するのも無理はない。君は〈天使〉との戦闘に巻き込まれ瀕死の重傷を負った」


春華はそう言いながら窓の方へと歩いていった。

真はその背を視線で追いかけた。


「意識はあったそうだが、体に負った傷は酷くてね。私が指揮する医務課で懸命な処置を施したが少々、その手術において問題が生じた」

「問題……?」


声は次第にはっきりと出せるようになっていた。


「君もすでに自覚していることだ」

「……」

「だが、その問題について伝える前に、まずは君の身に起きたことを思い出してはいかがかね?」

「僕に、起きたこと……」


春華にそう言われ、真は記憶の断片を辿ることにした。





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