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第3話

携帯電話が放つ警報、それは日常を奪い去る音だった。


慌てて学生服のポケットからスライドケータイを取り出し、液晶を映す。

避難を指示する短い文章の下には青海ヶ丘の地図が表示されており、〈天使〉の堕天予測位置がポイントされていた。


真はその座標を見て息を呑んだ。


「うそ……かなり近い……っ!?」


ポイントされた座標は、真のいる場所から程遠くない場所、距離にしてわずか数百メートルほど南の位置だった。

往来の人々も皆、携帯電話を片手に堕天予測位置を見て青ざめている。


程なく、町内放送が避難命令を告げた。


『青海ヶ丘にお住まいの皆様、堕天が観測されました。速やかに避難を始めてください。繰り返します。速やかに避難を始めてください』


青海ヶ丘の街には〈天使〉の捕食から逃れるため、約1,000人が収容できる地下シェルターが各所につくられている。

これは街の自治会とコジマ社が共同でつくったもので、堕天の際には速やかにそこへ避難するようになっていた。


「おい小僧、何してるッ!早く逃げろ!!」


通りへ飛び出して来たCDショップの店主が、真の肩を叩いて走り去る。

その背はシェルターへと避難を急ぐ人混みの中に消えた。


そうだ、自分も早く逃げなくてはならない。


携帯電話をポケットにしまって走り出そうと踏み出すが、その足はすぐに止まってしまった。


それは、動物の鳴き声とも人間の悲鳴ともつかない絶叫だった。

耳を劈く不快でおぞましい咆哮に、青海ヶ丘の街が震え上がった。


本能的な危機感が全身を駆け巡る。


立ち止まっている場合ではない、〈天使〉が堕天したのだ。

すぐにここを離れなければ自分も捕食に巻き込まれてしまう。


分かってはいた。

しかし、真は振り返ってしまった。


「……ッ!」


雲間から、白く巨大な影がゆっくりと現れる。


灰白色に近い外皮が傾いた日差しを反射して、焼けゆく空に歪で醜悪な姿を浮かび上がらせた。


地球の生命の常識では到底考えられないような複雑な体構造。

まるで昆虫のような複雑に折れ曲がった複数の手足と、骨にそのまま皮膚が張り付いたかのような骨ばった体、それでいて、その表面はぶよぶよとした質感を放っている。


その異形の地球外生命体は、ある種の神々しさすらをも纏って青海ヶ丘の地へと降り立った。


遠くから誰かの悲鳴が聞こえた、不幸にも堕天の真下にいた人々が間近で〈天使〉の姿を目撃してしまったのだろう。


だが彼らの不幸はこれからだ。


林立した建物の向こうから地響きとともに建物が倒壊する大きな音が轟いた。

人々の断末魔が入り組んだ街に反響し、不気味な怪物の咆哮がそれを飲み込んでいく。


〈天使〉の捕食が始まったのだ。


次々と建物が崩れる音がして、土煙や瓦礫が空を舞う様子が真のいる位置からも見えた。


シェルターを目指して通りを北へとひた走る人の流れを追うように、無慈悲な破壊をもたらす魔物の足音が一歩一歩と近づいてくる。


それを阻止するように、立ち込める砂塵の中で砲火が煌めいた。

立て続けに爆発、そして銃声。

土煙の中でオレンジの光が断続的に明滅を繰り返す。

街に配備された無人装置が防衛プロトコルを実行したのだ。


爆音と銃声が響く中、怪物の一際大きな雄叫びが上がった。

身もすくみ上がる絶叫、そして、建物を超えて何かが真のいるほうへと飛んできた。


たまらず飛び込むようにして地面に伏せた真のすぐそばに、激しい金属音を上げて何かが落下する。

破片をばら撒きながら逃げ惑う人々を巻き込んで転がったのは、もはやスクラップ同然になった二脚無人機だった。


間髪入れず、さらに別の二脚機がすぐ近くのビルの上階に飛び込んだ。

衝撃で砕け散ったガラスが、その下を走っていた人々に降り注ぐ。


罵声と怒号、悲鳴があらゆる場所から聞こえていた、街はすでに阿鼻叫喚だった。


「に……逃げないと……っ!」


すくむ足を踏ん張ってなんとか立ち上がろうとする。

その時、真の背後で、数棟の建物がコンクリートの塊を噴き上げて崩壊した。


咄嗟に頭を庇って疼くまる。

塵煙が周囲を覆い、こまかい瓦礫が背中に降り注いだ。

咳き込みながら頭を上げると、何かの影でふっと辺りが暗くなった。


自分の後に何が現れたのかを考えるまでもなかった。

急速に鼓動が早まる。

肩越しに、ゆっくりとふり仰ぐと、渦巻く土煙の中で、巨大な白いが瓦礫の上に立ちこちらを見下ろしていた。


「……っ!」


ぶよぶよとした皺だらけの顔が、逃げ惑う人々を睥睨する。

顔だと判断できたのは、そこにずらりと歯の並んだ口があったからだが、およそ目と言える器官は持っていなかった。


近くに配備された防衛装置が懸命に迎撃するが、2メートル程度の無人機に搭載した機銃では威力が足りないのか、わずかに赤い液体がしぶいただけで、その傷は即座に塞がっていく。


巨獣はその体からいくつもの血煙を上げながらも無数の弾丸をものともせず、じっとりと獲物を見据えていた。


「はっ……はぁ……っ」


その怪物の姿が、彼の中に刻み込まれた恐怖を呼び覚ましていた。


5年前、真は家族をこの生き物に奪われた。


逃げろと叫ぶ父親の怒号。

恐怖に歪む母の顔。

小学校に上がったばかりの妹が泣き叫ぶ声。


まるで、その日その場に戻ってきたかのように、網膜に焼き付いた凄惨な光景が思い出され、鼓膜が震える。

呼吸は次第に浅くなり、心臓は破裂しそうなほど早鐘を打つ。


早く逃げなければならないのに、足腰は震えて力が入らず、立ち上がることさえできない。


大きく広げられた〈天使〉の口が間近へと迫る。

さながら地獄への入り口だった。


終わりだ。

真は目を閉じて、せめて苦痛がないことを祈った。


しかし、最後の瞬間は訪れなかった。


突如、怪物の絶叫が響き渡った。

驚いて目を開けると、胴体に何かが突き刺さって仰け反る〈天使〉の姿が目に飛び込んだ。


〈天使〉の躯に深く突き刺さっていたのは、

人の背丈とそう変わらないほどの大きさのナイフは、その刀身を怪物の肉に深々と食い込ませ鮮血を迸らせていた。


「な、なに……っ?」


狼狽える真、その頭上を、大きな黒いが飛び越える。


その巨大な影はアスファルトを砕きながらで地面に踏ん張ると、を捻り、大きくを振りかぶって、その手に持った身の丈ほどもある巨大な塊を〈天使〉へと叩き付けた。


絶叫と共に〈天使〉の躯から血が噴き上がる。

肉片が飛び散り、周囲の建物に、木に、地面に降り注いで、赤く染めた。


巨大な黒い影が、唸りを上げるその鉄塊を振り抜く。

肉を抉られた〈天使〉は滝のような血を流して後ずさった。


血と肉を滴らせる武器を素早く構え直し、その黒い巨人、全長約8メートルの人型ロボットは、体の関節から真っ白な蒸気を吹き上がらせ、〈天使〉に対峙する。


無骨。

頑強。

その姿を一言で言い表すならそういった言葉が思い浮かぶ。


鈍い光沢を放つ真っ黒な装甲。

腕は太く大きく、上半身は前後に分厚く張り出し、引き締まった腰から伸びる2本の脚がその途方もない重量を支えていた。


膝や肘などの関節は全て二重構造となっており、ごつごつとした硬質な外観ながらもその姿勢はどこか柔軟だ。


人型と言えるシルエットだが、それは人体を精巧に再現するものではなく、あくまで人体各部の機能を代替する機械、それを組み合わせたもの、そのように見えた。


「〈ネメシス〉……」


それは、人類を守る黒き巨神。


真は呆然と、勇壮たるその姿を見上げた。


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