学園祭を先日終えた土曜日、真はいく乃からの急な呼び出しを受けて街へ出かけていた。
ステージのほどは、控えめに言っても大成功だったと真は手応えを得ていた。
〈ヴァルキリーズ〉の5人目の存在は校内でも噂程度には囁かれていたが、結果として、今回の文化祭ステージが公に真をその5人目として広く知らしめることになった。
見慣れない生徒が実は〈ヴァルキリーズ〉の新メンバーだったと判明して校内はざわついたらしいが、真はそれどころではなかった。
ステージを終えた直後、舞台袖に戻ったいく乃が急に倒れたからだ。
「ごめんごめん……ちょっと、ふらふらしちゃって。あはは……」
慌てて運び込んだ保健室で、いく乃はそう言って無理な笑顔を浮かべた。
その不自然な作り笑いが、先日の演習で失敗をした時の彼女の様子と同じだった。
いく乃が抱える不調についてはっきりとさせなければならないことがあるのは確かだが、しかし、無闇に問いただすことが憚れるのも道理だ。
結局、そのステージを終えて以降、いく乃は一度も学園祭には現れなかった。
そして昨日の夜、真のケータイに彼女からメールが届き、こうして繁華街へと呼び出された。
「お……落ち着かない……」
文化祭にて、新メンバーとして大々的にステージに立ったことで少なくとも青海ヶ丘では真の顔が知れ渡ってしまった。
こうして友達との待ち合わせで街にいるだけでも視線を感じる。
真はこの体に合った私服を持っていない。
Tシャツは肩幅が大きいのに胸がきつく、ズボンは太ももやお尻が入らない。
今はコンビニで買った女性用インナーのキャミソールの上にYシャツの前を開けて羽織り、昨年あたりに優之介からもらったやたらポケットの多いカーゴパンツを履いてどうにか出かけられる服装にまで仕上げている状態だ。
女の子のファッションを着るというのも少し抵抗があるが、明らかに似合っていない服装で人前に出るのもそれはそれで落ち着かない。
そわそわすること数分、ようやく待ち合わせ場所にいく乃が現れた。
「お待たせー、まこっちゃん」
フレアの効いたミニ丈のベアトップワンピースに、肩を出して羽織ったカーディガン。
サンダルの踵を鳴らしながら、ツーサイドアップの明るい髪を揺らしていく乃は駆け寄ってきた。
「ごめんね、おそくなっちゃった」
「ううん。おはよう、いく乃」
「おはよ。……あれ?まこっちゃんメンズ?」
「服、持ってないから」
「そーなの!?じゃあ服買いにいこ!いく乃がかわいいの選んであげるっ」
真の手を引いて駆け出すいく乃。
今はもう、別人のように元気だ。
だからこそ心配してしまう。
いく乃は決して気分屋な性格ではない、浮き沈みは誰にでもあれど、しかしここ最近見たいく乃の様子はあまりに極端だ。
「だいじょうぶ、かわいいお店いっぱい知ってるから。時間もあるしたくさん試着してゆっくり選ぼ?」
「う、うん……」
チャームポイントの八重歯を見せて、振り返ったいく乃が笑う。
明るくて可愛い、いく乃の笑顔。
その笑顔に励まされたことは少なくない。
入院中、この体がまだまともに動かせなかった時から隣で自分を励まし続けてくれた笑顔だ。
それはきっと真だけでなく〈ヴァルキリーズ〉のみんなだって、そして、彼女のファンだってそうだろう。
だが今は、その眩しさの向こうに影が見える。
「おとこの子のファッションもナシじゃないんだけどね、まこっちゃんの場合はもうちょっとあざといほうがもっとかわいくなるよ」
「そ、そうかな?」
さっそく入った店であれこれと熱心に選ぶいく乃、ここまで真剣な彼女の表情は見たことがなかった。
「ここのお店ね〜、アスカと深雪ちゃんがモデルやってたんだよね。ほら、あそこのポスター」
いく乃が店内の一角を指差す。
彼女の視線を追ってそちらを見ると、確かにこの店で見た服のいくつかを着たアスカと深雪の大きなポスターがあった。
「いく乃もモデルさんしてみたいんだけどさ〜ぁ、胸おっきくてだめなんだよね」
「そうなの?」
「うん、お洋服の印象かわっちゃうからね。……よし、ひとまず、これとこれとこれ!試着室そこだから着てみて」
背中を押され、半ば無理やり試着室へと押し込まれる。
「まあ……ないと、困ってるからなぁ」
ひとりそう呟いて、着てきた服を脱ぐ。
一着はワンピースで、他はそれぞれ別のトップスとボトムス、そしてハイヒールのブーツサンダル。
順に袖を通し、その度に一応いく乃に見せる。
「まこっちゃんかわいい!」
言うまでもなく全て同じ反応だった。
自分で鏡で見てもよく似合っていたので、いく乃が安いお世辞を口にしているわけではないのは分かる。
少なくとも真が今日着てきた服よりははるかに可愛らしく着こなして見える。
「そのサスペンダースカートとオフショルのトップスいいね、いく乃の好み。ブーサンもあってる」
「じゃあ、これにする」
「着たままでいていーよ、店員さん呼んでお会計すませちゃうから」
「いくらだっけ」
「いーよいーよ、いく乃からのプレゼント。せっかくだからほかのもぜんぶ買っちゃうね」
ウィンクを残して、店員を呼びに行くいく乃。
ほどなく現れた店員にそのままタグを取ってもらって、元々着てきた服を畳んでショッピングバッグにまとめて詰めてもらい、店を出る。
結局、会計はいく乃が済ませてしまった。
「ありがとう、いく乃」
「ううん。むしろいく乃の好みにあわせちゃってごめんね」
踵の高い靴に慣れていないため、少し鈍臭い歩き方になってしまう。
「あはは、歩き慣れないよね。手、とっていいよ」
いく乃の差し出した手を握る。
僅かに背の低くなった彼女のほうに少しだけ体重を預けて、不安定な足を交互に踏み出していく。
「じゃあ、次はね〜」
「あ、待って」
「どうしたの?」
真にはまだいく乃に伝えてなかったことがあるのを思い出して、足を止めた。
いつぞ顕吾が得意げに語っていた女の子とデートする時のマナー、まさか、実践する日が自分に訪れるとは思ってもいなかった。
可愛らしく小首を傾げて不思議そうにこちらを見つめるいく乃へ、あの好色男子から教わった言葉を伝える。
「似合ってる、今日の服。かわいいと思う。言うのおそくなっちゃった」
もちろん真の心からの言葉だ、いく乃は一瞬かたまって目を丸くして驚く。
ばっと両手を広げると、勢いよく真に抱きついた。
「ぅぐふッ!?」
「まこっちゃん!うれしい!今日のお買い物いく乃がぜんぶ買ってあげる!」
「いや、そんなつもりでほめたわけじゃ___待ってこけそう!」
「いこ!つぎのお店いこ!すっごくかわいいブラと下着、いく乃がえらんであげるから!」
ぐいぐいといく乃に手を引っ張られ、休日で賑わう繁華街を猛進する。
いつか彼女らの新曲を買い求めたショッピングモールに入って、いく乃の言う「かわいいお店」を目についた端から物色していく。
「まこっちゃんの持ってるのって春華先生からもらったやつでしょ?」
「う……うん」
色とりどりのふわふわひらひらしたブラジャーやらショーツやらが視界いっぱいにずらりと並ぶ。
真は顔が真っ赤になりながら、いく乃に相槌を返した、この時ばかりは自分が女子であることを言い聞かせる他なかった。
「だれに見せるってこともないんだけどね、でもかわいい下着ってつけてるだけでも違うんだよ」
「そうなのかな……?」
「ブラのサイズっていく乃とおんなじだよね?」
「えぇーと……」
自分が着用しているサイズのカップ数をいく乃に伝える。
「うん、おんなじ」
この体が少年だった頃にも別段に巨乳へ憧れがあった訳でもないが、中学生にしては随分と発育よく実った双房が自分の胸についているというのは、改めて不思議な感覚だ。
「まこっちゃんおとこの子だよね?」
「うん。まだ、そのつもり」
「えっちなのにしてみる?」
「ブフッ!?」
「あははっ!まこっちゃんこういう話よわすぎっ!あははっ」
「勘弁してよ……」
「いく乃も新しいの買おっかなぁ、ちょっとキツくなってきたんだよね〜」
「……」
いく乃にリードされるまま、あちらこちらといろいろな店で買い込んで、あっという間に時間が過ぎてしまった。
昼前になって、混雑する前にフードコートへ向かった。
壁際の席に腰を下ろして、やっと一息つく。
両手には持ちきれないほどのショッパーバッグがあった。
「たくさん買っちゃったね」
いく乃は満足気である。
「ありがとう、こんなにたくさん」
「ううん。怪獣やっつけたお給料?あまっちゃってるから」
〈ヴァルキリーズ〉の出撃については、もちろん正当な報酬の支払いがコジマ社より各人へなされている。
真ももちろん受け取っているものだ。
「それに、ありがとうなのはいく乃のほう。すっごく楽しい」
そのままフードコートで昼食を簡単に済ませて、また色々と店を回った。
こうして、友達とゆっくり過ごす時間は久しぶりだった。
「ねぇ、まこっちゃん」
斜陽が長い影を落とす帰り道を、ゆっくりとした足取りで歩くいく乃が、真へ尋ねる。
「〈ヴァルキリーズ〉に入ったこと、後悔してない?」
唐突な問いかけだった。
だが、答えに窮することはない。
「してない」
するはずもない。
確かに〈ネメシス〉に乗ることを巡って何もかもが変わってしまったのは事実だ。
優之介や顕吾、俊平たちと過ごした無邪気で気楽なかつての時間には、もう戻れないだろう。
けれど、それは後悔には繋がらない。
むしろあの衝動と使命感を抱え込んだままで日常に戻ることを選ぶほうが、きっと、もっと、ずっと、自分を苦しめる選択になっていたとはっきり思う。
「いく乃は……してるの?後悔」
「いく乃も、後悔なんてしてない。たいへんなこともたくさんあるし、こわい思いも___たくさんしてるけど、〈ネメシス〉に選ばれたこと、いく乃は___よかったって___」
彼女の様子の変化に気づいたとき、視界の端でいく乃が倒れ込む姿が見えた。
「いく乃ッ!?」
咄嗟に持っていた紙袋を手離して、彼女の体を支える。
慣れないヒールの靴で自分もバランスを崩してしまい、足を挫いてそのままふたりで舗装路の上に座り込んだ。
「いく乃!いく乃っ!」
「___」
膝の上に抱えたいく乃の肩を揺する。
足首がじくじくと痛むが、それよりも彼女が心配だった。
ぼんやりとした焦点の合わない視線を虚空に投げ出して、呼びかけにも反応がない。
まるで意識が抜け落ちたかのように体は脱力しきっていた。
真は背筋が急激に冷えていくのを感じた、いく乃の様子は文化祭のステージ直後に倒れた時とまさに同じだったからだ。
嫌な汗が額に噴き出す。
「だ、だれか……そうだ!アスカに……っ」
ケータイを取り出そうと自分の腰に手を運ぶが、そこにポケットはついていない、服を着替えたのだ。
落としたショッピングバッグに財布と一緒に入れていたのを思い出して、それを拾おうと手を伸ばす。
「あれ___?まこっちゃん?」
腕の中のいく乃がか細い声を漏らした。
「いく乃っ」
彼女を覗き込む。
その顔は血の気が引いたように真っ白だった。
「だ、だいじょうぶ?」
「うん、だいじょうぶ……そっか、いく乃……また……」
状況を察したらしいいく乃が、目を伏せる。
「あはは……最近、おおいなぁ……」
彼女にはひどく似合わない自嘲気味な笑顔だった。
「ねぇ……いく乃のおうちまで……つれて帰ってもらって、いい?」
「……うん。わかった」
もはや黙って見過ごすことのできない状況ではあるが、この場で座り込んだまま問いただす必要はなかった。
落としたショッパーを拾い上げていく乃の腕を肩に回し、立ち上がる。
挫いた足が悲鳴を上げたが、歯を食いしばって耐えた。
「ごめんね、まこっちゃん……いく乃、デートだいなしにしちゃった……」
「謝らないでいい。そんなのいく乃には似合わない」
「……そっか、ありがと、まこっちゃん。ねぇ、お願___アスカ、呼ん___」
「……ぅわわっ!?」
言い終わる前に、いく乃の意識は再び途切れ、ぐったりと体重を真へ預ける。
女の子ひとりぶんとは言え、この体には決して軽くはない。
倒れそうになるのを今度は踏ん張ることができたが、それは挫いたほうの足だった。
激痛で顔が歪む。
ほとんど引きずるようにしていく乃を近くのベンチまで運び、ようやくケータイを取り出す。
春華に救急車の手配を頼むべきかと思ったが、直前にいく乃がアスカの名を呟いていたのを思い出し、やはり彼女へ電話をかけることにした。
数十分もせずに駆け付けたアスカと一緒にいく乃を彼女の自宅へと運び込み、どうにかベッドに寝かせることができた。
「……そう。歩いてたら、突然……」
横たえたいく乃の前髪を、傍らに膝をつくアスカが優しく撫でる。
「ねえ、アスカ。アスカは、いく乃のこと……知ってるんでしょ?」
そう言うと、アスカは体を強張らせ、指先を止めた。
「教えて、もらえないの?」
「……」
「アスカ!」
たまらず、その肩を掴んでいた。
「この部屋、見てよ!アスカは驚かなかった、この部屋だけじゃない、こんな状態の家を見て、何も反応しなかった!いく乃のこと……、何か知ってたんでしょ?」
アスカにこの家の玄関を開けてもらって、まず、真はその惨状に絶句した。
散らかっていたのだ、家中が。
土間に転がる脱ぎ捨てられた靴。
玄関マットはひっくり返って、その上には虫の湧いたゴミの袋が乱雑に並んでいた。
足の踏み場もないほどに、衣服や物、ゴミが床を埋め尽くして、それが、真っ暗な家の廊下のずっと奥まで続いてるのが見えた。
単に片付けを怠っていただけでは説明がつかないほどに、いく乃の家は荒れ果てていたのだ。
食べたままの食器が積まれた流し台。
横倒しになったダイニングの椅子。
大量に転がったペットボトルは、中身が残っていたためかいくつか真っ黒なカビになっている。
リビングの奥には、吊るされた男性用スーツと、子ども用の___おそらく男の子だ___おもちゃがあった。
ろくに換気もされておらず、腐敗臭や生活臭などが混ざり合って堆積した形容のしがたい異臭に、すでに鼻が麻痺していた。
彼女の私室はまだマシなほうだったが、洋服箪笥やクローゼットは開いたまま中身が溢れ、座卓の上にはいつのものか分からない何かの食べ残しが置いたままになっている。
壁掛けのカレンダーの日付は去年。
この中で、いく乃がどんな生活を送っていたのか、真には想像もできなかった。
「……いく乃には、黙ってるように言われてたのよ」
その青い瞳に深い憂いを溢れさせて、アスカは、虚ろに天井を見上げるいく乃の真っ白な頬を撫でた。
その手は、僅かに震えていた。
「でも……ごめんね、いく乃。もう、無理よ」
精神汚染。
アスカはそう説明した。
「考えてみて。あんな兵器と、多感な時期の子どもの精神をつなげて戦うのよ。なんのリスクもないはずがないでしょ?」
言われてみれば、確かにその通りである。
人機一体システムは〈ネメシス〉と操縦者の意識を同調させ、機体性能を引き出すものだ。
システムの作動中は機体と肉体が擬似的に一体化し、〈ネメシス〉が感知する温度、感触など、あらゆるものをパイロットへフィードバックさせる。
〈天使〉の肉を断つ感触。
銃を撃つ反動。
機体の破損は、すなわち自分の体の一部を失うのと一時的には同じことだ。
加えて、死と隣り合わせという極度のストレス。
心が壊されないはずがなかった。
「ほかの……みんなは、知ってるの?いく乃のこと」
「春華にだけは伝えてある。深雪とめくるは知らないはずよ。この子は話してないだろうし、私も言わないようにしてたから。……でも、気づいてるでしょうね」
アスカの話を聞いて、今までのいく乃の様子について真の中で多くの合点がいったのは事実だった。
埃だらけの部屋で、彼女の制服だけが唯一、ハンガーにきちんと吊るされて綺麗な状態を保っているのが、むしろ痛々しい。
「……いく乃は、どうなるの?」
「わからないわ。春華が言うには、治しようのないものらしいけれど……」
「ねぇ、もしかしてだけど。アスカ……」
「察し、いいのね。嫌になるわ」
そう言って、アスカはお臍の下あたりを手でなぞった。
「私もね……私の場合は、だけど。もう何ヶ月も、アレが来ないの」
精神汚染による肉体への影響の出かたは様々らしいのだと、アスカは説明した。
触覚麻痺、色覚異常、自律神経の失調や視力の低下等、ただ、いく乃のような場合は最も重篤な症状だと付け足す。
「いく乃、言ってた。〈ネメシス〉に選ばれたこと……後悔してないって」
「〈ネメシス〉がこの子を支えたのよ、戦うことで、この子も自分を保ってた」
アスカの視線の先には、ベッドボードに置かれた古い家族写真があった。
写真立てや額には入れられておらず、日に焼けてすっかり変色していた。
「でも、皮肉よね……その結果なんだもの」
「……」
「私も後悔なんてしてない。この体がどうなったって、最後まで戦い抜いてみせる。だって、そうしないと……」
アスカはまだ何か言葉を続けようとしたが、けたたましく鳴り響いた警報音に掻き消された。
堕天警報だった。
次いで、招集命令が真とアスカのケータイへ届く。
いく乃のケータイも、中1の教科書が開かれて埃を被った勉強机の上で震えていた。
「春華に連絡する、いく乃の避難をたのんでおくわ」
開いた赤い折りたたみケータイからそのまま春華の番号へアスカは電話をかけた。
春華ならすぐにでも駆けつけてくれるのだろうが、たとえ僅かな時間でもこんな状態のいく乃をひとりにして立ち去ることには気が引けた。
だが、行かなければならない。
「行こう、アスカ」
「うん」
靴を履き替え、天衝寺と表札の打たれた家の門を飛び出す。
足は痛むが、真はそれを無視してアスカと青海ヶ丘の街を駆け抜けた。