真は懐かしさを感じる病院の廊下を歩いていた。
隔離病棟のここは病床の数も少ないが、入院中の患者もごく僅かだ。
ローファーの靴底が床に鳴る足音がふたりぶん、静かに響く。
真はアスカと共に突き当たりの病室を目指していた。
「起きてるかな」
手に下げた紙袋の中を覗く。
買ってきたのは中心市街でも有名なお店のスイーツだ。
アスカの手にも違うデザインの紙袋があるが、そちらには着替えが入っていた。
「どうでしょうね、まあ、時間もあるしゆっくりしましょう」
通り過ぎた談話室の時計はまだ昼過ぎ。
11月になってすっかり冷え込んできたため、真もアスカも青海ヶ丘中学の赤いブレザーを着ている。
制服姿なのは、見舞いのために午前で学校を早退してそのまま来たからだ。
「はぁ、まったく寒いわね……、院内くらい暖房いれておきなさいよ」
「節電らしいよ」
肩を抱いて震えるアスカは冬が苦手らしい。
ブレザーの下には、学校指定の赤いベストも着用しているが、それでは足りないようだ。
「あなた、寒くないの?」
「え?」
ブレザーの前をかき集めながら、アスカがとなりの真を見る。
いつも通り黒のブラウスに、アスカと同じく赤いネクタイ、ベストは着ていない。
真がブレザーの前を開け放しているのを、彼女は寒そうに思うらしい。
「寒い……けど、閉まらないんだよね……」
前を開けているのは、何も真が寒さより制服の着こなしにこだわっているからではなかった。
豊かに張り出した胸のせいで、ブレザーのボタンが閉まらないのである。
「神門先生、サイズ通りだって言ってたんだけど……」
ブレザーの左右を引っ張ってはみるものの、やはりボタンが届かない。
ぎゅむぎゅむと胸が圧しつぶされて苦しいばかりだ。
ブラウスのほうにしたって、元々胸がきつかったが近頃はことさらにボタンを留めにくく感じる。
ぱつぱつになった胸元の布地が引っ張られてできる服のシワが、どうにも卑猥に見えて仕方ないが、こればかりはどうしようもなかった。
「大きすぎるのもこまりものね」
そう言うアスカくらいの胸のサイズにしてくれればよかったのに、とは一応言わないでおいた。
「さ、着いたわ」
廊下の一番奥の病室の引き戸を開ける。
ふわりと暖かな空気が廊下へ漏れ出した。
「いく乃?」
返事はない。
おそらく
ベッドの上には、暖かそうな真っ白な羽毛布団に包まれて眠るいく乃の姿があった。
先日、真の前で倒れて以降、春華が緊急入院を判断したのだ。
「ほら、来てあげたわよ」
静かに寝息をたてるいく乃の頬を、アスカが撫でた。
「おきないね」
「かまわないわ。春華に来るってつたえてあるから、たぶん顔をだすはずよ、ゆっくりしましょう」
サイドテーブルにそれぞれ持ってきた紙袋を置く。
こうしていく乃の見舞いに来るのはもう何度目かになった。
彼女の自宅の合鍵を持つアスカが着替えを持ってきたり、見舞いのお菓子を持ってきたり、学年の違う深雪やめくるとはタイミングが合わないが、各々時間を見つけては様子を見に来ているようだ。
病室の壁にはクラスメイトや校内の彼女のファンからの寄せ書きが掲示されていた。
その中にはもちろん顕吾の名前もあって、いく乃の安否と、ファンとしての真っ直ぐな思いが狭いスペースながらも綴られていた。
「不思議……だよね、どこも悪くないのに」
いく乃の体には外傷はおろか、身体機能面においても異常は何も見つかっていないらしい。
「〈ネメシス〉自体が、比較的あたらしい技術だもの。予期しないことが起きたって、むしろそのほうが不思議じゃないのよ」
「……」
以前春華が言っていた不完全な兵器という言葉を、真はようやく理解するに至っていた。
確かに〈天使〉に対しては有効な手立てであるし、戦略的優位性もあるのだろう。
ただ、アスカやいく乃のようにリスクを負わなければならない兵器が、完全であるはずもなかった。
「誰でもこうなるわけじゃないわ。深雪やめくるも知ってはいるでしょうけど、たぶん……何も起きてない」
「僕が〈ネメシス〉に乗るのを反対してた理由って、これだったの?」
「それは……」
口籠るアスカ。
彼女の顔には僅かに葛藤が見て取れたが、やはりそのわけは真には分からない。
そこへ、病室の扉が開く。
「やあ。熾ヶ原君、黒崎君」
「こんにちは、神門先生」
春華の顔を見るのは随分と久しく思えた。
もともと保健医であるため、怪我や体調不良にでもならない限りは校内にいても滅多に会うことのない先生だ。
毎日のように顔を合わせていた夏休みまでの日常が、既に懐かしい。
「足の具合はどうだね、黒崎君」
「はい、もうだいじょうぶです」
先日痛めた足の手当てについては、病棟で勤務する別の医師が担当してくれた。
春華はその時、ちょうどいく乃のことで手一杯だったらしい。
「あまり無茶な戦い方はしてくれるな。と言っても、難しいだろうがね」
そう言いながら病室を歩く春華は、いく乃の傍に立った。
「着いたときから寝ていたわ」
アスカが言った。
「ふむ。私も何度か様子を見に来てはいるのだが、起きていることのほうが少ない」
「……悪化、してるってことですか?」
真のその問いかけに、春華は眼鏡を押し上げて少し思案した。
「そう言って差し支えはないのだろうが、こうして眠り続ける時間が長くなる状態を悪化と呼ぶべきかは、私にも分からない。以前私が伝えたように、何しろ天衝寺君の身体には異常らしい異常は見当たらない」
春華はそこで言葉を切って、また続けた。
「彼女の部屋を見ただろう、天衝寺君は元々、鬱病に近い症状を罹患していた」
それには真も気づいていた、とは言え、あの家の状態を見た後のことではあるが。
真自身も、5年前に〈天使〉の捕食に巻き込まれて家族を失ってからしばらくは似たような状態だったからだ。
助かったのは、ひとえに優之介たちのおかげだった。
「因果関係は分からないが、私も、最初は〈ネメシス〉搭乗の代償だとは気が付かなかった。だが明らかに彼女の抱える病症だけでは説明がつかなくなった、顕著になったのはごく最近だ」
春華がそこまで言って、いく乃の瞼が少し震えた。
「いく乃」
いちばん近くにいたアスカが優しく声をかける。
いく乃はゆっくりと目を開いた。
「ん……あれ、アスカ?」
「おはよう。来てあげたわよ」
「そうなんだ……あ、まこっちゃんもいるー。春華せんせーも」
起き上がろうとするいく乃をアスカが手伝って、彼女はベッドの上で上体を起こした。
その顔を覗き込むように体を屈めて、真も声をかける。
「おはよう、いく乃」
「おはよ、まこっちゃん」
「着替えとか、いろいろ持ってきたのよ」
「そっか、ありがと。……いま、何時?」
「お昼を過ぎてるわ」
近くの置き時計をアスカが視線で指す。
「お昼?……そっか。おなかすいたな」
「食堂に行きましょう、私たちもまだなのよ。いいわよね?」
アスカが春華を見上げた。
「構わんよ。何かあれば直ぐに連絡しなさい」
3人連れ立って向かった食堂は、まだ少し混雑が残っていた。
作業服姿の男性社員に、看護服を着た病棟勤務の女性職員、スーツ姿や私服に近い格好の大人もいた。
入院中の患者なのだろういく乃と同じ病衣姿の人も見かけたが、学校の制服を着ているのは真とアスカだけだった。
各々注文した食事を乗せたトレーを持って、空いている隅の席に腰を下ろす。
「ここのごはん、僕ひさしぶりかも」
退院して以降、このコジマ・エレクトロニクスの社員食堂を利用するのは久しぶりだった。
アスカと初めてちゃんと言葉を交わしたのは、ちょうどこの席だったかもしれない。
あの時は右も左もわからないような状況の中にいたのが、今では〈ネメシス〉のパイロットである。
「私たちは毎日食べてるから」
「私
「晩御飯はいく乃とここを使うのよ、この子、ほうっておいたらなんにも食べなくなるんだから」
精神汚染だけでなく、抱えていた秘密が知られてしまったことを、いく乃は恥ずかしそうに笑った。
「あはは、かっこわるいとこ……バレちゃったなぁ」
そう言って、いく乃は視線を落とす。
真はアスカと目を合わせた。
「そんなことない」
「そうよ。むしろよくがんばった、そんな状態になるまで戦ったんだから」
「でも……、みんなにめーわくかけちゃう。この前だって……いく乃がたおれたあとも怪獣やってきたんでしょ?」
「ええ」
あの大天使級二体同時の堕天のことだった。
真としてはヒヤリとする場面もあったものの、新兵装やめくるとの連携で、どうにか勝つことができた。
「でもどうにかなった。ねぇ、いく乃。あなたの力がいらないってわけじゃない。でも、そろそろ休んでいいのよ、深雪もめくるも、だれも反対しない」
今日、ここへ来た一番の理由はこれだった。
アスカはいく乃へ、〈ヴァルキリーズ〉からの除隊を勧めようとしているのだ。
深雪とめくるには既に話をしていて、ふたりも快く了承したし、春華や陸戦強襲部隊の属するコジマ社の保安管理部の大人たちも反対はなかった。
今のいく乃が〈ネメシス〉に乗ることは不可能に近い、いつまた意識を失うかもわからない状態で戦場に行かせることを肯定する人間などいるはずもなかった。
アスカでなくとも、同じ判断に至っただろう。
彼女が代表してそれを伝えたのは、親友であるアスカからなら、よりフラットに受け取ってくれるだろうと皆が考えたからだ。
確かにいく乃は穿った捉え方をしなかった。
けれども、首を縦に振ることもなかった。
「でも……」
テーブルに置いた手を、いく乃はきつく握り締める。
その手に、アスカが身を乗り出して手のひらを重ねた。
「おねがい、いく乃」
「……でも、こんなんじゃもとの生活になんて……もどれないもん」
〈ネメシス〉から離れることで、彼女の症状が改善されるかはわからない。
仮に悪化をせずとも、今の状態のまま、この先を何十年と生きていかなければならない可能性のほうが高いのだ。
「だったら……」
「……だったら、なに?〈天使〉と戦って死んだほうがマシだって言うの?」
俯くいく乃の肩が、僅かにぴくりと跳ねた。
アスカの声色に込められた明らかな怒気に怯えたからではなく、その言葉が、胸中を射るものだったからなのかもしれない。
いく乃はアスカの重ねた手のひらから、すっと手を引いた。
その反応を見て、アスカの顔に悲哀の色が差す。
「生きてよ……おねがいだから……」
絞り出すようなその呻きは、食堂の騒がしさの中に消え入りそうだった。