それからしばらくは雨が続いた。
季節的には珍しい長雨、この空と同じように、〈ヴァルキリーズ〉もまた、太陽を失った気分だった。
「……」
青海ヶ丘中学校、その校舎の裏山にある高台には真とアスカの姿があった。
真の持つ傘に、身を寄せ合うようにふたり。
アスカの手には大きな花束が。
ふたりが例外というわけでもないが、既に何度目かになる献花に訪れていた。
「たくさん……だね」
コジマ社が建てたモニュメントは、添えられたたくさんの花々で埋もれてしまいそうになっていた。
頻繁に訪れる場所ではないものの、この場所に花が尽きることはなかった。
青海ヶ丘の街の誰かが___それは学校関係者や親族、あるいは彼女たちに救われた人が___代わる代わる花を持って訪れ、供え、傷んだ花を持ち帰る。
そういう場所だった。
「好きだったのよ、みんな。あの子のことが」
「うん」
アスカが屈んで花を置く。
もう置き場所がないので、他の人の置いた花の上に供える他なかった。
いく乃の葬儀は学校の体育館で行われた。
家族のいない彼女の身元はコジマ社が引き受け、葬儀の手配がされた。
その遺体については、アスカが人前に晒すことを頑なに反対したため、棺に横たえたのは精巧な人形だった。
故に、真も、深雪やめくるもまた、いく乃の最期の姿を見ていない。
棺を前に泣き崩れる多くの生徒、先生もいた。
顕吾はずっと顔を覆って涙を流していて、式が終わる頃には優之介に肩を借りていた。
真には彼にかける言葉もなかった。
体育館を後にする直前、顕吾の肩を抱きながら優之介は一言、
「あの日、お前が死んじまってたら俺がこうなってた」
と言った。
自分は〈天使〉の捕食から二度生還した、そして、その脅威へと直接立ち向かう立場となっても、こうして生き残っている。
生きて帰ってこれるもの、これないもの。
生き残れるもの、それが叶わなかったもの。
以前、優之介の姉が営む喫茶店で居合わせた春華の言葉を思い出す。
自分が、こうして生かされている理由は何なのだろうか。
「来ていたのか」
声のした方へ振り向く。
「……神門先生」
どこから歩いてきたのか、傘もささず、ずぶ濡れになった春華がその手に花束を持ってすぐそこに立っていた。
轟々と降りしきる雨で、彼女の足音に気づかなかったらしい。
「私たちだけじゃないわ」
アスカが立ち上がって、春華へ場所を譲る。
あの戦いの後、春華と顔を合わせたのは初めてだった。
「そのようだな」
雨粒の伝い落ちる丸い眼鏡をそのままに、春華もしゃがみ込んで花を捧げた。
冬の雨に打たれ続けた彼女の指先は真っ赤になっていた。
「彼女の搭乗していた〈ネメシス〉の解析が終了した」
立ち上がった春華はこちらも見ずに話を始めた。
「復旧した人機一体システムのログには、叛転現象の形跡があった。だが、その後、彼女と彼女の〈ネメシス〉の同調率が急激に回復している。いや、本来の彼女の同調率を遥かに上回る上昇を記録していた」
「あの子が、
「システムにも理論上の限界が存在する。解析から得られた結果を見るに、天衝寺君は、まさに今際の際でそれを超えたようだ」
春華が真のほうへ視線を投げた。
真は一瞬、春華と目が合った気がしたが、彼女はまたすぐに視線を落とした。
「……恨んでくれて構わない。私には、その責任がある」
出撃許可を求めたいく乃に対し、その判断を下したのは、主治医であった春華だ。
「私も、伊達に〈ネメシス〉に乗っていた訳ではない。彼女が……天衝寺君が、生きて帰って来るつもりがないことは彼女の目を見ればわかった。死ぬことを承知で、私は出撃を許可したのだ」
そこで、初めて真は春華がひどくやつれていることに気がついた。
春華は式の間も上の空な様子だった、あるいは、その時からずっと、いま真たちへ話したような低迷する自責の念に囚われていたのかもしれない。
「バカなこと言わないで。いく乃が来てくれなかったら、少なくとも前線にいた私たちは死んでた」
アスカの言う通りだった。
けれど、いく乃の犠牲が必要だったなどとは真も、無論、アスカも、誰ひとりとして思っていない。
いく乃に犠牲を強いることになったのはあくまで結果論で、あの想定外の事態に対して最善手は、きっと他になかった。
そうと皆が、春華自身だって、分かっていてもそれを正当化できるはずもなかった、幼い命を踏み台にしてこの街の今を繋ぎ止めたことを、誰もが苦しんでいるのだ。
「いまさら子どもあつかいなんてやめて。そんなことで、自分だけ慰めを得ようだなんて卑怯よ」
彼女の言葉は痛烈だ、けれど一方で、覚悟の表れでもあった。
大人に責任を求めるだけのつもりなどない、仲間の死を、自分たちは同等に背負っていくのだと。
春華は深く目を閉じた、感情の読みづらいひとではあるが、今は、アスカの言葉を噛み締めているように真には見えた。
「私は……弱いままだ」
「……みんなそうよ。あなただけじゃない」
それだけ言って、アスカは足を踏み出した。
真も彼女に並んで春華の横を通り抜け、その場を後にする。
立ち尽くす彼女の、その伏した長い睫毛が濡れているのは、雨だけのせいではないように見えた。
「はぁ、まったく寒いわね」
家に着いて、リビングの椅子に腰を下ろしたアスカがブレザー越しに両腕を抱えて体を震わせた。
「暖房つけよっか、待ってて」
ブレザーを脱ぎながら、固定電話を置いてあるその横へ向かう。
そこにエアコンのスイッチがある。
傘をさしてはいたが、ふたりでひとつの傘に入っていては気をつけていても濡れてしまうものだ。
おまけに季節外れの大雨、スカートの裾や髪の先のほうは飛沫を被っているし、地面に跳ねた雨粒で靴下もびしょ濡れだ。
ふたりして玄関先で靴下を脱いでしまったが、足先は冷え切っていた。
「シャワー、浴びたい」
エアコンのスイッチに伸びていた指先が止まった。
アスカのほうを見ると、真の視線から逃げるように下を向いていた。
「いいよ。先、入って」
エアコンのスイッチを押す。
濡れたスカートや靴下はもう洗ってしまうが、ブレザーは吊るして置けば暖房で乾いてしまう程度だ。
動かないアスカを横目にリビングを歩いて、適当なハンガーに脱いだブレザーを掛ける。
「……」
何か言いたげなのは、真はもちろん気づいていた。
こうしてアスカが不自然に黙ってしまう場合は、彼女にうしろめたい気持ちがあるときだと、いい加減真は気づいていた。
「先、入るね」
「……うん」
冷えた体にお湯が心地いい。
シャワーヘッドを胸元に向けて、真はぼんやりと湯気の立ち込めていく天井を眺めていた。
あの力天使級との戦闘以降、アスカは真の自宅に入り浸るようになった。
今では本来彼女の住む社宅よりもここにいる時間の方が長いほどだ。
同じ部屋で寝泊まりして、一緒に学校へ行き、一緒に帰ってくる。
ほとんど同棲に近い状態だが、不思議と真の中にはアスカと寝食をともにすることに違和感がなかった。
天井を見つめること数分足らず、そろそろだと思ったところで、シャワールームの扉が開いた。
アスカだ。
薄いタオル一枚で体の前を隠して、そこに立っていた。
「来て。からだ、冷えてるでしょ?」
「うん」
バスチェアに座らせたアスカの後ろに膝をついて、その真っ白な背中にお湯をかける。
いく乃の死を境にして、いや、その前の日、あの宿舎での夜を境に、アスカの真への態度が明らかに変わった。
彼女との関係性が少しずつ変化しているのは、真は自覚していた。
文化祭のステージを経て良き友人になれたと思ったし、戦闘を経て互いに信頼し合えていると感じていた。
それは今も変わらない、おそらく、アスカも同じように真に対し友情と信頼を抱いてくれているはずだった。
けれど、あの夜以降、アスカから感じるのはそれだけではなかった。
「ねぇ……真くん」
同じところに当てすぎないよう上下左右へシャワーヘッドを動かす真の手を、ふいに、アスカが掴んだ。
彼女の纏っていたタオルが落ちる、白磁のような美しい肌が露わになる。
自分を見つめるアスカの深く青い瞳の中に、今は、はっきりと
それが自分にとって良いことなのかどうかは判断できない。
アスカのことになると、思考が痺れたようになってうまく考えられない。
だから、些末なことだと思って考えないようにした。
実際、彼女に求められることの居心地の良さは代え難いものだ。
「……」
自分は今、アスカのためにある。
黒崎真という人格が、いったい何に求められて今ここにあるのかは分からないし、自分には知りようもないことだ。
アスカの心の欠けた部分を自分が埋められるのなら、それで彼女が、今日を、明日を、生きてくれるのなら、何だってかまわなかった。
シャワーを下げて、上気したアスカの頬へそっと手を添える。
交わった視線の距離が、ゆっくりと短くなっていく。
鼻先が触れ合う、腕はいつの間にか互いの体を抱いていた。
直接肌に感じた彼女の体は、まだ少し冬の冷たさを残していた。