11月になって街では少しずつ冬のにおいが濃くなり、気づけば日もずいぶん短くなっていた。
もう辺りは真っ暗で冷たい風が肌を刺す。
見慣れたマンションの12階にある角部屋の前にたどり着いた僕は、一応いつものようにインターホンを押した。
相変わらず返事はないので、持っていた合い鍵で扉を開ける。
室内はやはり真っ暗だった。
右手が無意識に電灯のスイッチに伸びて、ベッドの上に丸まっている柏木恭介の姿を照らし出す。
「恭介。夕飯持ってきたよ」
「なんだ、ケイか」
がっかりしたような声色に今さら傷つきはしないけれど、いつまでこんな日々が続くんだろう、とは正直思う。
恭介は、面倒くさそうに体を起こした。
僕より18歳年上でもうすぐ38歳になるとは思えないほど透き通った綺麗な目が僕をとらえる。
そのあどけない表情が悲しくて、思わず目を逸らした。
恭介は僕がアルバイトをしているソフトウェア開発会社、“ウィンクルス”の社長……
今は事故の後遺症で記憶を失くしていて仕事ができる状態ではないため、古い友人の瀬尾智遙が業務を引き継いでいる。
「ケイは別に来なくていいのに。それより颯斗はどこにいるのかな?」
泣きそうな顔で呟く恭介に苛立ちが募る。
僕の事をすっかり忘れてただのアルバイトだと思っているのも仕方のない事だし、こんなことになったのは僕のせいでもあるから今の恭介を受け入れようとは思っているのに、『颯斗』の事を彼が話すたびに胸の奥が変な風に痛むのはどうしようもなかった。
恭介が言う「颯斗」は、生き別れになった彼の息子の事だ。
家族のいない恭介にとっては「颯斗」だけが唯一の肉親で、記憶を失くした今でも「大切な存在だった」ということだけは覚えているらしい。
「颯斗に会えたらきっと記憶も戻ると思う。俺にとって一番大切な存在だったはずだから」
繰り返し聞かされて飽き飽きしている言葉は聞こえないふりをした。
「颯斗」なんかじゃなく僕を見てほしいなんて言えないまま、手提げ袋に入れていたタッパーを取り出す。
知らず知らずのうちにため息がこぼれていた。
天才プログラマーだった恭介は、虹彩認証によって鍵が開く「宝箱」を作っていた。
すごいのは鍵を開けさせたい人物の虹彩パターンを登録していなくても、その人物が「宝箱」を手にした時点で開けられるようにしたことだ。
両親の遺伝子識別情報を組み込むことでそれを可能にしたらしいが、どういう仕組みなのか僕にはよく分からない。
分かるのは、「宝箱」を開けられるのは恭介の息子である「颯斗」だけだという事だ。
ずっと会えていない、自分の唯一血のつながった息子だけが開けられるように作られた「宝箱」は今もこの部屋の片隅にある。
試しに開けてみようとしたことがあるけれど、鍵穴も何もない金属製の箱はびくともしなかった。
「颯斗」は相当愛されているみたいだ。
うらやましいとは思うけれど僕には関係ないのだから、そんな風に思うのさえきっと間違っているんだろう。
「じゃあ帰るから。またね」
瀬尾さんが作った料理が詰められているタッパーをテーブルに置くと、ぼんやりと虚空を眺めている恭介に声を掛ける。
どうせ反応はないだろうと思っていたが、意外にも彼は立ち去ろうとしている僕を見ると言った。
「もう帰るの?泊まっていけばいいのに」
さっき来なくていいと言ったばかりだろ、と思いながらもやけに綺麗なアーモンド形の目で見つめられると何も言えなくてつい目を逸らした。
今まで恭介と付き合ってきた人々もこんな気持ちになったのかもしれないな、とぼんやり思った。
「明日も忙しいからごめん」
それだけ答えるのが精いっぱいで恭介に背を向ける。
視線を感じたけれどもう振り返る気にはなれなかった。
記憶を失くす前の恭介は無邪気なエゴイストで、いい加減で、人の気持ちなんて全然分かっていなくて、でも僕には優しかった。学費も出してくれたし色々なところに連れて行ってくれた。
自分は恭介の特別な存在だと思っていたけれど、病室で目を覚ました彼は僕を見て
『君は誰?』
と言った。
昔からの友人だった瀬尾さんの事は覚えていたのに。
でも仕方ない。
むしろ覚えていない方がよかったのかもしれない。
『僕は、ケイ。ウィンクルスでアルバイトをしてる』
咄嗟に答えながらそう思っていた。
恭介が記憶喪失になった原因である、自分が運転する車で夜更けにガードレールに突っ込んだ出来事。瀬尾さんは事故だとしか思っていなかったようだけど、本当は自殺未遂だったんじゃないかと僕は思っている。
僕の父親が松原洸一郎―恭介の家族を壊した人間だと知ってしまったから。