僕は律たちと一緒に、月とかがり火を頼りに山道を歩いていた。
地面を踏む鈍い足音が不気味に聞こえる。
昔一人でとぼとぼとこのあたりを歩いていたことを思い出してまた記憶がよみがえりかけながら、ひたすらにこの道の終わりを目指した。
少し前を歩く律は僕の方を見ることもなくまっすぐに前を向いていた。
『……好きだよ』
律の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
律はどうしてそんな事を言い出したんだろう。
あれはもうずいぶん昔の事で、二人とも子供だったから多分お互いに勘違いしていた、それだけなのに。
山道が終わり、少し開けた場所に出る。目の前には石造りに木の扉がついた祠があった。祠の前には木でできた台があり、その周りにはかがり火が焚かれている。
鞠子が木の扉に古びた鍵を差し込み、回すときしむような音がして扉は開いた。
中には水瓶と黒い柄の小刀が入っている。
鞠子はそのまま、中に入っていた黒い水瓶を取り出すと木の台に置き、実里が持ってきた竹でできた水筒から中に水を注いだ。
郁哉が小刀を取り出し、水瓶の前に立ち、お経のような呪文のような言葉を唱える。これは当主になるものが教えられる決まった文言らしいが、その資格がない僕はちゃんと聞くのは初めてだった。
たしか、松原一族の人間が輪になり、順に満月を映した水瓶を手渡しながら清めの塩を入れる。最後に次期当主が受け取って塩を入れた後、指先を小刀で切った血を水瓶に垂らし、水瓶の中の水を全員で回し飲みする、という手順だったはずだ。
松原家の人間以外は水瓶にも小刀にも触れてはいけないという決まりになっているというのは昔も一度聞いた。
今更という感じで馬鹿馬鹿しいけれど、わざわざそんな事を言う必要もなく、僕はずっと口をつぐんでいた。
松原家のお手伝いさんは水瓶から少し離れた場所に佇み、疲れた様子もなく無表情で実里たちを見ていた。こんな儀式に付き合わされるなんて大変だな、と他人事のように思う。
水瓶が鞠子、実里、の順に手渡されていく。
そういえば松原洸一郎―僕の父が当主になる時にもこの儀式は行われた、と思う。
あまり覚えてはいないけれど。彼は本家の長男で会った上に前当主―僕の祖父に当たる―にも好かれていたらしいから、特に問題もなく当主に選ばれたのだろう。
そんな事を考えていると、ふと足元に違和感を覚えた。
かがり火でかすかに照らし出された地面の上に、黒っぽい少し光る粉が落ちているように見える。
もう昔の事だから記憶違いかもしれない。
でも、実里が僕に飲ませようと地下から持ち出してきた毒薬にとてもよく似て見えた。
満月が雲に隠れようとする。高く低くうなるような耳鳴りの中、自分が何をしているのかも分からないまま、僕は水瓶を郁哉から奪い取っていた。
そのまま水瓶の中身をすべて地面に捨てる。
たしか実里は死んだ金魚をつついて遊んでいたから、触れるだけで死ぬようなものではないだろうとか、誰かが塩を入れるふりをして毒を入れたのか?とかとりとめのない思考がぐるぐる頭の中を回っていた。
水瓶に触れられるのは松原家の人間だけ、という事は……。
「おい!何やってるんだよお前!」
郁哉に突き飛ばされてよろめく。咄嗟の事だったので避けることができず、腕に痛みが走った。
郁哉が持っていた小刀がかすめたらしい。厚手の上着のおかげでおそらく大した怪我にはなっていないだろうが、その部分は生地が裂けてしまっていた。
「これじゃ儀式が成り立たないだろうが!」
「ごめん、虫が入ってたから」
毒入りかも、なんて言ったら大変なことになるに違いないし、まだそうと決まったわけではないのでそんな風にごまかすことにした。
「虫とかどうでもいいだろ!お前が責任取れよ!」
小刀のひんやりした感触が首筋を這う。
「やめろよ!また来月やればいいじゃん。どうせお前が当主になる事は決定なんだろ。焦る意味なくない?」
律が郁哉の肩を掴む。
郁哉は律に向き直ると一度舌打ちをして土くれを蹴った。
ふと、誰かの視線を感じて振り返る。
そこでは鞠子が目を見開いて僕と郁哉を見比べていた。
……僕と郁哉はよく似ている。
お互いに髪が乱れ、暗がりの中でその色がはっきり分からない今は特に。
「……今日は一旦屋敷に戻りましょう」
鞠子は静かに言った。
「儀式をどうするかは明日改めて決定します。それでいいですね、郁哉」
郁哉は不満そうな顔になったが渋々といった様子で頷いた。
「いいですけど。俺が当主になるのはもう決定事項ですからね、伯母様」
鞠子はその言葉になんの反応もしなかった。