目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第4話 目覚めのループ


 時間は現在に戻る。


 烙示が床に寝そべりながらテレビを観賞し始め、礼は天井を眺めながらテレビの音声を意識半分で聞き流す。数分経ったあたりでエアコンが本格的に稼働し、蒸し暑かった部屋は少しずつ快適さを増した。

 それにつられるように礼の心も落ち着きを取り戻し、礼はふと思い出したかのように頭を上げ、烙示に声をかけた。


「ねえ? 寿原さんって、今日何時に迎えに来るんだっけ?」


 しかしながら、烙示はどうやらテレビを見つつも昼寝の第二弾に入ろうとしていたようであり、礼の問いに眠そうな声で答えてきた。


「んあぁ……? ん? あぁ……なんか言ったか?」


(くっそ……睡眠中だったか……? 輪郭しか見えないから寝てんのかわかんないって。つーかテレビ見てたんじゃないの? やっぱ姿が見えないといろいろと不便なことが……)


 烙示の寝落ちの速さに少し驚きつつ、とはいえ睡眠の邪魔をするのも悪いような気がした礼は、烙示に問いかけるのをやめて上半身を起こす。


「いや、寝てんだったらいいや。たしかメールに残ってたような」


 そして礼は机の上に置いていたスマートフォンをとるため、ゆっくりと立ち上がった。


 しかし――


「ん? いや、寝てねぇよ。なんだ? なんか用事があったんだろ? 俺に聞けよ。気になんだろ」


 ここでとてもウザい烙示の寝てないアピールが始まる。烙示が寝ていようが寝ていまいが、礼としては本当の本当にどうでもいいことであるが、対する烙示が一大事とばかりに激しい動きで体を起こし、挙句の果てには礼の歩みを阻むかのように、机に近づこうとしていた礼と机の間に割って入ってきた。


「いやっ! いいってば。つーか寝てたじゃんっ! なんでそんな嘘つくのっ!?

 じゃーまっ! おいっ! ぬぉーっ! 邪魔だってばっ! どいてっ!

 ぬーぉっ! お、重い……重いってっ!」


 何故かまとわりついてくる烙示を力任せに押しのけ、それを烙示がさらに抵抗すること2~3分。寝起きの汗がせっかく引いたのに、さらに多量の汗をかいてしまうほど白熱した格闘に発展したあたりで、同じく寝ていた鎖羽が止めに入ってきた。


「烙示? 礼様を困らせるのはやめておきなさい」

「ん? 別に困らせてるわけじゃ」

「じゃあ、じゃれているのですか? まったく……そういうことは外でしてください」

「べ……別にじゃれているわけじゃねぇよ!」


 烙示が鎖羽に気を取られる形でそんなやり取りを始めたため、礼はここぞとばかりに烙示の体をすり抜け、机に到達した。


「あっ!」

「ふっふっふ。油断大敵!」

「くそっ!」


 背中から烙示の残念そうな声が聞こえてきたので適当にからかいつつ、礼はスマートフォンを手に取って再びベッドに戻った。


(つーか、本当にじゃれてきてたのかな? やっぱ犬なんだね)


 礼はベッドに横になりながら、スマートフォンを操作する。と見せかけて少しがっかりしている雰囲気の烙示を横目でこっそり見てみると、烙示の輪郭はだらしない感じで仰向けになっていた。


(あっ、寝た。いや、多分だけど絶対寝てる……よね? でも、やっぱ寝るの早いね。これは犬っぽい習性かな)


 犬は猫に負けず劣らずの睡眠好きな動物とのこと。礼自身、犬という動物を飼育したことがないので、これは友人から聞いた話によるものである。


(……そういえば、あいつんちの犬も……)


 実際にその友人宅を訪れた時、友人の飼う小型犬は礼が玄関に入った時こそキャンキャンと吠えていたものの、ほんの数分後礼が友人と本格的にテレビゲームを始めるぐらいには礼の存在に飽きてしまい、あぐらをかく礼の膝の上で熟睡を始めた。

 結果、どうしていいかわからなくなった礼は帰宅まで姿勢を崩すことをできず、必死の形相で尿意を我慢させられることとなるが、それはすやすやと眠る犬の可愛い寝顔と一緒に、一種の嬉しい苦行として礼の思い出にしておく。

 それはいいとして、たった今烙示が見せたテンションの昇降がその小型犬の雰囲気と非常によく似ていた。


(あ、でも……)


 しかし、ここで礼はその犬と烙示の条件を比較し、首を横に振る。


(なんていうんだっけ? あの犬……えーとぉ……ポメニラン……? いや、違う。んーー……そうっ! ポメラニアンだ!)


 片や室内犬の代表格ともいえる小型犬。もう片方については、その輪郭の大きさから受ける印象のみであるが、体高だけで礼の肩ぐらいまでの高さに達し、明らかにそんじょそこらの大型犬すらしのぐ体格である。


(駄目だ……ポメラニアンに……失礼だ……)


 この時点で、礼は二者を比べることに意味のなさを感じ、他の事実に思考を向けることにした。

 犬がじゃれてくるという一見すると微笑ましい光景について、烙示のそれはまさに捕食者の風格を漂わせるものであるということ。加えて自分に都合のいい時だけ物理的な存在感を発揮し、礼が押しのけようとしたときには逆に空気のような存在に変化するという能力まで持ち合わせているということ。

 それらの事実を踏まえると、とてもじゃないが烙示を犬という枠に収めることなど出来るわけがない。


(でかいし、怖いし。しかも本当に面倒なんだよね。この能力……)


 現実離れした技術を用いた烙示の邪魔により、礼はベットから机まで移動するだけで本当に2、3分の時間を必要とし、挙句は結構本気の取っ組み合いにまで発展した。

 それは他の視点から考えると、礼自身、テンションの上がった烙示にいつ殺されてもおかしくはないという事実にも繋がる。

 そのことに気づき、礼は小さく身震いした。


(け……喧嘩は……よくないよね……? 俺、あんまり調子に乗ってるとそのうち殺されるかも……)


 とはいえ烙示にその気がないということは明白である。あそこまで本気の喧嘩をしておきながら、ライオン級の猛獣である烙示が礼のことを食べようとしなかったばかりか、小さな傷の一つも負っていないという事実がそれをはっきりと証明していた。


(た、多分……大丈夫)


「ん? 礼? お前、なんか怯えてねぇ?」


 その時、礼の心境を敏感に察知した烙示がこれまたウザい感じで絡んできた。タイミング的に礼の恐怖心をからかっているように聞こえたが、恐怖心がマックスだっただけに、ここで事を荒立てると先ほど脳裏をかすめた最悪の未来が訪れるような気がした礼は、反論を控える。


「……」


「おい、シカトかよ!?」


 結果、烙示から見れば最悪の反応になってしまったわけであるが、それに気づかない礼は気持ちを切り替えるかのようにベッドの上でごろごろと転がり始めた。


「うーん……うーん……」


 ベッドの端から端まで数度往復し、烙示に対する恐怖感が消え去ったところで、礼はスマートフォンに保存されている寿原からのメールを探し始めた。


(んーと……夕方に迎えに来るだっけ。それで今は1時半? ってーことはぁ……もうちょい時間あるかな。下行って昼飯食べて……ちょっと買い物でも行ってこようかな。

 父ちゃん死んでからプラプラしてないし。今日は久しぶりに楽しもう)


 壁の時計とスマートフォンの画面を交互に見つつ、色々と考え事を済ませた礼は再び体を起こす。


「寿原さんは夕方に来るって。とりあえず、俺下行って昼飯食ってくるね。その後少し準備して、買い物行こうと思うんだけど、どうする?」

「ん? 買い物?」

「うん。2、3日前に欲しいゲーム発売だったからさ。小遣い貯めてたし、早速買っちゃおうかなって。

 寿原さん、こっち着く前に連絡するって言ってたから、それまでに戻ればいいし。

 どうせ今日の行き先もあの寺じゃん? あそこまで結構かかるし、車ん中でゲームできるじゃん?」


 こういったところは年相応の中学生である。

 この件を話している礼の心の中に、本来そのゲームを買ってくれる予定だった父親の姿が浮かび、礼は無意識に表情をいくらか暗くしてしまったが、父親が他界した後おかしな儀式や学校の定期テストといった多忙な生活を送っていた礼にとって、それらの行事が一通り過ぎた今日・明日あたりにぶり返すであろう悲しみの感情を紛らわすためには、ゲームという娯楽は最善の気晴らしであった。


 それゆえこのときの礼は買い物を計画し、その行動に烙示と鎖羽を誘ってみたわけであるが、ここで相手が礼の予想を上回る答えを返してきた。

 まずは出窓のあたりから鎖羽の答え。


「ん? 2、3日前といいますと……あぁ、フライングフューチャーのパート3ですね? 携帯ゲーム機としては史上初となる最大1万2000人の同時プレイを可能とした……48億円を投じたと噂されるゲームメーカーの大容量専用サーバのトラフィック処理がいかなるものか非常に興味深い作品です。ぜひともご一緒させていただきたい!」

「ん……?」


 異常に詳しすぎるゲームの話を嬉々として喋る鎖羽の様子に、鎖羽たちを山奥で生まれ育った田舎っぺ妖怪と見なしていた礼は言葉を失う。

 もちろんこれは礼の独断と偏見であるが、それもあながち間違ってはいないため、妖怪――もとい精霊として、明らかにおかしいレベルの知識であった。

 しかしながらこういう流れにはもちろん烙示も乗ってきた。


「おーっ! あれかっ! なんだよ、礼っ! お前、あれ買うつもりだったのか? それならそうと先に言えよっ!!

 つーか、俺らに金くれれば、発売日に買いに行ってやったのにっ。

 でも……そうだよな。この部屋の棚にそれ系のゲームやたらと多かったし、フラフュー(フライングフューチャーの略)も1、2揃ってたし!

 まさかとは思ってたが、やっぱ3も買うよな!?」


 ちなみにここで1つ、忘れてはならないことがある。

 礼が昨日まで定期テスト中であったという事実。

 机の前で地獄のような苦行を強いられている礼の隣で烙示たちが楽しそうにゲームをしてしまうと礼が勉強に集中できなくなってしまうため、礼は意図的にゲームのことを考えないようにしていた。


(そんな時期に買ったら……成績下がる……母ちゃんに怒られる……)


 烙示たちも似たような配慮によって、意図的にゲームの話題を持ち上げなかったわけであるが、しかしそんなことはこの際どうでもいい。

 この2匹の不可思議生物がなにゆえ最新のゲーム事情に詳しいのか。予想だけで礼の買おうとしているゲームをぴったり当てた鎖羽の無駄な分析力も含めて、非常に興味深いところであった。

 しかし、礼は目の前の妖怪もどきたちが携帯ゲーム機に興じることについて、大きな壁があることも忘れない。


「ん? でも、その体でゲームとかできんの?」

「なんで? 俺、その気になればそこらへんのもの普通に触れるし」


(あぁ……そうだった。一応、烙示は物とか持てるんだった)


「そだね。じゃあ鎖羽は?」

「私は……手頃な生き物の体を乗っ取って、その体を使ってプレイ出来ます。多少短い時間ならこの体のままでも運びもののお手伝いなどできるのですが、私は烙示と違い幻のような特性が少し強くて……さすがに9時間、10時間もこの世界にしっかりと存在するのは負担が大きい。なので、お手数ですがこれからは礼さまのお体をお借りしてゲームをするというシステムで。やはりあのコントローラーは人間用に作られていますので、他の動物にとり憑いても、短い指だとボタン押しにくいのです。ですので、礼様も何とぞそのように!」


(なるほど……確かに、鎖羽は少し存在感が薄い感じだよね。蛇の妖怪なんだからもともと手足無いだろうし……でも……さすがに何時間もとり憑かれるのはつらそう)


 いや、そうじゃなくて――


「とり憑かれてたまるかぁーっ! しかも、10時間ぶっ続けでゲームするのが当たり前のように言うなっ!」


 結局、またまたいらだちが募ってしまった礼は、大きく叫ぶ。


「あぁ! もういい。じゃあ2人もついてくるってことでいいんだねっ!? 俺は飯食ってくるからっ! それまでおとなしくしててっ! 動くなっ! 呼吸もしちゃだめっ!」


 最後に小学生のような台詞を吐き捨て、礼は部屋を出て階段を降りた。




 その後、礼は1階のキッチンへと向かう。ドアを開けると礼の母親が礼のために作り置きしていたであろう冷やし中華を、冷蔵庫から取り出すところであった。


「おはよ……あれ? なんで俺が降りてくるってわかってたの?」


 時間は午後の1時半を回ったあたり。

 なので母親はすでに昼食を済ませており、礼が昼食の席に不在の場合、母親は一度作った昼食を冷蔵庫に保存する。それを礼は好きな時間に取り出し、食事をするのが風那家の通例であった。

 にもかかわらず母親はこの時、礼がキッチンに姿を現すと同時に、礼の食事をテーブルに乗せていた。

 もちろん礼はここに来る数分前まで烙示とプロレスのようなことをしていたので、その物音が下まで響き、母親が礼の起床に気づいたとも考えられるが、それにしてはぴったり過ぎるタイミングである。


(ただの偶然?)


 しかし、食事がタイミング良く用意されたということ自体大した問題ではないので、空は質問しつつもその返事を待たずにキッチンのテーブルに座った。


「いただきます……」


 小さいながらも丁寧な口調でつぶやき、礼は冷やし中華を口へと運ぶ。

 しかしながらここで礼の母親が先ほどの質問に対して、ワンテンポ遅れながらもなかなか嫌な答えを繰り出してきた。


「さっき鎖羽君が麦茶持っていったでしょ? あれ渡したの私だし。

 私はあの子たちの姿見えないし、声とかも聞こえないけど、礼が下に降りてくるときはここの鈴鳴らして教えてちょうだいって伝えてたら、今さっき鳴らしてくれたからね。あの子たち便利よねぇ。あっ、ほら! このホワイトボード見て! さっき鎖羽君が『礼様が麦茶をご所望です』って書いてった。

 尻尾で書いてるのかしら? 普通に考えれば、立派なポルターガイストなんだけど、おかしくておかしくて……!」


 ちなみにキッチンの壁の一角にぶら下げられた鈴の位置の真上は礼の部屋の出窓にあたる。鎖羽なら床や壁を通り抜ける形で尻尾の先だけを下に伸ばし、頭部を礼の部屋に残しながら鈴を鳴らすことが可能である。


(うん。なかなか合理的なコミュニケーションの取り方だ)


 しかし、このときの礼が言いたかったのはそういうことではない。


(じゃなくて……)


 便利というか人使いが荒いというか。または化け物使いが荒いというか――

 礼でさえ未だに対応を戸惑っている2体の存在に対し、母親がやたらと理解を示している点が非常に怖い。


「そ……そう」


 礼は短く答え、冷やし中華を口に運ぶ。と同時に、礼の脳内に1つの推察が浮かんだ。



 やたらと理解が早い母親の態度について。

 自分こそ教えられていなかったものの、もしかしたら父親の仕事内容について、妻である礼の母親はその全てを知っていたのかもしれない。

 いや、全てではないとしても8割方は知っているはずであり、そうでなかったらむしろ自分の妻に対して仕事内容をなにも伝えていなかった父親の人格や、それを問題にしなかったという意味で2人の関係性そのものを疑ってしまうぐらいの問題である。


「ふふっ! 今日の夜も出かけるんでしょ? お弁当作っとくけど、お昼もしっかり食べときなさい」


 葬儀の間は事あるごとに涙を見せていた母親が10日間足らずの間に気持ちを立て直し、今まさに礼の目の前で機嫌のよさそうな笑い声を上げている点も加味すると、母親自身、夫の仕事とそのリスクについて前々から知っていたと考えるのが妥当であった。


(母ちゃん……)


 しかし、その心境はやはり計り切ることができないもの。礼の前でのみ強がっている可能性も否定できないため、これ以上の深追いは禁物である。

 礼は無難な返事をしつつ、話題を変えることにした。


「うん。寿原さんが夕方ぐらいに迎えに来るって。そんで、それまでちょっと出かけてくるね? いいでしょ?」

「えぇ。何か急用?」

「いや、ちょっと買い物。欲しいゲームあるからさ」

「そう。あまり無駄使いしないようにしなさいね。それにゲームばっかりやってると成績落ちるわよ」


 子供がゲームの話を始めると、それをすぐさま勉強の話題に変えてしまうのが21世紀の親というもの。


(うぉっ! ミスった!)

 逆に勉強を生贄にして欲しいゲームを手に入れるのも21世紀の子供たちが生きる術の1つであるが、なにはともあれ先日まで行われていた定期テストの手ごたえについて、礼は食事中ずっと事情聴取レベルの尋問を受けることとなる。


「はい……勉強は大事……今習っていることを将来使う事がないとしても……はい……そうです。この時期の勉強は、嫌なことから逃げない人間になるための訓練……はい……わかっております……あと、ごちそうさま。冷やし中華美味しかった。やっぱ夏は冷やし中華に限るね。じゃあ、俺もう行くね」


 結果、マインドコントロールを施されたかのように母親の言葉を復唱するように強いられた礼は、その台詞の最後に無理矢理ごちそうさまの挨拶を付け足すことに成功し、逃げるように2階の自室に戻った。


「ふーう。思わぬ奇襲……」


 部屋の戸を閉めるなり、礼は緊張から解き放たれたように爽快な表情を浮かべる。

 その気配に、仰向けになって寝ていた烙示が反応し、起きあがった。


「おーう。おかえり。どうした?」

「いや、母ちゃんにテストの結果聞かれて……まだ結果返ってきてないのにしつこくて……」

「ん? でも問題ないだろ? 俺と鎖羽も一緒に考えたんだ」


 ちなみに誠に遺憾な行為であはるが、礼はテスト中に烙示と鎖羽を使ってのカンニングという、学生としても人間としてもぎりぎり外法な行為に手を染めていた。


「いやいやいやいや。そんなこと母ちゃんに言えるわけないじゃん。あっ、鎖羽も内緒だからね? マジでっ!」

「はい。わかりました。でも……0泊七日ともいえる礼様ご本人の尋常ではない努力に、我々の知識。あの程度の問題なら間違えることはまずないでしょう? むしろ次からは、あそこに列席してた小童たちなんて相手にしないで、下の階の者どもに戦いを挑んでみては?」


 鎖羽が何故か礼やその母親といった限られた人物に対してのみ礼節を示し、礼のクラスメイトやその他の人間にはやたらと上から目線な態度をとる傾向にあるが、それはどうでもいいとして――また中学生の定期テストについて鎖羽から少し勘違いしているような雰囲気が見受けられるがそれもどうでもいいとして、今しがた地獄の尋問を乗り越えた礼は短い言葉のみ返しつつ、精神を休めるかのようにベッドの上にゆったりと座った。


「いや、下の階って3年生の教室だから。俺2年生だから……そこまで勉強頑張る意味ないから……」

「そうですか……」

「負けるのが嫌なのか?」


 いや、途中で烙示が余計な一言を入れてきたので、礼は一応しっかりと反論することにした。


「テスト勉強は勝ち負けとかじゃないし。むしろあれは睡魔との闘い……うーん。そうでもないかも……まぁいいや。

 それで、いい? 世の中には義務教育って制度があってさ。

 こう、義務だから一応やるけど、わざわざ他人の前歩く必要無い感じの……まるで……そう! 人生のような、そんな儀式なんだって」


 言っていることが意味不明であるが、礼自身、勉学に対しての立派な決意を持っているわけではない。烙示の挑発に乗ってみたはいいものの、途中で言葉に行き詰まるのも当然であり、後半ぐだぐだになりながらもそれっぽい結論で誤魔化していた。


「そうか……英語の本の話。意外と面白かったのにな」


 ここで英語の教科書に異常な興味を示していた烙示が残念そうな声を発するが、烙示たちが今さっきゲームに深い見識を示していたため、彼らの好奇心がどういう性質なのかわからなくなってしまっていた礼は烙示の台詞もスルーしておく。


「えぇ。理科の指南書もなかなかのものでしたなぁ。まさか何もないこの空間に小さな粒がぎっしりと詰まっているなんて。私も酸素とやらを体の中に取り込んでいるのでしょうかねぇ。それにしても、地球が丸いと教えられたあの時に匹敵する驚きでした……」


 しかし、その次に鎖羽が口にした言葉はクールで大人っぽい彼の声色を保ちながらもなかなか酷いレベルの発言だったため、それを聞いた礼は思わず吹き出してしまった。


「ぷっ!」

「ん? 礼様。どうなされました?」

「いや、鎖羽の声で原子がどうとか言われると面白くってさ」

「んんっ! それは心外です。私はここ数十年あの寺の周りを徘徊していただけの生活でした。そのような最新の指南書を手に取る機会などありません。しかし、もしそのような機会が与えられていれば私は自身の知識を広めるためにそれはそれは努力に次ぐ努力を……」


「いやいやいやいや。ごめんごめん。バカにしてるつもりはないんだって。むしろ鎖羽がそういうのに詳しかったら逆におかしいし。

 でも……まぁ、テスト中は助かった。サンキュウ!」


「おっ? サンキュウ……つまり『Thank You』 あなたに感謝するって意味だな?」

「いや! 烙示の補足めんどくさっ!」


 などなどちょっとした会話も済ませつつ、礼たちは外出の準備を済ませて家を出ることにした。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?