「ふーう。やっぱ外はあっついね。早速、汗が噴き出してきた。こりゃ店に着くまでに、びしょびしょになりそう」
家を出て数歩、礼は梅雨明けの綺麗な青空を見上げながら夏の到来を実感する。
その後、礼は後ろをついてくる空間のゆがみに視線を向けた。
しかしその視線の先にいるはずの烙示と鎖羽は太陽の光によって存在感をさらに薄めてられてしまい、視覚による確認すら困難な状態である。
(まぁ……ついて来てんだろうね)
礼自身がなんとなく感じる存在感。それが肌で感じるものなのか、はたまた霊感とやらで認識できるものなのか。
どちらとも言い難い感覚であるが、烙示と鎖羽の存在感は礼の後ろ2メートルほど離れたところからしっかりと感じられる。
(それに……)
ここはまだ閑静な住宅街であるが、この2人が同行するようになってから、礼の周りにいた野生の小動物や近隣の住居に住むペットなどが一斉に威嚇の声を上げるようになった。
なので今現在、礼は多種多様な鳴き声に包まれている状況であり、その点からも礼は烙示たちの存在感を確認することができた。
(窓締め切ってる家の中からも聞こえるんだよねぇ。こっちの姿見えないはずなのに……やっぱ動物ってそういう感覚持ってんのかな?)
などなどさすがに1週間もたてばこのような状況にも慣れてしまうため、礼は特別な反応もせずにどうでもいいことを考えてみる。
「がるうぅぅ……」
そして、おそらくそこら辺に飼われているだけの小物ごとき獣たちから喧嘩を売られているのがむかついたらしい烙示がしびれを切らし、低い声を遠く響かせ、周囲の動物を迫力のみで黙らせるのも見慣れた光景であった。
しかし、この時の礼は普段より声を荒げている烙示のいらだちに気づく。
「ん? どうした?」
「なにが……?」
「いや。今の声、いつもより怖くなかった?」
「……」
ここで烙示が無言。異変を感じた礼は歩みを止め、烙示がいるであろう方向に振りかえる。
「どうしたの? やっぱ日光しんどい?」
しかし、それに答える烙示の口調は、烙示としては珍しいほど暗く、弱々しいものであった。
「なんかよう……昨日だっけ? 夕方さ。俺1人で散歩に出たじゃん?」
(ん? もしかして泣いてる? どうした?)
礼自身、烙示が泣いているところなど見たことがないので、判断に難しいところである。
(わかんない……)
しかしながら泣くにせよ泣かないにせよ、強気な性格っぽい烙示がここまで弱々しい雰囲気になるとは思えないので、ただ事ではないのだろう。
そう思った礼はいつもより穏やかな口調で烙示に問いかけることにした。
「あぁ、出てたね。どうしたの? なんかあったの?」
しかし、烙示のことを心配した礼の優しさは、見事に駆逐されることとなる。
まずは弱々しいながらも自分のことを棚に上げた烙示の差別発言。
「いや、なんつーか。そこで通り過ぎた下賤な犬どもがさ……」
(『下賤』って……雑種のくせにっ! いや、わかんないけどもっ! 烙示って、絶対雑種じゃん! ここらへんの家、血統書付きっぽい犬結構いるよっ!?)
しかしながら、この点について追求を始めると面倒なことになりそうだったので、礼は気づかなかったことにしておく。
「ん? どうしたんだよ?」
なにはともあれ、礼は優しい口調で質問を続ける。
そして次の烙示の言葉により、礼の心配はいらだちへと変わった。
「なんかよう……やたらかっこいい首輪してるやつ多くてさ。
なんつーか……ヒモもさ……ぎゅーんって伸びたり、しゅるしゅるって縮んだりするハイテクな散歩ヒモもってやがって……それ思い出してさ……」
(あぁ……あれね……)
烙示の無駄にしんみりとした口調も、逆に悪意を感じさせるものである。
(これ、完全に演技だよねぇ。おもちゃ欲しがってる子どもがよくやるけど、意外と分かりやすいもんだね)
いわゆる1つの『物欲×駄々っ子』パターンである。
というか首輪と犬の散歩用のリードを烙示に着けるということは、礼が飼い主の立場となり、対する烙示は自分自身を飼い犬に貶めてしまうことにつながる。
また、そもそも烙示のような非現実的な存在に首輪をつけることの意義が皆無であり、人間の言葉でコミュニケーションをとれるほど知能の高い烙示が、闘争心のみで他の犬に襲いかかるとは考えにくいため、烙示をリードで制御する意味は本当に皆無であった。
(いや、そうじゃなくて……紐と首輪。他の人から見ると浮いてる様に見えるんじゃ……?)
烙示は他人からは見えない存在である。そんな状態で礼たち一行が街中をうろちょろすれば、ご近所さんの間で非常にコミカルでミラクルな礼の噂が広がってしまうことも明白であった。
(うーん。絶対いやだけど……やっぱり『ハイテクな散歩ヒモ』とやらの詳細が気になる。絶対にツッコまないし、絶対に買ってあげないけど)
などなどいろいろとツッコミたいポイントが脳裏をよぎりつつも、ヘタにツッコミを入れ続けると烙示の術中にはまりそうな気がしたため、礼は心に湧きあがるツッコミ魂をしっかりと押さえつける。
代わりに駄々をこねる子供にとって死の宣告に近いほど残酷な一撃必殺を繰り出すことにした。
「贅沢言うな。よそはよそ。うちはうち。そんなものは要りません」
しかしながら、対する烙示はまさに駄々をこねる子供となっていた。
「いやだっ! お前、フラフュー3買う金あるんだろっ!? だったら俺にも首輪買ってくれたっていいじゃねぇかっ!?
よく考えろっ! 俺は餌用の皿もいらねぇし、犬小屋もいらねぇっ! ワクチン用の費用もいらねぇしっ。
だから首輪ぐらい買ってくれたっていいだろっ!?」
(詳しい……絶対調べてる。どこで調べたのかな? ってか俺のツッコミ、完全に誘ってるよね? そんな気がしてきた……)
犬を飼い始めるときの初期費用の内訳についてやたら詳しいあたりが非常に怪しく、その点についてまたまた心が騒ぎ始めた。
しかし、もしかするとこれも礼の心に揺さぶりをかけようとする烙示の陰謀かもしれないと思ったため、礼は首を二、三度横に振り、大きく深呼吸をする。
そして今度は大きな声で反撃することにした。
「ふざけんなぁっ! これからゲーム買うから余計なもん買えないんだってばっ! 烙示ぃっ!? ゲームと首輪、どっちが欲しいのっ!?」
今さっき自分の部屋で交わされた会話によれば、この2体は間違いなくゲームマニアとしての素質を兼ね備えている。そして、そんな烙示にこのような2択を迫れば、烙示の答えは十中八九これから買おうとしているゲームになるはず。
もちろんゲームならば3人で楽しめるし、同じ趣味を持っていたという事実を大切にすることで今後の関係も良好なものになる。
そう思っての反撃であったが、礼の言葉を受けた烙示はいきなり興奮を収め、低い声で語りかけてきた。
「礼? お前、財布の中身はどれぐらいだ?」
「え? あっ、え? 確か……8000円ぐらい……」
そして次は鎖羽へ。
「鎖羽!? お前、2~3日前にネットで最近出たゲームの最安値調べてたよな? あの時、フラフューの値段見たか?」
大したことではないが、鎖羽は風那家の1階のリビングにあるノートパソコンをちょくちょく無許可でいじっているらしい。
「はい。定価5800円に対して、ネット最安値が4980円。実店舗では少し上がって5400円前後になるかと。なにぶんまだ発売したばかりなので値下げ幅はまだまだです」
「ほーう。さてさて、礼? つまり2000円以上余るってことだよな?」
「ふざけんなぁ! 俺はこれから夏休みなんだってばっ! 何かあったときのためにそういう金はとっておかないといけないんだってっ! どうしてもっていうんなら母ちゃんに頼んで!」
通行人がいなかったことが本当に幸いであるが、礼は大きな声で叫びながら、いつの間にか礼の肩に回されていた烙示の太い前足と肉球を振りほどく。
しかし烙示も諦めない。
「いやだっ! どうしてもお前に買わせてやるっ!
それに、お前もうすぐ仕事始まるんだから報酬も入るだろっ!?
俺らの力も使うんだから、その給料が少しぐらい俺らに回ってきてもおかしくないだろがぁっ!」
「ん?」
「ん?」
ここで礼は沈黙する。
烙示がここぞとばかりに声を荒げ、獣のような威圧感で礼に迫ってきていたが、その叫びの中にとてもとても不可解な事実が含まれていた。
「ちょっとまって」
「ん? どうした?」
「給料……?」
「あぁ、そうだ。給料だ」
「……」
「ん? お前、何も聞いてねぇのか?」
「いや、軽くは聞いてるけど……」
そして礼は自身の体にひっつく烙示の首のあたりを横に押しのける。実際のところ、礼と烙示の体勢は再びプロレスが行われそうなところまで発展しており、烙示に至っては礼の気が変わるまでここでやり合う気満々であったが、礼が急に雰囲気を変えたことで第2ラウンドはすんなりと回避された。
「な、なんだよ……気持ち悪いな」
烙示が首をかしげながら礼との距離をとり、対する礼は冷静に烙示の言葉を分析し始める。
(報酬ってこないだ寿原さんが言ってた『小遣い』のことだよね……寿原さんたちの仕事手伝ったらお小遣いくれるって……)
確かに、礼はそのような話を寿原から説明されていた。
しかし、その時の寿原の言葉を借りれば、それは『小遣い』とのこと。
残念なことにその時寿原と詳しい金額について話をしたわけではなかったので、詳細は分からない。
でも中学生である礼が予想するに、多くて1回数千円。この時点に至っても、そもそも何をすればいいのかまったく知らされていない礼の立場を考慮すると、下手をすれば見習い期間的なものにあてはめられることでその値段は1回数百円のレベルに落ちる可能性もある。
さらにはその頻度は年に数回とのことなので、礼が最初にその小遣いとやらを貰えるのがいつになるのかはまったく予想できないし、収入として期待もできないものだと思っていた。
ところがこのときの烙示の言葉を思い出すに、それは『報酬』という言葉を経由して、『給料』というとても気高い単語へ出世している。
(うーん……)
このような天気のいい日に下世話な話を始めるのもどうかと思ったが――または、ここで金の話を始めれば性格の悪い烙示の事。礼に対して『金の亡者』といった烙印を押してきてもおかしくはなかったが、礼は少しだけ勇気を出して聞いてみることにする。
「金ってさ。いくらもらえんの?」
しかし、その質問は違う意味で後悔へと繋がる。
「えーとぉ……確か、いや……よく覚えてねぇけど……月40万……だっけ? 鎖羽? お前、覚えてる?」
「えぇ。初任給とやらは15万程度だったような。それに礼様のお父上の殉職に関する手当が、年金としてご遺族である礼様に加えられて……それで40万円ぐらいになりましょうか。
しかし、なにやら礼さまはこの時代の律令制度に引っかかる年齢だとかで、その報酬は名目上礼様の母上様に流れます。その後、礼様に……」
(たけぇよ……)
例によって鎖羽がおかしな単語を交えて説明してくるが、もちろん礼の頭の中は真っ白。
「……」
この時、礼の近くを通行人が通り過ぎたが、礼は無言のまま。一般人に烙示たちの声は聞こえないので、通行人は歩道の中心に無言で立ち尽くす礼の姿に多少の警戒感を抱いたようであるが、何も言われなかったので結果オーライである。
「ですので礼様は母上様と交渉して、そこからご自身の取り分を奪取していただく形になります。決して血で血を洗うような状況にはならないようにお願いしますね」
「ならねぇよっ!! どんな修羅場だよっ!?」
……
……
「ふーう……ふーう……」
「れ……礼……? まず落ち着こうか……」
「うん……そだね……」
ここで一同はゆっくりと深呼吸。落ち着きを取り戻すことが出来た礼はゆっくりと口を開く。
「給料とかよくわかんないけど、40万ってすごすぎね? なんで俺がそんな……」
「それは六憐が……間違った。お前の父親の実績が含まれていると思え。
いや、逆かな。お前の親父がああだったから、似たような力持ってるお前にも期待が向けられているってところか……ん? 一緒か? どっちだっていいか。
まっ、平たく言えば『七光り』ってやつだ。虹だ虹っ! レインボーっ!
でもお前も七色の光を放ってる感じだしな。頭の悪そうな光が……うん。そうっ! そんな感じだ」
「なおさらわけわかんないってば……あっ……あと、どうでもいいけど……父ちゃんの呼び方、いちいち直さなくていいから……」
「ん? あぁ、そっか。じゃあそうする。それで……金のこともまだよくわかんねぇなら、しばらくはお前の母親に任せとけ。
確かあいつは本家の連中と結構細かいところまで交渉してくれてたはずだ」
「そう……そうなんだ……じゃあ、その話は後でゆっくり……そう、母ちゃんと……」
「そうしろ。俺んちの……間違った。お前んちの家計の事情もあるしな」
「そこの言い方は今後絶対間違えんなぁっ!」
最後に烙示が腹黒い言い間違いをした点についてのみ、礼は即座に訂正を求める。
その後、またまた数秒の沈黙が生まれ、外出した本来の目的を思い出した礼は再び歩き出した。
「まぁ、詳しくはわかんないけど……そういうことなら後で首輪買ってあげるから。とりあえずゲーム屋へ……」
話をまとめるように礼が歩きながらつぶやき、そして――
その一言が烙示に再びスイッチを入れる。
「おいっ!! その言い方だと買ってくれることは『決定』したんだなっ!? だったら今でも一緒だろっ!?
おいっ! 止まれっ! あっち行くぞっ! 先にペットショップ行くってば!」
そして烙示はとてつもない力で礼を押さえつけ、と思った次の瞬間には礼のわき腹のあたりにがっちりと噛みついた。礼の抵抗むなしく、烙示は自身が行きたがっているであろう近所のペットショップに向けて、礼をくわえながら歩き出した。
もちろん礼は烙示の横暴な行為に対し、必死に抵抗する。
「おいっ! そっちはダメなんだってっ! マジでまずいんだって! わかったわかったっ! 買ってあげるからっ! 他の道にしてっ!」
「いや、こっちの方が早いだろっ! いいから暴れるなっ! 本当にわき腹切れるぞっ!」
「そうじゃなくてっ! この道はヤバいんだってっ! おいっ!」
なぜかここで礼が過剰な反応を示す。その異常性に気づいた烙示は20メートルほど歩いたところで礼の体をゆっくりとおろすことにした。
「なんでだよっ!? 別にこっちから行ったっていいだろ!? あの店はなかなか良心的な値段なんだよ。一応、お前の財布のことも気遣ってやってんだぞ!」
しかし、礼はそんな烙示の言葉も無視し、今来た道を一目散に走り出す。
(ん? どうしたんだ? あいつ……そんな必死に逃げなくったって)
烙示は半透明な姿ながらも犬のように首をかしげ――
「っ!?」
次の瞬間、烙示たちを異様な気配が包んだ。