静かに上下する胸元には、うっすらと汗が滲んでいた。熱のこもった吐息が夜気に混じり、溶けて消える。
耀はぎゅっと目を瞑り、背を僅かに仰け反らせて耐えていた。
耀は声を上げる代わりに手を伸ばした。
しかし、まだ足りないだろうと耳元で囁かれ、その手首は掴まれ、封じられる。
反射的に逃げようとしたが、もう遅い。
快楽を逃す術を失った。
耀はさらに背を反らせる。
やがて耐えるのが厳しくなり、震える手には力が入る。指先は硬直し、本能的に爪が伸びた。
その瞬間、波が引く。朱炎が手を止めたのだ。しかし嗤いながら。
「もう限界か?」と囁いて。
また鬼の声だ。
耀はそっと瞼を持ち上げた。
目の前にいるのは紛れもなく、朱炎。であるはずが、その輪郭がふと揺らいでしまう。
映ったのは、別の鬼の醜い顔。
脳裏に焼き付いた記憶が、ここぞとばかりに蘇る。
思い出したくないはずなのに。
(なぜ、こんなにも鮮明に……)
別の鬼の影が伸び、朱炎の熱が遠ざかる。
意識は再び、過去に沈む。
第三話
•───────⋅ 過去の記憶 ⋅───────•
青藍の瞳に映ったのは、父が、母が、鬼に喰われる瞬間だった。
兄も、姉も、妹も。屋敷にいたすべての者が喰われた。
自分を除いて。
耀が生まれたのは、鬼でありながら武よりも智を重んじる、極めて特異な一族だった。
戦うことよりも知をもって人間と交流し、その中で繁栄を築いていた。
――鬼の貴族。そう、呼ばれていた。
力よりも智慧を。闘争よりも対話を。
学びに長け、文化を重んじた者たち。
けれど、それが彼らの命取りになった。
喰羅族の襲撃。
凄まじい数の鬼を喰らい続ける一族――喰羅族に、耀の一族は襲われた。
鬼を喰らえば強くなれる。それが鬼の世界の常である。
だが、喰羅族のやり方は常軌を逸していた。
強さのためなら手段を選ばず、手当たり次第に鬼を襲い、血筋の良い鬼であれば一族ごと喰らい尽くす。
彼らにとって“鬼の貴族”は格好の獲物だったのだろう。
知性と力を兼ね備えた存在――それを喰えばさらなる進化を遂げられる、と。
そして、あの日が訪れた。
喰羅族の頭領・羅刹の号令が、無情に響いた。
炎が燃え盛り、血が飛び散る中、幼き耀はただ呆然と立ち尽くしていた。
両親の命乞いの声、兄姉たちの悲鳴、家を守るために戦った者たちの断末魔――
それらすべてが、鮮烈に。青藍の瞳に焼き付けられた。
父の笑顔も、母の温もりも、すべてがあの日に奪われた。
羅刹が笑いながら、次々と皆の首を刎ねていた。
喰羅の醜い鬼たちが、その首と身体を面白そうに受け取り、血に塗れた饗宴を始める。
次は――自分の番だ。
戦う術を持たない幼い耀は、動けなかった。何もできず、尻もちをついたまま。声も出ない。息は殺した。だが、音が響いた。近くの壁が音を立てて崩れてしまったのだ。
その音に羅刹が目をやる。
物陰に隠れる幼い鬼がいた。
――見つかった……
目が合った。
羅刹は獣のような笑みを浮かべ、耀を見つめながら、じわじわと距離を詰め始める。
――殺される。
耀はぎゅっと目を瞑った。
けれど、殺されなかった。
「こいつは使えるな」
その日、耀は羅刹の手に落ちた。
幼い耀は殺されることなく、喰羅族の“もの”として連れ去られた。戦闘用の駒として。
それからの日々は、地獄だった。
剣を握らされ、蹴られ、殴られ、傷つけられながら戦い方を叩き込まれた。
鬼の身体は勝手に傷が癒える。だが、痛みは癒えない。
痛みには、耐えるしかなかった。
勝てば「まだ足りん」と叱咤され、倒れれば容赦なく蹴り飛ばされた。
名を呼ばれることもなく、ただ強さだけを求められる。
それでも構わないと、耀は密かに心を決めていた。
――戦い方を身につけて、復讐する。
それが、生きる理由となっていた。
必要以上に傷を負わされ、何度も意識を手放し、倒れた。人であれば死んでいただろう。
だが耀は鬼なのだ。
死ぬほどの傷を与えられても、数日で元に戻っていた。
痛みは日々積み重なり、代わりに何かを忘れていく。
(でも……まだ耐えられる……)
そう、身体の痛みだけなら耐えられたのだ。
だが、ある日から、耀には戦い以外の“役割”が与えられた。
――ただの戦闘要員では済まなかったのだ。
成長途中の未熟な身体は、喰羅の大人たちの欲望を煽った。
顔立ちが整い始め、しなやかな肢体に変わるにつれ、鬼たちは我も我もと群がった。
夜が来るのが、恐怖となった。
戦闘で負う傷よりも深く、心の奥まで抉られる、痛み。
(それでも、全ては復讐のために……)
この頃はまだ、耀の心は生きていた。