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第3話


 静かに上下する胸元には、うっすらと汗が滲んでいた。熱のこもった吐息が夜気に混じり、溶けて消える。


 耀はぎゅっと目を瞑り、背を僅かに仰け反らせて耐えていた。


 耀は声を上げる代わりに手を伸ばした。


 しかし、まだ足りないだろうと耳元で囁かれ、その手首は掴まれ、封じられる。


 反射的に逃げようとしたが、もう遅い。

 快楽を逃す術を失った。


 耀はさらに背を反らせる。


 やがて耐えるのが厳しくなり、震える手には力が入る。指先は硬直し、本能的に爪が伸びた。


 その瞬間、波が引く。朱炎が手を止めたのだ。しかし嗤いながら。


「もう限界か?」と囁いて。


 また鬼の声だ。

 耀はそっと瞼を持ち上げた。

 目の前にいるのは紛れもなく、朱炎。であるはずが、その輪郭がふと揺らいでしまう。


 映ったのは、別の鬼の醜い顔。

 脳裏に焼き付いた記憶が、ここぞとばかりに蘇る。


 思い出したくないはずなのに。


(なぜ、こんなにも鮮明に……)


 別の鬼の影が伸び、朱炎の熱が遠ざかる。

 意識は再び、過去に沈む。




第三話

•───────⋅ 過去の記憶 ⋅───────•




 青藍の瞳に映ったのは、父が、母が、鬼に喰われる瞬間だった。

 兄も、姉も、妹も。屋敷にいたすべての者が喰われた。


 自分を除いて。


 耀が生まれたのは、鬼でありながら武よりも智を重んじる、極めて特異な一族だった。


 戦うことよりも知をもって人間と交流し、その中で繁栄を築いていた。

 ――鬼の貴族。そう、呼ばれていた。


 力よりも智慧を。闘争よりも対話を。

 学びに長け、文化を重んじた者たち。

 けれど、それが彼らの命取りになった。


 喰羅族の襲撃。


 凄まじい数の鬼を喰らい続ける一族――喰羅族に、耀の一族は襲われた。


 鬼を喰らえば強くなれる。それが鬼の世界の常である。

 だが、喰羅族のやり方は常軌を逸していた。


 強さのためなら手段を選ばず、手当たり次第に鬼を襲い、血筋の良い鬼であれば一族ごと喰らい尽くす。


 彼らにとって“鬼の貴族”は格好の獲物だったのだろう。

 知性と力を兼ね備えた存在――それを喰えばさらなる進化を遂げられる、と。


 そして、あの日が訪れた。


 喰羅族の頭領・羅刹の号令が、無情に響いた。


 炎が燃え盛り、血が飛び散る中、幼き耀はただ呆然と立ち尽くしていた。

 両親の命乞いの声、兄姉たちの悲鳴、家を守るために戦った者たちの断末魔――

 それらすべてが、鮮烈に。青藍の瞳に焼き付けられた。


 父の笑顔も、母の温もりも、すべてがあの日に奪われた。

 羅刹が笑いながら、次々と皆の首を刎ねていた。

 喰羅の醜い鬼たちが、その首と身体を面白そうに受け取り、血に塗れた饗宴を始める。


 次は――自分の番だ。


 戦う術を持たない幼い耀は、動けなかった。何もできず、尻もちをついたまま。声も出ない。息は殺した。だが、音が響いた。近くの壁が音を立てて崩れてしまったのだ。


 その音に羅刹が目をやる。

 物陰に隠れる幼い鬼がいた。


 ――見つかった……


 目が合った。

 羅刹は獣のような笑みを浮かべ、耀を見つめながら、じわじわと距離を詰め始める。


 ――殺される。


 耀はぎゅっと目を瞑った。

 けれど、殺されなかった。


「こいつは使えるな」


 その日、耀は羅刹の手に落ちた。

 幼い耀は殺されることなく、喰羅族の“もの”として連れ去られた。戦闘用の駒として。


 それからの日々は、地獄だった。


 剣を握らされ、蹴られ、殴られ、傷つけられながら戦い方を叩き込まれた。

 鬼の身体は勝手に傷が癒える。だが、痛みは癒えない。

 痛みには、耐えるしかなかった。


 勝てば「まだ足りん」と叱咤され、倒れれば容赦なく蹴り飛ばされた。

 名を呼ばれることもなく、ただ強さだけを求められる。


 それでも構わないと、耀は密かに心を決めていた。


 ――戦い方を身につけて、復讐する。

 それが、生きる理由となっていた。


 必要以上に傷を負わされ、何度も意識を手放し、倒れた。人であれば死んでいただろう。

 だが耀は鬼なのだ。

 死ぬほどの傷を与えられても、数日で元に戻っていた。

 痛みは日々積み重なり、代わりに何かを忘れていく。


(でも……まだ耐えられる……)


 そう、身体の痛みだけなら耐えられたのだ。


 だが、ある日から、耀には戦い以外の“役割”が与えられた。


 ――ただの戦闘要員では済まなかったのだ。


 成長途中の未熟な身体は、喰羅の大人たちの欲望を煽った。

 顔立ちが整い始め、しなやかな肢体に変わるにつれ、鬼たちは我も我もと群がった。


 夜が来るのが、恐怖となった。

 戦闘で負う傷よりも深く、心の奥まで抉られる、痛み。


(それでも、全ては復讐のために……)


 この頃はまだ、耀の心は生きていた。






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