第六話
•───────⋅ 動かぬ唇 ⋅───────•
薄暗い視界。それはゆっくりと赤に染まる。
生暖かな血が流れ、目に入った。だが、拭うこともできず、目を閉じるだけ。
耀はもう、まともに動くこともできずにいた。
任務に失敗し、羅刹に激しく打擲(ちょうちゃく)された。
日常茶飯事ではあるが、この日は再生力が追いつかないほどの体罰に、耀は立ち上がる事が出来なかった。
瞬時に塞がるはずの小さな傷も治りが悪く、疼いている。どうやら回復を遅らせる術まで掛けられたらしい。余程、癪に障ったのだろう。
手入れの行き届いていない庭に、耀は静かに横たわっている。傷だらけの肌は泥と血にまみれていた。
腕を動かすだけで軋むような痛みが全身に走る。
(……今日の傷は酷いな……)
意識が曖昧になり、眠気が襲う。しかし。
あまりにも騒がしい。
悲鳴が聞こえる。
怒号が聞こえる。
何かが焼ける匂いがする。
ここは喰羅の屋敷のはずなのに、まるで戦場のようだ。
何が起こっているのか——。
重いまぶたを押し開き、わずかに顔を動かした。
ぼんやりと歪む視界の先。
豪快な炎を纏ったような、凄まじい気配の鬼が佇んでいた。
朱炎。
その鬼の名を知らない者は居ない。
誰もが恐れる鬼。最強と称される鬼。その強さは伝説のように語られる存在。
しかし、目の前にいる朱炎は伝説などではなく、まぎれもなく現実だった。
——恐ろしい。
朱炎は静かに笑みを浮かべていた。
その視線の先では、暴れ狂っている悪鬼がいる。
羅刹が悪鬼に堕ちていた。
あの圧倒的な力を誇る羅刹が、まるで狂った獣のように一族を喰らい、屋敷を破壊し尽くしていた。
羅刹が手を振るうたび、血が飛び、肉が裂ける。喰羅の配下の鬼たちは、逃げ惑いながら次々と命を落としていく。
その惨劇を、朱炎は微笑みながら見ていた。
——違う。
微笑み、ではない。
愉しんでいるのだ。
この地獄を、自ら創り上げた舞台のように。
耀は思わず震えた。
体の傷のせいではない。これは、本能的な恐怖だった。
あまりにも強大で、あまりにも異質な鬼が目の前にいる。羅刹すらも、その手のひらの上で弄ばれているに過ぎない。
朱炎が、羅刹に何をしたのかは分からない。だが、羅刹の狂乱は朱炎が引き起こしたものだと直感した。
——この鬼は、何者だ。
強者であることは知っていた。だが、これはただの強さではない。
――この鬼は、すべてを操ることができるのか?
耀は目が離せなくなっていた。
朱炎がゆっくりと腕を上げる。
炎が弾けた。
豪炎が屋敷を包み込む。
燃え上がる炎は、朱炎の手から生まれたものだった。
炎の光に照らされた朱炎の顔は——。
まるで、神のようだった。
破壊をもたらす神。
運命を操る神。あるいは——。
朱炎がゆっくりと耀に向き直る。
燃え盛る屋敷を背に、炎の中でもなお微動だにせず。
「…………」
耀は声を出せなかった。地に倒れたまま、動くこともできない。
朱炎は目を細めた。
「私の元に来ないか?」
火の粉が飛び、屋敷が崩れ落ちる轟音の中、その言葉は静かに落とされた。
耀は、答えることができなかった。唇すら動かせない。
この鬼の意図が理解できない。
青藍の瞳は、恐怖で凍りついていた。