第七話
•───────⋅ 一滴 ⋅───────•
燃え盛る屋敷の中、炎が猛るように揺らめき、夜空を赤く染め上げていた。
「私の元に来ないか?」
その声は低く、静かでありながら全てを支配する絶対の響き。
耀は震えながら、朱炎の姿を見上げていた。
声は聞こえていた。だが、何も答えられなかった。
思考も全て停止した。
身体の内側を支えるものがすでに崩れ落ちていた。
寒い。
重症の身体は冷え切っていた。
羅刹とほかの鬼達に極限まで痛めつけられ、傷の再生も遅れていた。
出血が酷く、身震いが止まらない。屋敷を燃やす炎が温かく感じられるほど。
視界がざらついて、意識が途切れそうになりながらも、目を離せない存在。
耀はその強大な力に釘付けになっていた。
漆黒の髪に、闇を纏ったような暗黒色の雅な着物。
闇の中で発光する鬼の目。炎よりも血よりも深い赤だった。
どこまでも恐ろしく、どこまでも美しかった。
逃げられるはずがない。
拒否できるはずもない。
それなのに、朱炎はまるで耀の意志を問うかのように待っている。
こんなことがあるものか。
この者は、喰羅族を滅ぼし、羅刹王を悪鬼へと変え、すべてを燃やし尽くしている。
圧倒的な力で世界を蹂躙することができるのに。
ただ耀の返答を待ち続けている。
耀は冷え切った唇を動かそうと必死だった。全く動く気配はなかったが。
けれど、朱炎には十分だったようだ。
次の瞬間、耀の身体はふわりと浮いた。
朱炎の腕が、まるで壊れものを扱うように抱き上げた。
燃え落ちる屋敷を背に、朱炎は悠々と歩き出す。
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意識が浮き沈みする。
どれほどの時が経ったのか。
耀には知る術がない。
気づけば、粗末な廃屋の中に横たえられていた。雨風に晒された木の壁、ひび割れた床。かつては人が住んでいたであろうその場所は、すでに廃墟と化している。
隣にいる朱炎を見て、耀は思わず息を呑んだ。
炎の中にいたときとは違う。恐ろしさはそのままに、静謐な目で耀を見ていた。
「お前は悪鬼にはならないだろう」
何の感情も込められていない、ただの事実を述べるような声音だった。
唐突すぎて耀は理解できなかった。
何を言っているのか、何を考えているのか。
何も読めない。
呼吸の仕方を忘れたように、耀は完全に息を止めていた。
やがて、朱炎の手が伸びる。
耀は身体を強張らせた。
その指先は優しく、耀の顎を持ち上げる。
「お前に、私の血を与える」
言葉が落ちると同時に、朱炎の手首が裂かれるのを見た。
何が何か分からない。けれど、抗うことはしなかった。
ここで終わらせてくれるのならば。好きにしてくれて構わない。
一滴。
この一滴が全てを変える。
朱炎の血は、生かし、殺しもする。運命の一滴。
深紅の雫が、耀の唇に落ちた。
じわり、と広がる。
その後は、息をつく暇もない。
激痛が襲った。
全身を突き破るような苦痛。
内臓が焼かれる感覚。骨が砕け、再生する。脳が沸騰するかのように熱くなり、視界が真っ赤に染まる。
叫ぼうとしても声にならない。
爪は床を削った。全身の皮膚が軋むように痛み、血管が膨れ上がる。
なぜ、こんなにも苦しまなければならないのか、と絶望を前に、耀は手を伸ばした。
その手は取られる。
朱炎が、そっと耀の身体を抱き寄せた。
「耐えろ」
命令のような言葉だが、強張っていた耀の心と体をそっと緩めた。
痛みと意識の輪郭が徐々に溶けゆく。赤い炎に導かれるように、耀の意識は静かに落ちた。
夢と現の狭間にいる。
感覚はとても曖昧で、ここは新しい地獄だろうか?と、自嘲せずにいられない。
だけど、温かい。
その熱は心臓の鼓動を落ち着かせてくれる。
――耀は朱炎の腕の中。
悪鬼にはならなかった。
だが、何かが変わってしまった。朱炎の血を受け入れた時点で。
あの恐ろしい鬼の血が、力が、自分の中に流れ込んで。
それは、新しい灯火となった。
長い長い、苦痛と混乱の闇の中。
温もりのようなものを、感じてしまったのかもしれない。