「……朱炎様?」
また意識が過去に行っていた。
──怒らせただろうか。
「……申し訳ありま」
謝罪の言葉を言い切るよりも早く、大きな掌で塞がれた。
朱炎の刺すような視線に、思わず震える。
息が詰まるような重い沈黙。
朱炎の手が離れて行くかと思いきや、口元に指がそっと触れる。
──やはり、怒らせたのか。
(きっと、これはまた……)
何をされるのかと不安になった耀だったが、身体を強張らせる必要はなかった。
朱炎の唇が耳に寄る。
「言っただろう?『私との交わりは、甘くはないぞ』と……」
耳元で囁かれたその声が、甘かった。
第八話
•────────⋅ 矛盾 ⋅────────•
暗闇の中、微かな月明かりが零れ落ちる。朽ち果てた廃屋の隙間から。
床に敷かれた粗末な布の上で耀は静かに息をしていた。
苦しみの波がようやく遠のき、体が少しずつ自分のものになるのを感じていた。
ひたすら灼熱の苦痛に耐えた。朱炎の血を受け入れた夜から、ずっと。
今まで積み重ねてきたもの全てを塗り替えてしまうように身体が燃えた。
羅刹のもとで積み重ねた憎しみも復讐心も、燃え尽きてくれただろうか。
痛みに呑まれては何度も意識を手放した。その都度、現実に戻されるたびに腕の中にいると分かった。
朱炎だ。
――ずっと支えられていたのだろうか?
その記憶が事実かどうかも朧げだったが、温もりは確かに残っていた。
やっと意識がはっきりしてきた。この日は静かな夜だった。穏やかすぎて胸の奥が痛むほどに。
こんな夜を、耀は知らない。
怒りと屈辱に塗れた日々の中で夜は傷つく時間だった。安らぐものではなく、何もかも奪われるものだった。
しかし今、耀は何一つとして傷ついていない。何も奪われていない。
――信じられない。
身体が癒えても、心はまだこの“静けさ”を信じる事ができなかった。
すぐ横に朱炎がいた。 腰を下ろし、どこか遠くを見つめている。
相変わらず整いすぎた顔をしている鬼。
冷徹。だが、激情の火の神。
恐怖。だが、慈愛の眼差し。
矛盾を孕んだその存在は耀にとっては“得体の知れない”ものだった。
「……朱炎……様」
声が震えた。言葉は見つからない。
けれど呼ばずにはいられなかった。
朱炎がゆっくりと視線を向ける。深い紅の色。燃えるような色。なのに、とても冷ややかだった。
「……どうした」
問われてもどうすればいいのか分からなかった。自分で声をかけておきながら……。
目の前にいるのは、耀の運命を変えた鬼。
喰羅族を滅ぼし、耀を拾い上げた鬼。
凄まじい力を持つ存在。どれほどの業火で、あの鬼たちを焼き尽くしたのかも見た。
──どうせなら、あのとき自分の存在すら燃やしてくれたら良かったのに。
「朱炎様……」
もう一度名前を呼ぶ。
手を伸ばしていた。
これが現実か確かめたかった。もし現実なら忘れさせてくれるものが欲しい。
だが、耀の手は取られなかった。
「……なぜそのような顔をする」
低い声だった。
耀は手を引っ込める。
ふと我に返った。
自分の表情がどうなっているのか予想がつく。
胸の奥が軋んでいた。
「……夜が……消えません」
気づけばそんな言葉が零れていた。
今まで耐えてきた夜。刻まれたものは消えていない。身体が癒えてもあの感覚は残っていた。
それは、心が記憶の傷を反芻してしまう、逃げ場のない現象。
「それで?」
「……いえ、何でもありません」
「そうか」
淡々と返された言葉に耀は目を伏せる。何を期待していたのかと呆れる。
その時、すっと風が吹いたように感じた。 それは朱炎が目の前に迫ったから。
驚いて見上げると、真っ赤な瞳に突き刺される。
「……あの」
朱炎の指が耀の頬に触れた。言葉は遮られたが、ひどく優雅な仕草だった。
息が詰まり、心がざわめく。
こんなふうに触れられたことはない。
朱炎の指先は掠めるように触れるだけ。
なのに、熱い。 指がゆっくりと顎をなぞる。
朱炎の眼差しを受け入れるしかなくなる。
鬼が問う。
「私に何を求める?」
朱炎の声が腹の奥底に響き、体が強張った。
「…………」
また、言葉にならなかった。
欲しいのは救いか、忘却か。
朱炎は微かに目を細めた。
次の瞬間、朱炎の手が耀の首筋に添えられる。ぞくりと背筋が震えた。
「……っ……!」
思わず目を瞑ってしまった。
何をされるのかと。
朱炎の手が耀の首から離れていく。ある物と一緒に……。
ごとりと、物の落ちる音がした。
(首輪、外された……?)
耀が恐る恐る目を開く。また朱炎と目が合った。先ほどよりも近い。近すぎた。
心臓が飛び跳ねて耀は思わず目を伏せる。
「朱炎様」
縋るような思いで名を呼んだ。それ以上は言えなかった。
言葉とともに唾を飲み込む。首輪が無くなり、いつも感じていた窮屈な締め付け感は消えていた。
耀はそっと首筋に触れた。
(けど、首輪が消えたところで、全て忘れることなど……)
「……面白い……」
ふっ、と鼻で嗤われる。
耀は目を伏せていたが、急に手首を掴まれて驚いて顔を上げる。
鬼は見ていた。全てを見透かしたような目で。
「私との交わりは、甘くはないぞ?」
試すような響き。
恐ろしいと思った。だがそれ以上に、期待してしまう。
これで全て忘れられる、はず──。