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第9話


 ある日、朱炎が出かけた時、あるものに目が止まった。

 細く張り巡らされた蜘蛛の糸に蝶が絡め取られている。

 微かな風に、翅が震え、震えるほどに糸は絡んでいた。

 逃れる事が出来ず、足掻いている。



 ――なんと美しい。



 繊細に翅を震わせながら、命を繋ごうともがいている。

 朱炎はその姿に“生”を見た。


 だが、その足掻きはやがて弱々しいものへと変わり始める。

 最後はただ糸に絡め取られたまま、静かに沈黙するのだろう。


 ――この蝶は、やがて死ぬ。


 朱炎は、この蝶が翅を動かせなくなるその時まで、じっと眺めていた。 

 糸に絡まりながらも生きようとする。

 その刹那的な美しさに、強烈な感情が沸き起こった。


 やがて、この蝶は終焉を迎えた。動かぬものとなった。


 朱炎は散った命に背を向けた。

 もう、眺める理由がなくなったのだ。









第九話

•───────⋅ 蝶の刹那 ⋅───────•




 朱炎が「甘くはないぞ」と告げたときも、その目は一片も揺れなかった。


 耀は求めるつもりなど、初めから無かったのだ。甘さも何も、知らぬ者。


 朱炎は耀の首輪を外し、投げ捨てた。

 目に見える枷など低俗すぎて禍々しい。異物は焼き払った。

 それでも耀の表情は変わらなかった。


 朱炎は耀をつまらぬ蝶だと思う。魂の抜け殻かと思うほど、反応が薄い。





 繭のような沈黙の中。

 耀はまるで死人のように横たわっている。

 朱炎がどれだけ熱を込めて触れても、呼びかけても、虚ろな瞳はどこにも焦点を結ばなかったからだ。


(……つまらん)


 心の奥で、朱炎はそう呟く。

 かつて拷問に沈めたときと同じ――否、それ以上に“無”。

 最強と謳われた自分の手の中で、これほどまでに反応を返さぬ者がいるとは。


 謎めいた敗北感が、朱炎の胸をかすめた。

 自分のものになったはずの蝶が、すでに翅を失っていた。


 あの鬼に――羅刹に、引き千切られたか。

 醜い影が耀の奥底に見え隠れしている。


「羅刹か……」


 その名を口にした途端、耀の身体がびくりと震え、縮こまった。


 朱炎は目を細める。

 羅刹の名には反応し、自分の手のひらでは沈黙のまま。


「……そうか」


 疼く。理性が焼けるほどに。


 耀の腰を強引に引き寄せた。焔の気を身体の奥へと無理やり流し込むように。


 耀が息を詰める。ようやく微かな反応が返った。

 しかしこれは、ただの“本能による恐れ”。


「なるほどな……」


 口の端が僅かに吊り上がる。


「お前が求めたのだ。だから、応えた」


 突き刺すような声で告げる。


「……なのに、その目は何だ」


 耀の瞼がわずかに動いた。


「……申し訳、ございません」


 謝罪の言葉。

 それは朱炎の苛立ちをさらに煽る。


「この私が、羅刹から奪い、血を与え、こうして応えてやっている」


「……承知しております」


 羽音のように脆い声だ。その声に苛立ち、朱炎は耀の顎を掴む。

 私を見ろ、と。


「すべて、焼き払うことだってできるのだ」


「……はい」


 耀は目を閉じた。燃やされても構わない、と言わんばかりに。

 重苦しい静寂。


 どうしてこんなにも乱されるのかと、朱炎の中で何かが爆ぜる。


 無音は爆音で散り散りとなった。

 朱炎の覇気は火となって広がり、あたり一面が炎に包まれる。

 だがその中でも、耀は目を伏せたまま動かない。


 朱炎は苛立ちを隠さず、細い身体を荒々しく掴み上げた。


「聞いているのか」


「……はい…………殺してください」


 震え、掠れ、聞き取りにくい声。

 そんなものに乱される自分が滑稽だと思う朱炎。しかし、抑えられない。

 焼け付く衝動に駆られて耀をさらに引き寄せた。


「そうだな……殺そう」


「…………」


「お前が生きると言うのなら」


 耀がゆっくりと顔をあげた。

 意味がわからない、というような目で朱炎を見上げた。


 朱炎は揺るぎなく答える。


「お前が生きると決めたなら、それを阻むものすべてを焼き払おう」


 地の底から唸る炎のように。


「殺そう」そう言ったのは、耀を傷つける全ての者を殺すという意味だ。


 耀を殺すつもりはない。


「お前はもう、私のものだ。だから――生きろ」


 この時、息を詰めるような音が聞こえた。


「……なぜ……ですか……」


 耀の喉が震えていた。朱炎はその喉元に爪を立てた。


「――死んだ者を、愛でる趣味はない」


 支配の言葉。

 身動きが取れない事をやっと理解したように、耀の瞳が見開かれた。


 驚きと困惑で小さく跳ねる耀の姿に、朱炎は酷く高揚した。


 蜘蛛の糸に囚われたあの蝶の姿が耀と重なる。


 この蝶はまだ、翅を失っていなかった。赤い炎の中で、わずかに震え始めている。


 ――もっと震えろ。逃れられない事を思い知れ。


 この蝶の刹那は永遠に続く。


 ――嗚呼、なんと美しい。












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