第十話
•───────⋅ 逃げる癖 ⋅───────•
夜が深まり、薄い雲が月の光を抱きしめる頃。
――過去の話はもう良かろう。
今の私に集中しろ、と朱炎の指先には強い思念が宿る。
耀の白肌をなぞりながら、ゆっくりとそれを染み込ませた。
わずかに跳ねる身体。初めて抱いた夜よりも確かに柔らかくなっていた。
けれど、頑なに閉ざされた心の扉だけは、まだ開かれない。
過去の「傷」が邪魔しているのだろう。
息は漏れる。肌は火照る。
だが、声は常に小さく押さえられ、喘ぎを呑み込むように唇を噛んでいる。
身を捩り、快楽を常に逃がそうとする。
そしていつも、耀は絶頂を迎える事がない。
まるで感じることを拒絶している。
感じても受け入れない。
“達してはならない”と深く刻み込んできたのだろう。
いかされる事は負けである、と。
朱炎は動きを止め、耀の顔を覗き込んだ。
苦しげな表情は「耐えること」を教え込まれた者の顔。
朱炎はもっと、耀が理性に解けた瞬間を見たいのだ。快楽に溺れる顔が見たい。
(……なぜ、逃げる?)
心の奥に潜む問いが朱炎の中で形になる。
(なぜ、否定する……?)
「私がお前を選んだのだ……」
――私の側に置くのに相応しい、と。
低く呟く。怒りではなく孤独が籠もった。
「受け入れないのか?」
朱炎はそっと耀の顎を取り、顔を正面に向けさせた。
「快楽を拒むというのは、私を拒むということだ」
「そんな……」
「聞け。感じようとしないお前は、この私が選んだということを、否定している」
ひときわ静かな声。
耀の瞳がかすかに揺れた。
朱炎の言葉が染み込むように、耀の胸に広がる。
快楽に堕ちることは敗北ではない。
受け入れることは繋がりの証。
しかし、扉はまだ開かなかった。
傷つきすぎると、心と身体は一致しないのだろうか。
朱炎は、かすかに眉を寄せた。
「……そうか」
微かに息を吐き、片手を離す。
諦めも怒りもないが、執着に火が付いてしまう。
「ならば」
囁くように言った瞬間、朱炎の指先から細い糸が放たれた。
無数の糸が、空気を震わせて広がりゆく。
見えない糸は天井から床へ、柱から寝具へ、まるで静かに歌うように。
耀の手首が、足が、ゆるやかに寝具へ絡め取られていく。
銀の艶めく糸は、蝶を優しく捕らえる蜘蛛の巣のように冷ややかだった。
――逃れられない事を、思い知れ。
耀の耳元に、熱い息を落としながら囁く。
「覚悟は?」
銀の糸が震えるのは、
目の前の蝶が震えたから。