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第15話



 芯から震えるような衝動と、喉の奥から零れる喘ぎ声。


 耀はぎゅっと目を瞑った。


 今まで反らせていた背は内側に丸まり、快感も内へと籠もっていく。


 ここで耳元に熱い吐息が触れた。


「いけ」と。







第十五話

•──────⋅ いかされた ⋅──────•






 低く、命令のように囁かれた一言が耀の奥底に眠っていた“生”への渇望を一瞬にして解き放つ。


 名もなき渇きも快感も。すべてが弾けるように昇華された。



 ――達したのだ。


 耀自身の意思で、望んで。



 この日初めて無理強いでも拒絶の中でもなく、安堵に抱かれて心地よく“満ちる”ことができた。


 吸い込めなかった空気を一気に肺に満たし、喉が乾く。


 身体はびりびりと痺れ、心臓は音を立てて暴れていた。どくん、どくん――その振動と音を感じる。


 こんなにも強く鳴り響くものだったのかと、驚きにも似た不思議な感覚。

 今までずっと聞こえていなかったようだ。これは命の音かもしれない。


 耀は細い息を継ぎながら、朱炎の首元へそっと顔を埋めた。


 そこでも聞こえた朱炎の心音。

 強く、逞しい響きが肌を通して、音を通して届けられる。


 このまま目を閉じればきっと眠ってしまう――。

 そんな安堵があった。

 これが「満ち足りる」という感覚だろうか。


(朱炎様に、いかされた……)


 耀の口元は朱炎の首元で隠れていたが、わずかに緩んでいた。

 それを知ってか知らずか。朱炎の腕は背中へと回され、さらにぐいと抱き寄せられる。


 耀の胸がきゅうっと疼いた。疼きと共に喉が詰まり、声にならない吐息が零れる。


 身体は蕩けて溶けたまま、意識も未だ揺蕩っていた。快感の余韻が波のように打ち寄せ、攫っては岸へ返す。幾度も幾度も。

 それすらも心地よい。


 朱炎の身体がそっと重なりをほどく。耀はただ、されるがままに身を委ねていた。


 かつては恐れでしかなかった朱炎の支配が今では悦びに変わっている。その悦びはまた新たな酔いとなり、甘い毒のように耀の身体を巡るだろう。


 やはり、逃れられないのだと思った。






 ふたりは並んで横たわり、耀の身体は再び朱炎の腕の中に包まれている。


 ぐったりと動かぬ身体。

 どくん、どくんと、心臓の音は今もなお響いていた。


 しばらくして、耀はそっと目を開けた。


 最初に視界へ飛び込んできたのは、朱炎の瞳。


 それはいつもと変わらぬ赤――のはずだったが、今の耀の目にはまるで違う色に映った。


 なんて鮮やかなのだろう。


 血の色、命の色。焔のように揺れて、深く、果てしなく美しい。


(……綺麗)


 耀の瞳がかすかに揺れる。すると朱炎はそれに応えるように耀の頬へと手を添えた。そっと、優しく。


 耀の目が見開かれる。


(こんなにも、温かい……)


 朱炎の体温が、心の奥深くにまで染み渡っていく。今まで感じた温もりよりも、もっともっと温かなもの。


 耀はふるりとまつ毛を震わせ、静かに目を伏せた。


 そのときだった。


 ぽたり――


 一粒の涙が、耀の頬を伝って落ちた。


 先ほどまで流れていた生理的な“空っぽ”の涙とは全く異なる。

 それは熱く、重く、意味を持った涙だった。


 止まらない。


 次々と溢れるそれに耀は理由もわからぬまま、胸の奥から込み上げる何かを感じながら、長く沈殿していた心の澱を流していく。


 朱炎は何も言わず、静かに耀を抱きしめていた。

 耀はその胸に顔を埋めて、細かく必死に息継ぎする。


 鼻先をくすぐるのは、朱炎の匂い。


 深さと落ち着きを併せ持つその香りは、どこか懐かしかった。幼い頃に一度だけ、嗅いだことがあるかもしれない。


 家族の顔が思い出された。


 自分一人だけが生き残り、復讐も果たせなかったその記憶。耀はずっと許してこなかった。


 けれどこの時ばかりは――


「ごめん……なさい……」


 赦されたいと願ってしまった。

 誰に向けた言葉かはわからない。

 返される言葉もない。ただ静かに時間が流れる。

 朱炎の腕に抱かれたまま。


 やがて、朱炎が低く囁く。


「……落ち着いたか?」


 耀は小さく「はい」と答え、ゆっくりと顔を上げた。

 このあと耀は無意識に「申し訳ございません」と続けそうになったが、自らの意志で飲み込んだ。少し違うと、そう思ったからだ。


 一息置いて、耀は小さな声で「ありがとうございます」と伝えた。


 ふと周囲の景色が目に入る。


 障子ごしに差し込む月の光は白く、茣蓙の模様をやわらかく照らしていた。火灯しの油は尽き、部屋の隅の灯台には小さな赤い点がひとつ残るだけ。


 乱れた紺色の着物はまるで夜を濾したような深い色をしていた。長く抱えてきた痛みの色にも見えた。

 それは裂かれ、刻まれたことでようやく手放せるものになったのかもしれない。


 耀は静かに目を伏せる。

 その視線を朱炎の手が遮った。耀の髪を掬い上げるようにして。


 紺色の着物の上に同じ色の髪がふわりと重なる。

 見せつけられているように思えた。

 朱炎が何を思って見せているのか、耀は即座に思考を巡らす。


 すると、考えるなと言うように朱炎が耀の髪に口づけをした。


 不意打ちを喰らったように、耀の頬がほんのりと染まる。


(本当に、ずるいお方だ……)


 思わず、笑みが溢れた。


 そして、こんなにも口元が上がることに驚く。まるで表情筋までが生き返ったようだった。


 大きく空気を吸い込んでみる。


 再び鼻先をくすぐったのは部屋に漂う香の匂い。それは高貴で深く、静けさを孕んだ香りだった。


 すべてが今初めて触れるもののように鮮やかで、瑞々しく、豊かだった。


 こんなにも、世界は美しかったのか。


 耀は確かめたくなった。今、自分が感じているこのすべてが幻ではないということを。


 だからこそ、自らの意志で朱炎に唇を重ねた。

 朱炎はわずかに目を見開いたが、すぐにその口づけに応えた。


 甘いと感じる。


 こんなにも甘いものだとは思わなかった。

 耀はとろけるような感覚に身を委ねた。


 ふたりはそのまま何も言わず、ただ静かに寄り添っていた。


 沈黙の中にあったのは静寂ではなく命の音だ。


 かつて死んでいた心が目を覚ました。五感が蘇り、感じる事が出来るようになった。


 ――この方に、生かされた。






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