目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第16話




 濡れた唇が互いに離れた。

 朱炎は静かに耀の背を撫で、乱れた髪を指先で梳う。


「何を考えている」


 耀はすぐには答えなかった。息を整えながら、目を閉じたままでいる。


 しばらくして、やっと答えた。


「……生かされた、と思いました」


 囁きにも似た声だった。

 それは朱炎の耳にはとても甘く、艶やかに響いた。


 生かされた——


 その言葉は、命を繋がれたという告白である。

 それを自分に向けてやっと吐き出した耀に、朱炎はどうしようもなく昂ぶるものを覚えた。


 支配でも慈しみでも、そのどちらでも耀を縛ることができる。


 かつて殺すことでしか感じ得なかった愉悦。それをたった一言が上回った。


「生かされた」


 と聞いて、こんなにも高ぶるとは。


 殺しではなく生かすことが悦びになる日が来るなど、想像した事はなかった。

 興奮を押し殺すように、朱炎は平然を装う。


「そうか。ならば、喜べ」


 声を潜めて言い、耀の肩を引き寄せた。耀はびくりと身を縮こませる。


 耀の敏感さに片眉が上がった。


 高ぶった気持ちが漏れ出ているのか?

 それを誤魔化すように朱炎は「私の元で生きろ」と命じた。


「仰せのままに……」


 服従を誓う響きで返された。朱炎は目を細める。


 ——違う。


 答えとしては正しいが、欲しいのはそれではなかった。誤魔化すために適当に放った言葉であるが、今聞きたいのはそれではなかった。


 勝手だろうかとも思えるが、足りないのだ。


 朱炎の心を満たすには全く足りなかった。


 生にしがみつき、快楽を貪り、自ら朱炎を求める声。今はそれが聞きたいのだが?


 耀の言葉が受け身なのは仕方ない。

 けれどもうここまで関係を築いたというのに。


(私を求めろ)


 その思念が心の奥で唸る。


(いくらでも与えてやるというのに。分からぬやつめ……)


 黒い愉悦が舌の奥に溜まり始める。

 耀は不思議そうに朱炎を見ていた。


 ――もう少し手ほどきが必要か?


「まだ足りぬようだな」


「な、何が……」


 その声に耀が小さく抵抗を示す。見れば、青藍の瞳は怯えと僅かな渇望の色を宿した目に変わっていた。

 次にどう応えるべきかを必死に探しているのが分かる。


 そこまで思慮を巡らせながら、なぜ気づかぬのかと。

 その不器用さすらも愛おしい。朱炎がくつくつと喉を鳴らして嗤い始める。


「……ならば、分からせてやろう」


 そう告げて、朱炎は耀の喉にそっと唇を落とした。


 毒に染まった蝶に、さらに濃密な毒を注ぐような、静謐で残酷な仕打ち。


 蝶はまた、翅を震わせるしかない。








 ——生かされた、と。


 その言葉がどれほどの重みを孕んでいたか朱炎には分かる。


 耀はかつて命じられるままに従い、何も拒まず、静かに命を擦り減らしていた。ただ奪われるだけの器。


 その耀を拾った時、救おうと思った訳ではなかった。強い鬼に出会った。ただ使える駒として手元に置きたくなったのだ。


 なのに、手に入れた時にはすでに死んでいた。


 その事実に、朱炎は耀の元主への嫉妬を覚えた。そして同時に言いようのない屈辱を味わった。


 この目に、再び光は宿るのか。

 試してみたくなったのだ。


 そして、今やっと。

 要望を口にし、反応を示すようになった。


 その姿に、朱炎はまた新たな欲を覚える。


 こんなにも乱してくる者に出会ってしまったのだから。

 全て食い尽くして我が物にしたい。


 この蝶は、きっと先ほどよりも激しく、淫らに足掻くだろう——。


 考えるだけで全身の血がざわめいた。

 身を焦がす衝動が、全身を這いずり回る。








第十六話

•──────⋅ 共に狂う ⋅──────•






「朱炎様?」


 見上げれば、鬼の真っ赤な目が暗闇で発光している。

 耀の口元がふと緩んだ。


(朱炎様が、我を忘れて暴発しそうだ……)


 こんな自分にここまでの反応を示してくれる。可笑しいような嬉しいような、少し擽ったさがある。


 目の前の相手が取り乱して居るのを見ると冷静になれた。ゆえに、耀は朱炎の首に腕を回し、自身の首筋へと促す。


 耀は知っている。朱炎の内に隠された荒く激しい衝動を。


 だからこそ、耀は朱炎に血を与える。今までにも何度かあった。朱炎が荒れそうになった時には耀の血を与えてきた。


 初めて食された日には、薬のような味だと言われた。心を落ち着かせるような味だと言いたいのだろうと思った。


 耀が朱炎を誘導する。


 耀の喉を吸うように密着していた唇は離れて首筋へと移動した。這うような感覚に心地よさを覚えつつ、次の衝撃に備える。


 普段見えない大きな牙は、鬼の本能のままに変化している証。


 その牙が首筋に刺さる衝撃に備えて、耀は少しばかり身構える。


 ぐっ、とめり込み、皮膚を突き破って入ってくる。


 痛みは――無かった。


 それよりも酷い快感に襲われて思わず声が漏れる。


「ぁっ……っ」


 全く困ったものだ。確かに以前は牙が刺さる時に感じた痛み。それが今、快感になってしまっているなど。


(朱炎様のせい……)


 痛みは全て快楽になってしまう身体となったらしい。壊されて得た身体はとんでもなく淫らではないか。


 朱炎の舌が傷口をちらちらと舐めあげてくる。


 耀は、ふふっと声を出して笑ってしまった。すると朱炎の唇が離れる。


「すまない、取り乱してしまった……」


 申し訳なさそうな声が降ってきて見上げると、いつもの朱炎に戻っていた。いや、いつもより少し肩を竦めて一回り小さく見えるのだが。


 耀は微笑んで再び朱炎の首に腕を回し引き寄せた。


 近づいてきた耳元に、耀は囁いた。

 少しわざとらしく。


「もっと……」


 もっと激しく、喰い散らかして。







この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?