濡れた唇が互いに離れた。
朱炎は静かに耀の背を撫で、乱れた髪を指先で梳う。
「何を考えている」
耀はすぐには答えなかった。息を整えながら、目を閉じたままでいる。
しばらくして、やっと答えた。
「……生かされた、と思いました」
囁きにも似た声だった。
それは朱炎の耳にはとても甘く、艶やかに響いた。
生かされた——
その言葉は、命を繋がれたという告白である。
それを自分に向けてやっと吐き出した耀に、朱炎はどうしようもなく昂ぶるものを覚えた。
支配でも慈しみでも、そのどちらでも耀を縛ることができる。
かつて殺すことでしか感じ得なかった愉悦。それをたった一言が上回った。
「生かされた」
と聞いて、こんなにも高ぶるとは。
殺しではなく生かすことが悦びになる日が来るなど、想像した事はなかった。
興奮を押し殺すように、朱炎は平然を装う。
「そうか。ならば、喜べ」
声を潜めて言い、耀の肩を引き寄せた。耀はびくりと身を縮こませる。
耀の敏感さに片眉が上がった。
高ぶった気持ちが漏れ出ているのか?
それを誤魔化すように朱炎は「私の元で生きろ」と命じた。
「仰せのままに……」
服従を誓う響きで返された。朱炎は目を細める。
——違う。
答えとしては正しいが、欲しいのはそれではなかった。誤魔化すために適当に放った言葉であるが、今聞きたいのはそれではなかった。
勝手だろうかとも思えるが、足りないのだ。
朱炎の心を満たすには全く足りなかった。
生にしがみつき、快楽を貪り、自ら朱炎を求める声。今はそれが聞きたいのだが?
耀の言葉が受け身なのは仕方ない。
けれどもうここまで関係を築いたというのに。
(私を求めろ)
その思念が心の奥で唸る。
(いくらでも与えてやるというのに。分からぬやつめ……)
黒い愉悦が舌の奥に溜まり始める。
耀は不思議そうに朱炎を見ていた。
――もう少し手ほどきが必要か?
「まだ足りぬようだな」
「な、何が……」
その声に耀が小さく抵抗を示す。見れば、青藍の瞳は怯えと僅かな渇望の色を宿した目に変わっていた。
次にどう応えるべきかを必死に探しているのが分かる。
そこまで思慮を巡らせながら、なぜ気づかぬのかと。
その不器用さすらも愛おしい。朱炎がくつくつと喉を鳴らして嗤い始める。
「……ならば、分からせてやろう」
そう告げて、朱炎は耀の喉にそっと唇を落とした。
毒に染まった蝶に、さらに濃密な毒を注ぐような、静謐で残酷な仕打ち。
蝶はまた、翅を震わせるしかない。
——生かされた、と。
その言葉がどれほどの重みを孕んでいたか朱炎には分かる。
耀はかつて命じられるままに従い、何も拒まず、静かに命を擦り減らしていた。ただ奪われるだけの器。
その耀を拾った時、救おうと思った訳ではなかった。強い鬼に出会った。ただ使える駒として手元に置きたくなったのだ。
なのに、手に入れた時にはすでに死んでいた。
その事実に、朱炎は耀の元主への嫉妬を覚えた。そして同時に言いようのない屈辱を味わった。
この目に、再び光は宿るのか。
試してみたくなったのだ。
そして、今やっと。
要望を口にし、反応を示すようになった。
その姿に、朱炎はまた新たな欲を覚える。
こんなにも乱してくる者に出会ってしまったのだから。
全て食い尽くして我が物にしたい。
この蝶は、きっと先ほどよりも激しく、淫らに足掻くだろう——。
考えるだけで全身の血がざわめいた。
身を焦がす衝動が、全身を這いずり回る。
第十六話
•──────⋅ 共に狂う ⋅──────•
「朱炎様?」
見上げれば、鬼の真っ赤な目が暗闇で発光している。
耀の口元がふと緩んだ。
(朱炎様が、我を忘れて暴発しそうだ……)
こんな自分にここまでの反応を示してくれる。可笑しいような嬉しいような、少し擽ったさがある。
目の前の相手が取り乱して居るのを見ると冷静になれた。ゆえに、耀は朱炎の首に腕を回し、自身の首筋へと促す。
耀は知っている。朱炎の内に隠された荒く激しい衝動を。
だからこそ、耀は朱炎に血を与える。今までにも何度かあった。朱炎が荒れそうになった時には耀の血を与えてきた。
初めて食された日には、薬のような味だと言われた。心を落ち着かせるような味だと言いたいのだろうと思った。
耀が朱炎を誘導する。
耀の喉を吸うように密着していた唇は離れて首筋へと移動した。這うような感覚に心地よさを覚えつつ、次の衝撃に備える。
普段見えない大きな牙は、鬼の本能のままに変化している証。
その牙が首筋に刺さる衝撃に備えて、耀は少しばかり身構える。
ぐっ、とめり込み、皮膚を突き破って入ってくる。
痛みは――無かった。
それよりも酷い快感に襲われて思わず声が漏れる。
「ぁっ……っ」
全く困ったものだ。確かに以前は牙が刺さる時に感じた痛み。それが今、快感になってしまっているなど。
(朱炎様のせい……)
痛みは全て快楽になってしまう身体となったらしい。壊されて得た身体はとんでもなく淫らではないか。
朱炎の舌が傷口をちらちらと舐めあげてくる。
耀は、ふふっと声を出して笑ってしまった。すると朱炎の唇が離れる。
「すまない、取り乱してしまった……」
申し訳なさそうな声が降ってきて見上げると、いつもの朱炎に戻っていた。いや、いつもより少し肩を竦めて一回り小さく見えるのだが。
耀は微笑んで再び朱炎の首に腕を回し引き寄せた。
近づいてきた耳元に、耀は囁いた。
少しわざとらしく。
「もっと……」
もっと激しく、喰い散らかして。