第十七話
•──────⋅ 特別 ⋅──────•
朱炎の指が耀の肌を撫でていた。
爪を立てるわけでもなく、痛みを与えるでもなくただゆっくりと、己のものだと触れて確かめるように。
耀は目を伏せ、息を詰めた。くすぐったさと甘い痺れが背筋を走る。
触れられるだけで、身体の奥が熱を帯びる。
つい先ほど、朱炎の牙が食い込んでいたはずの場所には、もう痕跡ひとつなかった。
鬼の肉体は異様に丈夫だ。どれほど深く刻まれた傷も、焼け跡すらあっけなく癒えてしまう。
(また、何も残らない……)
あれほどの熱を孕んでいた場所に、何も残っていないことが妙に寂しかった。
「……勿体ない」
ぽつりと零した声に朱炎の指がぴくりと動く。
顎をそっと持ち上げられ、視線を絡められた。
「何がだ?」
低く響く声は、酷く甘美に耳に残る。
変わらぬ深紅の瞳が自分を映していた。
耀は自らの首筋に手を添える。吸血時の傷口がこんなにも綺麗に塞がっていると示すように。
「何も残らないので」
「まだ、それを求めるのか?」
まだ傷を求めるのかと呆れたように言いながら、どこか楽しげな朱炎の声音。
耀は視線を逸らす。
「いえ……そういうわけでは……」
言葉に詰まりながらも答えるが、本当は違う。寂しいのだ。どれだけ与えられても、全てが消えてしまうことが惜しい。
きっと朱炎は今後も傷跡を付ける事はないだろう。
「……優しすぎて……」
耀が遠くを見つめながら呟いた。
だが朱炎がそれを鵜呑みにするはずもなく、赤い瞳は渇きを見透かすように耀を捉えた。
「物足りぬ、と?」
苦笑混じりの囁きが耀の耳元をかすめる。
朱炎の指が再び首筋を撫でた。
何も言えずに耀は目を伏せるが、朱炎は沈黙は肯定であると捉えた。
「……心外だな」
わざとらしくため息をつき、耀の手を取り、その手首に唇を寄せる。
そして、牙を立てた。
また熱が生まれる。朱炎の牙がゆっくりと耀の肌を貫いていて。
耀はわずかに身を震わせながらも拒むことはしなかった。
「っ……」
「何度でも刻んでやる」
朱炎の低く潜る声が、耀の耳奥に沈み込んだ。
(そうか。たとえ何も残らなくても)
彼はまた刻んでくれる。自分が望む限り、何度でも与え続けてくれる。
(それでも、残ってほしい……)
記憶の中だけでは足りない。だから跡を残してほしいと、耀は駄々をこねるように朱炎の胸に顔を埋めた。
朱炎は黙したまま、静かに思考を巡らせる。
(ならば、いずれ消えぬものを刻んでやろう)
肌が癒えるなら、癒えぬ“印”を残せばいい。我が物であるという証――刻印を。
だが、それはまだ先でいい。
今はこの関係の中で耀が少しずつ変化する様子を愉しみたいと思う。
「……耀」
朱炎が名を呼ぶ。ゆるりと目を開けた耀の瞳に、“生”を見た。
朱炎はそれに一抹の不安を覚える。
生かしたのは自分だが、自由に羽ばたかれるとなると放ってはおけない。
(お前は、私の“特別”だ)
その言葉を口にするのは、刻印を与えるその時まで取っておこう。
朱炎はただ、静かに耀の肌を撫で続けた。