目の前に広がるのは、何処までも広がる緑の絨毯。
リリーベルは、無防備にまだ寝息を立てている。
異世界の朝は、やたらと空気がうまい。
焼きたてのパン?
いや、今日は朝マクドゥ・ナルトンセット(ホットケーキ)でいこう。
俺のスキル、『ファストフード』の出番だ。
――まさか40代サラリーマンだった俺にも、こんな日が俺にも来るなんてな。
★☆★
「いてっ……」
終電を過ぎた深夜25時。
飲み会帰りの大学生と肩がぶつかり、
立ち上がる気力もないのか路上に座り込み、道行く人を眺める。
若い頃は彼らのように友達と朝まで街中を舞台に遊んでいたものだ。
それがもう戻らない日々だと気付くと、胸がざわついた。
『今、入ったサイト制作の仕事あと2時間で終わらせろ!』
『文句があるなら上の人に言ってください。このサイトの仕様が変更したので、1時間で作り直してください』
『仕事が間に合わない? 自分の力量が足りないことを言い訳にすんな、ゴミくずが』
『仕事の振り方を改善して欲しい? そんなの当人たちで決めてくれ。会社は一切トラブルには関わらない』
毎日、本日発注、本日納期の仕事が割り振られ、現実的に処理できない現状が繰り返される。
(あー、なんでこんなとこで働いてんだ)
業務改善を提案しても相手にしてくれず、生活の為とは言え、平社員の中では唯一の勤続年数10年を記録していた。
(どこか遠くへ行きてえ)
家に帰って、寝て、起きて、仕事。
(好きなものも食えねえ体になったなぁ)
40代とストレスのせいで好きだった、ハンバーガーやコーラも食べられなくなっていた。
というか、味が分からない。味覚がなくなってしまった。
今ではほとんど栄養剤生活だ。
(今、全部投げ出したらどうなるだろう)
今すぐ立ち上がり、スーツを投げ捨て、果てしない世界をリュック一つで旅をする。
話し相手がいないと寂しいので一人くらいいてもいい。
好きな飯――そうだな。
久々にあの有名チェーン店のシンプルなハンバーガーと、キンキンに冷えたコーラ片手に、新たな世界を満喫したい。
たまには牛丼とかピザとかもいいな。
(今食べたら、身体が受け付けないだろうけど)
残業のせいで終電を逃して、いつものように朝までの居場所を探していたが、今日はついに心折れた。
(ん、あの光は……?)
大通りから小さな路地に曲がる道。
深夜にも関らず、明るい光が軒下より漏れている。
「今日は、朝まであそこで過ごすか」
眼鏡の傾きを直して、スーツに付いた埃を叩いて立ち上がる。
人気のない路地の光はファストフード店から漏れていた。
有名なMのイニシャルと赤と黄色の看板。
「ここにマクドゥ・ナルトンなんてあったか」
ここ最近、固形物なんて口にしていない。
朝まで過ごす時も飲み物だけだが、今日は何故か胃が収縮して空腹を知らせる。
「お前……行けるのか?」
自分の胃を抑えて、村上は意を決して入店する。
「いらっしゃいませー!
ご注文はいかがなさいますか?」
店内に客はいないが、漂う空気が外に比べて妙に清々しい。
聞いたこともない店内放送を疑問に思いながら、カウンターへと向かう。
女神のように可愛らしい店員が、村上へとメニューを差しだしてくれた。
「……今のオススメをください」
久しぶりすぎて注文の仕方など忘れてしまっていた。
だがポニーテールの店員は快く、選んでくれた。
「では、異世界セットなんていかがでしょうか」
「異世界セット?
じゃあ、それでお願いします」
異世界と命名するほどの量なんだろうか。
再びメニューに目を落とすと、今更ながら違和感に気が付いた。
(ん……ここって、マクトー・ナルトンだよな?)
ハンバーガーの値段表記が「G」と書かれている。
「G……ってなんですか、店員さん」
「GはゴールドのGです」
営業スマイルが返ってくる。
「ゴールド。
ドラクエですか?」
「ドラクエ?
いえ、ゴールドですよ」
村上と店員さんは見つめ合ったまま、首を傾げる。
すると厨房から生き生きとした声が響いてきた。
「異世界ハッピーセット、できあがりましたー!」
トレイにはハンバーガー、コーラ――そして、子供のおもちゃのような小さな革のリュックサックが乗っている。
「あの、お会計は?
ゴールドは、持ってませんが――」
「あなたは運が良い。
この女神のお店に辿り着いたんですから」
「女神……?」
村上の疑問に答えることなく、自称女神は営業スマイルで話を続ける。
「どこかしら
「限界、俺が?」
「ええ、私は迷い込んだ方へ、人生を変える選択を与えることができます」
女神は村上の前に異世界ハッピーセットを差し出した。
「このトレイを手に取れば、異世界への道が開きます。
ただし受け取らずに帰ればこれまでの人生へ戻れるでしょう」
「まさか、いやそんなことが――」
信じられないが、この女神の放つ雰囲気は妙に説得力がある。
「選ぶのは貴方自身です」
「ちなみにトレイをとっても、日本には戻れるんですか?」
日本に未練はないが、生まれ育った世界に戻れないのも不安だ。
「またどこかで私に出会えた時、ぜひご相談ください」
営業スマイルを見つめ、村上は意を決した。
(……失うものは別にない。
失いたいものは、ある)
「ありがとう店員さん。
じゃあ、ハッピーセットをいただくよ」
村上は両手でトレイを取ると、まるで手品のように姿が消えた。
残った店員は丁寧にお辞儀をしてから頭を上げた。
「またのご来店をお待ちしております!」
★☆★
差し込む木漏れ日の光で村上は意識を取り戻した。
見渡す限りの雑木林だが、深い森というわけでもなさそうだ。
「トレイを持ったまま到着するのか……」
村上は倒れている丸太を椅子代わりに腰を下ろした。
「妙に上手そうなんだよな」
茶色の包装を丁寧にめくり、ふかふかのバンズが顔を出す。
「久々の食事、食べられるのかな」
警戒しながらも、ハンバーガーに顔を近づける。
バーガー独特の食欲をそそる香りが鼻孔を通り抜けるので、村上は思わずかぶりついた。
「学生時代に食べた肉とケチャップ、それにピクルスそのものだ」
何か月かぶりに口にした固形物は、村上の口の中でうま味となって染み渡っていく。
「コーラなんて何年ぶりだろう」
水滴がついたカップにストローを指して、コーラを口にする。
期待していた炭酸の刺激が喉をジェットコースターのように駆け抜けていく。
「くああああ、うまい!」
世界最強の炭酸飲料にこれ以上の言葉は不要だろう。
食事の手が止まらない。
「ポテトの塩気がたまらんぜ」
ほくほくのフライドポテトを口に運ぶ。
数分もしないうちにハンバーガーセットは無くなっていた。
「ごちそうさまです」
味覚を感じたのはいつ振りか。
村上は自然と涙をこぼしていた。
――とそのとき、足元に大きめの登山用のリュックサックが置かれていることに気が付いたのだった。
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第2話
コーラを片手に街道を歩く日。
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