一日中小説を書くような生活を初めてから、滄史の生活はすっかり夜型となってしまった。
昼に起きて、適当に食事を摂って、昼間から昼下がりまでは家事をしたり日用品を買ったりと雑務を済ませ、夕方になると打ち合わせをしたり、ウェブ連載している同人小説を更新する。
そして夜になり、ようやく本格的に行動開始だ。賃貸マンションを出て、坂道となっている賑やかな大通り――その裏にあるカフェへ向かう。
喫茶店『夜光猫』は19時から朝の5時までやっている夜型人間のための店だ。
滄史のような夜に活動する人や、居酒屋で飲んだ後のコーヒーブレイク。キャバクラ、ガールズバー、ホストクラブ、深夜帯まで活動している人達がちらほらと訪れる。
「さて、今日もやりますか」
けだるいトーンで呟き、横断歩道をとろとろと渡る。ネオン管でできた猫が光る目で見下ろしてくる。今日も彼女はその光る尻尾を、同じくネオン管の店の看板に乗せていた。
無意識に店内を窺う。時刻は現在21時、珍しく客がいないようだ。
真鍮製のドアの取っ手を引いて、店の中に入る。微かに聴こえてくる音楽と共に、カウンター内にいる店員の女性が「いらっしゃいませ」と穏やかな声で迎えてくれた。
おのずと目が合って、滄史は軽く会釈をする。まだちゃんと話したことはないが、もう何度も来てそれなりの時間滞在しているのだ。きっと顔は憶えられているのだろう。
滄史はそそくさといつもの席に向かう。通りに面したカウンター席。背の高い椅子に座り、足元に荷物を置く。
ノートパソコンを取り出し、テーブルに置く。隣にスマホも配置して一息ついた。
「失礼します」
すぐに斜め後ろから声が聴こえ、冷たい水がグラスに注がれて滄史の前に置かれた。また頷くように会釈をして「どうも」と言う。
「アイスコーヒーを」
「ミルクとガムシロップはいかがいたしますか?」
「ミルクだけください」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げて女性店員が下がる。このやりとりももう何度目になるだろうか。
少し待つとアイスコーヒーが運ばれてきた。隣には海軍型ミルクピッチャーが置かれ、ミルクがなみなみと注がれている。
「ごゆっくりどうぞ」
言葉と共に女性店員の気配が遠ざかっていく。滄史はアイスコーヒーにミルクを注ぎ、ストローでゆっくりとかきまぜた。
ズッとアイスコーヒーを吸い上げる。すっきりとした苦みと少しのクリーミーさがふわりと口の中で広がり気分が冴えていく。
ノートパソコンを立ち上げ、書き途中のプロット、まだ原案段階のそれを眺めた。
「……わからん」
冴えたはずの気分がまたゆっくりと曇っていく。打ち合わせの後で書き殴るように打鍵した文字列が並んでいるのだが、とてもじゃないがこれから面白くなるとは思えない。
支離滅裂な原案を睨みながらアイデアを練るがちっとも形にならない。仕方なくアイスコーヒーを啜る。
ぼんやりとアイデアの素のようなものが浮かんでくる。インパクトのあるアイデアだ。
「……もう少し」
ジュッとまたアイスコーヒーを啜る。アイデアの素の輪郭がしっかりと形になっていく。
アイデアが出来てくると、登場人物のイメージもぼんやりと浮き上がってくる。主人公とヒロイン。2人が並んで歩いたり、向かい合ったり、追いかけたり、抱き合ったり。
印象的なシーンを作り出し、そこへ至る物語を考える。そしてそれらを繋げて1つの話にして――カランカランっと、ドアが開く音が鳴った。
来客を告げるベルだ。女性店員が「いらっしゃいませー」と言って迎える。
話を組み立てながら滄史の目線は自然に動き、新たな客へ向かう。本当に気になっているわけじゃないが、通りに面したカウンター席という位置なのでどうしても見てしまう。
その瞬間、滄史は目を見張った。
かすかに音楽が流れる静かな店内に不釣り合いな明るさ。
ハイヒールに目が大きい網目のタイツ、蝶ネクタイ付きの真っ白なつけ襟に真っ黒なレオタードと両手首に真っ白なカフス、そしてぴょこんと上に飛び出たウサギの耳のヘアバンド。
いわゆるバニーガールだった。それもディスカウントストアで売ってるような量産品ではなく、縫製がしっかりとした一点物だ。
「ひとりなんですけど、いいですか?」
現れた客、バニーガールの女性が訊ねる。女性店員は「もちろんです。お好きな席にどうぞ」と言ってカウンター内に戻っていく。
端的に言えば綺麗な女性だった。背はそれほど高くないが、足は長く、細いのにどこか肉感的で、惜しげもなく開いている胸もそれなりに豊かだ。なのに腰はきゅっと縊れていて、肩甲骨あたりまで伸びた長い黒髪は緩くふんわりと巻かれていて艶々と輝きを放っている。
小さな顔におさまっているパーツはどれも均整がとれていて、ほぼ左右対称だ。とりわけ目が印象的で、アニメやマンガのキャラクターのように大きい。
幼く見えるがこんな時間まで働いているのだから成人はしているのだろう。しかし、どうしてこんなところにバニーガールが――そう思ったところで、滄史はハッとして慌てて目をそらした。
危なかった。これ以上見ていると相手に気味悪がられ、店から追い出されてしまうところだった。最悪通報されたかもしれない。
いくら綺麗だからといって美術品じゃないのだからジロジロ見るべきではない。滄史は目をつぶって息を吐き、目の前のパソコンの画面に集中する。
「失礼いたします」
後ろで女性店員の声が聴こえる。きっとあのバニーガールに水を出したのだろう。
「ありがとうございます。えっと、カフェオレとあと……あっ、ピザトーストを」
「セットでよろしいですか?」
「はい、それで」
「かしこまりました。ピザトーストのセットでお飲み物はカフェオレで。お食事と一緒にお持ちしますか? 先にお出しすることもできますけど」
「あー……じゃあ先にください」
後ろから聴こえる女性店員とバニーガールの会話を滄史はなぜかドキドキしながら聴いていた。盗み聞き、なんてつもりはないけれど、なんだか良くない気がしてしまう。
フルフルと首を横に振り、前を向く。通りの暗い風景がガラスに映り込み、うっすらと鏡のように後ろの景色を映し出す。
これは良くない。滄史は咄嗟にそう思った。ガラスに映る店内の景色はカウンター席に座っているバニーガールの後姿を映しているのだ。
丸い椅子にちょこんと座ったバニーガール。小ぶりながらも形のいいお尻にはしっぽ代わりの白いポンポンがついている。
彼女が身じろぎする度にポンポンが揺れる。滄史はそれまでゆったりと椅子に深く座っていたが、慌てて前に身を乗り出し、かじりつくように画面へ顔を近づけた。
ガタガタと打鍵して先ほど浮かんだアイデアを手早く文字に起こす。間違っても鏡越しに見ていることに気づかれてはいけない。
ここはガリガリと書き進めることで、仕事をしているのだと思ってもらわなければ。
とにかく集中する――そう思ってキーボードを打鍵する滄史だったが、どうしても、チラチラと視界の端にバニーガールの後姿が入り込み、その度に手が止まってしまった。