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1-3

「しゃーない、普通に渡すか。確か大通りの店って言ってたよな……」

 うんざりといった調子で呟き、横断歩道を渡る。ポケットに入れるのもなんとなく憚れるので、手元で弄びながら夜の街を歩く。

 大通りに出て、きょろきょろと首を動かす。坂の上、数メートルほどのすぐ近くにシンプルだが大きな看板が見えた。

「『Jewel Dream』……あそこか」

 呟いて歩き出す。いくつか店が入っているビル、目的の店は2階にあるようだ。

 1階はゲームセンターとなっていて、入り口手前の左側に2階へ続く階段がある。

 年季の入った店に見える。店の外観は綺麗だが、電飾付きの看板は薄汚れていてヒビが入っているようだ。

 店の入り口前に紺色のスーツを着た体格のいい男性が立っていた。一目でなにかしらの有段者であることが分かる。

 滄史は思わず足を止め、視線を落とす。クラブには相応しくない客を入れないためのガードマンがいて、さらに入店前のボディチェックがあるなんて話をどっかで聞いたが、まさか本当だったとは。

 とはいえ今の滄史の目的は店に入ることじゃない。忘れ物を届けることだ。なるべく挙動不審にならないよう平静を装って歩く。

 ビルの中へ入ったところで背広姿の男性が滄史を見る。滄史は特に悪いことなんてしていないのに、背中にじっとりと汗が浮かぶのを感じた。

「あ、あの。すいません」

 声を掛けられる前に声を絞りだした。背広の男は滄史の声に反応したが、ジッと見つめてくるだけだ。

 店に、というよりも彼へ近づく。手に持っていたスマホを出して、画面を向けた。

「このスマホ、ここのお店の人のじゃないかなぁって思って。その、届けに、来たんですけど」

「……どこでこのスマホを拾ったんですか?」

 低い声が降り注ぐ。なにかは分からないが疑われている。

 あくまで怪しいものじゃないとアピールするため、滄史は持っていたスマホを背広の男へ差し出す。

「拾ったというか、見つけたというか……あの、ここの裏の通りにある喫茶店、夜光猫ってカフェで、お店の人が忘れてったみたいで、それで、そこの店長に押し付け……えーっと、頼まれたんです。たぶんここのお店の人のだからって、そう言われて」

「どうしてうちの従業員だと分かったんです?」

「それは、喫茶店に来てた方がその、バニーガール? の格好をしていたので、あっ、もしあれだったら確認していただければ。その女性とか……喫茶店の店長さんとか……」

 降ってくる圧に滄史はどんどん委縮して声が小さくなっていく。

 しどろもどろになりながらの説明に、背広の男は眉間の皺を深くしてスマホを睨む。

 やがて、持っていた無線でどこかへ連絡をとった。

 なんだか聞くのも失礼な気がして、滄史は一歩後ろへと下がる。

 なにかしらのやりとりをしているのだろう。居心地の悪さを感じながら無言で待つ。

 何度かやりとりをして、背広の男が無線のマイクから手を離し振り向く。

 先ほどと変わらず圧を感じる視線だが、警戒の色は随分と薄くなっているように感じた。

「今確認したところ、おそらくうちの従業員のものだろうとのことです。ありがとうございます。わざわざ届けていただいて」

 頭を下げてはいないものの、一応お礼を言われ、滄史は「いえ、そんな」と手を振る。

「ぜんぜん、僕は頼まれてきただけなので。えっと、じゃあ……僕はこれで」

「はい、ありがとうございました」

 滄史はペコペコと頭を下げ、そそくさとビルから出ていく。

 これで用事は済んだ。後はもう賃貸マンションに帰るだけだ。

 階段を降りて、向こう側へと渡るために横断歩道の前で待つ。

 ビュンビュンと車が横切り、信号が黄色から赤に変わる。

 それに続いて歩行者用信号も赤から青へと変わり、滄史はその場から一歩前へ――

「待って!」

 行く寸前で、声をかけられた。

 いや、声だけではない。上着のパーカーの裾をいつの間にか掴まれていたのだ。

 滄史が驚いて振り向くと、ぴょこんっとシルク地でできたウサギの耳が揺れた。

「あの、私のスマホ、届けてくれた人ですよね?」

 斜め下から声が聴こえ、滄史は視線を下した。大きな目と艶やかな黒髪。街灯に照らされた胸元にはまぁるい谷間が見えていて、思わずぎょっとする。

 慌てて視線を逸らすが、その先には左右対称に美しく整った顔があった。

 滄史が届けたスマホの持ち主、クラブ『Jewel Dream』のバニーガールだ。

「えっ、あっ、いや。僕はその……頼まれただけで、その……大したことは」

 咄嗟に手を出して顔の前に持ってくる。指の隙間から彼女の上目遣いが見えてきて、余計にドキドキしてしまう。

 早くこの場をやり過ごさなければ――そう思っているのに、滄史の身体はちっとも言うことをきかず、杭を打ったかのように微動だにしない。

 美人、それも極上でなおかつバニーガールだ。女性に免疫がない滄史はもうどうすればいいかわからない。

 そんな、しどろもどろになっている滄史の気持ちを知ってか知らずか、バニーガールは距離をは取ろうとして出している滄史の手に触れてきた。

「でも届けてくれたんですよね? ありがとうございます。助かりました」

 ふわっと目を細めてバニーガールが笑う。両手ではさむように掴まれた手のぬくもりと、ふくよかなほほえみに、滄史は言葉を失う。

 時が止まったかのように、周囲の音が消えて、聴こえるのは自分の息遣いだけだ。

 すると笑顔を浮かべていたバニーガールが、小首をかしげ、覗き込んできた。

「良かったら今度お店にも遊びに来てくださいね」

 フッと、バニーガールが握っていた手を離す。一瞬の静寂が瞬く間に破れ、ガヤガヤとした夜の喧騒が滄史を飲み込もうとする。

 なにか、できるだけ気の利いたことを言わなければ――そう思っているはずなのに、何も言うことができない。

 先ほどからずっと、彼女の顔から目が離せないのだ。唇が動くのを、長いまつげが震えるのを、その大きな瞳がらんらんと輝いている様をずっと見てしまう。

「はい……機会が、あったら」

 なんとか言葉らしい言葉を絞り出す。すると彼女はぺこっと軽く頭を下げ、踵を返して店の中へと帰っていく。

 白いふわふわのしっぽをぴょこぴょこ揺らしながら、視界から消えていくバニーガール。滄史はその場から動くことができず、ただ彼女の後姿をジッと見つめていた。

「……なんて、綺麗な人なんだろう」

 ひとりになったところで呟く。脳裏にはまださっきの笑顔が貼り付いている。

 これはしばらく引きずりそうだ。滄史は自分の単純さに辟易しながらも、にやけそうになる顔を手で必死に抑え込んだ。

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