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1-6

「こんばんは、来てくれたんですね。お客さま」

 そして黒髪の美人バニーガールは、いつの間にか滄史の斜め前まで来ていた。両足を揃えて膝をつき、小首をかしげておしぼりを差し出してくる。

 しなやかで淑やかなその仕草に滄史はドキッとしながらも、なんとかおしぼりを受け取った。

「あぁ、えっと、どうも……ってその、憶えてたんですか?」

 滄史の疑問にバニーガールがニコリと笑う。

「はい、もちろんです。あれ、買ったばかりだったから、すっごく焦ったんですよ」

 緩くつくった小さなこぶしを口元に当てて微笑むバニーガール。正直、もっと俗っぽいイメージを抱いていたが、むしろ真逆で言葉遣いも所作もかなり上品だ。

 クラブというものはそういうものなのだろうか。ぐるぐると頭の中で考え込んでいると、バニーガールが「おとなり、失礼しますね」と言って、滄史のすぐ隣に座ってきた。

 突然というわけではないが、まぁまぁの急接近に滄史は内心驚く。座ったときにふわりと髪が揺れ、ほのかに甘い香りが漂ってきたからだ。

「初めまして、光矢こうやと申します。今日はどうか楽しんでいってください」

 光矢――心の中で呟き、脳裏に刻む。音の響きから延々と続く荒れ果てた大地を想像したが、すぐに振り払った。女性の名前にしては異質すぎる。

「初めまして光矢ちゃん。安達行平だ」

「はい、安達様。玲奈さんから伺っています。素敵なオトナの男性だって」

「あぁ、よく言われるよ」

 冗談なのか本気なのか。安達の言葉に2人のバニーガールが笑う。

 続いて安達についていたバニーガールの玲奈も、滄史に対して名乗る。

 光矢に負けず劣らずの美人バニーガール、明るく溌溂としたタイプの女性だと、滄史は玲奈と話しながら脳内でカテゴライズした。

 2人のバニーガールの自己紹介も終わった――と思ったら、自分以外の3人の視線が集まっていることに気づき、滄史はハッとする。

「あれ、あれですか? この流れって、僕も名前、言った方がいいんですか?」

 滄史はきょろきょろと首を動かす。光矢を見て、反対側にいる安達と玲奈を見て、また光矢を見た。

 すると彼女は、ぴったりと揃えた足の上に手を置いて滄史を見つめ返してきた。

「差し支えなければ。ぜひ知りたいです。教えてくださいますか?」

 蜂蜜のように甘い声で訊ねられ、滄史は背中が熱くなっていくのを感じた。じんわりと汗が滲んでいる気がする。

「えっと、滄史です。久我峰滄史」

「わぁ、かっこいいお名前なんですね。滄史さんって呼ばせてもらってもいいですか?」

「えぇ、まぁ……ぜんぜん、お好きなように」

 ぐいぐいくる接客にたじたじとなる滄史。ボディタッチこそないものの、女性経験が圧倒的に少ない身としては、ドキドキする距離感だ。

「それじゃあお飲みものはいかがなさいますか?」

 玲奈が安達と滄史へ訊ねる。ここはクラブだ。必ずなにか頼まなければならない。

「私は水割りを。滄史は? 大抵の酒は用意してあるぞ」

「そうですよね。えーっと……」

 メニューを見ることもせずに注文する安達に対して、滄史はおそるおそるといった手つきでレザー調のメニュー表に手を伸ばす。

 パラパラとページをめくる。どうせ安達の奢りなのだから心配しなくてもいいのだが、それでも高すぎる酒は気が引ける滄史だった。

「うーん……そうだなぁ……」

 酒のラインナップを眺め、口をムズムズと動かす。パッと顔をあげると、光矢の後ろ側、視界の左奥にバーカウンターがあるのを見つける。

 様々な酒が並び、その中に滄史が唯一飲み慣れている酒があった。

「あぁ、えっと。ジョニーウォーカーの黒ってありますか?」

「はい、用意してますよ」

 メニュー表に載っていないウイスキーだったがやはりあったようだ。滄史は緊張して固くなっていた顔をわずかに綻ばせ「じゃあそれを」と注文する。

「飲み方はどうされます?」

「ロックで」

「それと君達にもドリンクを。好きなのを飲んでくれ」

 滄史の注文に安達がそう付け加えると、2人のバニーガールがぱぁっと笑顔を浮かべた。

 そういえば向こうも飲むものだった。初めての体験に滄史はフェイスラインを撫でながら、お酒を用意する光矢の後姿を眺める。

「お待たせしました」

 頼んだ酒はすぐに持ってきてくれた。琥珀色の液体が入ったスリムなデザインの瓶と背の低いロックグラス。そこにはまぁるい氷が入っていてひんやりと冷気を放っていた。

 グラスにゆっくりと酒が注がれる。氷がくるりと回り、滄史の前へ出される。

「それじゃあ乾杯しようか」

 安達が水割りの入ったグラスを掲げる。滄史も同じくグラスを持つ。

「じゃあ、乾杯」

「かんぱ~い」

「かんぱーい」

「……乾杯」

 合図と共に4人でグラスを軽く合わせる。クッとウイスキーを口に入れると、カッと喉が熱くなった。

 酒を飲むのは久しぶりだった。滄史にとって酒は嗜好品ではなく、コミュニケーションのためのツールや、現実逃避のためのドラッグでしかない。ゆえに、やらなければならないことがある現状において、酒が日常に介在する隙は存在しない。

 要は酒を飲んでいる場合じゃないのだが、今は特別だ。ここで飲まなければ場の雰囲気を壊してしまうので仕方なく飲んでいる。

 まだ完成していない長編小説のことなど今は忘れて飲むしかないのだ。

「滄史さんも安達さんと同じ出版社にお勤めなんですか?」

 コトンっとグラスをテーブルに置いたところで光矢が訊ねてくる。

 当然と言えば当然の質問に掃除は答えあぐねてしまう。

 ここはちゃんと小説家だと名乗りたいところだが、どうにも自信がない。かといってフリーターですなんて名乗るのもかっこつかない。

 なにを言っても言い訳染みてしまう気がする。「えーっと」なんて言って濁していると、ポンっと後ろから肩を叩かれた。

「滄史は私が担当する小説家なんだよ。将来有望の大先生だ」

 いつの間にか安達が滄史の背中に手を回し、ハハハッと笑っていた。大げさな紹介に光矢は大きな目を丸くして驚いている。

「小説家さんなんですか? すごい、私初めてお会いしました」

「いやそんな、そんなすごいものでは。ほんとに、大したことないので……」

 結局謙遜風の卑下をすることしかできない。ごまかすように酒を喉に流し込む。

「そうですか? 私小説は好きなのでよく読みますけど、あれが、あの量の文章が書けるってことですよね?」

「あの量っていうと……あぁ、光矢さんはその、どういった小説を読むんですか?」

「なんでも読みます。でも好きなのは海外作家のミステリとかサスペンスとかですかね」

 手を合わせてニコニコしながら語る光矢。意外な趣味だ。滄史は失礼ながらそんなことを思ってしまった。

 こんなに綺麗で明るい女性がミステリやサスペンスが好き。べつになにもおかしくはない。むしろ親近感が湧いてくる。

「好きな作家さんとかいらっしゃるんですか?」

「好きな作家……うーん、そうですねぇ……あっ、最近だと――」

 光矢の答えに滄史は舌を巻いた。さらに話を聞いてみると彼女は結構な読書家で、古典の名作から最新のベストセラーまで結構に網羅していて、滄史は若干気圧されていた。

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