久我峰滄史は女性経験が少ないどころかほぼゼロだ。
中学高校大学と、女性と接する機会を見逃していき、結局今だって誰とも付き合わず、ひたすら小説を書く日々を送っている。
それが嫌とは言わない。後悔はすでに過去として記憶の河に流れているし、そもそも、小説を書く上で恋愛はあまりにも邪魔だからだ。
集中してひたすら書くには好きな人の存在なんて邪魔以外の何物でもない。
そう思っていた。思っていたのだが――
「すごい、私こんなに人と小説の話できたの初めてです」
光矢が手を合わせて柔らかな笑みを浮かべる。
当然、滄史は真正面でその笑みを受け止め、自身の背中に熱が駆け上がっていくのを感じた。
この調子じゃ顔まで赤いかもしれない。滄史はごまかすために目の前に置かれている酒を勢いよく呷る。
中の氷が揺れてカランと音が鳴る。酒が空になったことに光矢がすぐ気づき、スッと身を寄せてきた。
「お酒、新しいの作りましょうか?」
「え? あぁ、お酒。はい、どうも」
慌ててグラスを渡す滄史。さっきからしょっちゅうしどろもどろになっているというのに、光矢は少しも気にする素振りすら見せず、笑顔でグラスを受け取る。
「同じのにしますか? それとも違うお酒飲まれます?」
「あー……同じので、大丈夫です」
スッと綺麗な所作で氷を取り換え、瓶に入った酒がグラスに注がれていく。
細くて白い指先を見ながら、滄史の中には2つの気持ちが渦巻いていた。
これは明らかに遊ばれている。弄ばれている。おちょくられているのだ。
彼女は先ほどこんなに人と小説の話ができたの初めてと言っていたがおそらくそんなことはないはず。滄史をいい気分にさせてやるために言っただけに過ぎない。
光矢はクラブのバニーガールだ。来店した人を楽しく、気持ちよくさせてあげることが仕事。リップサービスなのである。
問題は、滄史がそれに気づいているというのに、どうにもできないということだ。
いくら女性経験が少ないというかほぼゼロだと言ってもこれくらいは分かる――分かるが、これはこれでやっぱり気持ちいいので、中々抜け出すことができない。
本能の半分は危険だと叫んでいるのに、もう半分は心地よく眠っているような気分だ。
「このウイスキー、好きなんですか?」
脳内で眠っている自分を必死になって起こそうとしているところで、光矢が酒を注いだグラスを渡してくる。
そろそろ聞かれるとは思っていた。滄史は受け取ったグラスを傾けて口の中へ琥珀色の液体を注ぎ入れた。
かぁっと再び喉が熱くなり、一瞬だけ浮遊感に見舞われる。
「えぇ、まぁ。えっと……結構しょうもない理由なんですけど」
「えーなんですか? 聞きたいです」
きゅるんと大きな目を輝かせて光矢が覗き込んでくる。この目だ。さっきからずっとこの目に抗うことができない。
「好きな小説の登場人物が飲んでたんです。作中によく出てきて。それで、気になってて」
「へぇ~なんかいいですねそういうの。おしゃれですよ」
「そうですかね。でも初めて飲んだ時は正直きつかったんです。でも、かっこつけたくて色々飲み方を変えたりしてました」
「あはは、正直だ。でも今はロックで飲んでますよね?」
「飲んでるうちに慣れてきたんです。今ならストレートでもいけますよ」
はっはっと短く笑いながら酒を飲む滄史。いつもよりペースが早い気がする。緊張しているのだろうか。それとも、光矢に自分は酒に強い男なんだとアピールでもしたいのだろうか。
自分のことまで分からなくなるのはまずいと思うが、こんな風に客観視できているなら大丈夫だろうとたかをくくる。
グラスを置いて息を吐いたところで、滄史は光矢のグラスが空になっていることに気づいた。
「その、光矢さんも飲んでください。僕だけっていうのはあれなんで」
「ふふふっ、いいんですか? じゃあお言葉に甘えて」
嬉しそうに笑う光矢を見て頷く滄史。どうせここは安達の奢りだ。滄史が気にする必要はない。
チラッと視線をずらしたところで、中央のステージで楽しそうに踊っているバニーガールを見つけた。そのステージ前の席には自分のご贔屓に向かって拍手をしたりしきりに名前を呼んでいる安達の姿もある。
今日はダンスの日らしい。曜日ごとに催し物が決まっているらしく、ステージにはたくさんのバニーガールが並んで踊っていた。
「光矢さんはステージに上がらないんですか?」
ふと気になったことを訊ねてみる。ステージに上がっていないバニーガールは全員ではなく、光矢を含めた数人が席について接客をしたり、お酒を運んだりしている。
滄史の素朴な疑問に光矢は自分のお酒を手早く作り、グラスを持って微笑みかけてきた。
「はい、今日はいいんです。私は今日のメンバーじゃないので」
「日によってメンバーが違うんですか?」
「はい。でもお客様のご要望で飛び入り参加することもありますよ。滄史さんが見たいなら今からでもいけます」
「なるほど……」
光矢の答えに滄史は頷いて口を引き結ぶ。滄史にとってダンスステージというのは退屈なものだ。流れている曲もよく分からないし、人が踊っているところを眺める趣味もない。
とはいえ今の話の流れだとまるで光矢に踊ってほしいみたいな言い方だ。そんなつもりではないのだが、滄史はひとまずグラスを手にとった。
「光矢さん的にはどうしたいですか? その、踊りたいですか?」
「私ですか? そうだなぁ……」
光矢は悩むような口調で声を間延びさせ――たと思ったら、きゅっと口を閉じて少しだけ尖らせてくる。
どこか甘えるような顔のまま、目は滄史を見ている。その蠱惑的な表情とまなざしに、滄史は内心ギョッとしてしまう。
なにかを探ってきている。ここで目を逸らしたら恥ずかしがっているのがばれてしまうため、滄史は小首をかしげて光矢のまなざしを受け止めた。
やがて、光矢がフッと表情を戻し、右手で持っていたグラスの底に左手を添えた。
「今は滄史さんともっとお話して仲良くなりたいから、ここにいます」
最後に「はい、かんぱい」と付け加え、光矢がグラスを差し出してくる。
滄史もつられて「かんぱい」と言ってグラスを出してかち合わせた。
完全に弄ばれている。顔が赤いのをごまかすため、深めにグラスを傾ける滄史。このままではまずい。絶対に良くない。
美人バニーガールから通常通りの対応をされただけだというのに、なんだか特別なことをしてもらっている気がする。嫌々ついてきただけだというのに、今じゃ来て良かったと思っている自分がいる。
落ち着け、ここはそういうお店だ。自分で自分に言い聞かせ、浮かれた熱を逃すように息を吐いた。