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1-8

「その、光矢さんは……あーコーヒー、好きなんですか?」

 会話の主導権を握らせるわけにはいかない。滄史はグラスを持ったまま訊ねる。

 すると光矢はきょとんとした顔をして「ん?」と首を傾げた。

「コーヒーですか? うーん、普通、ですかね。好き寄りではあるかも」

「あぁ、そうなんですね。いや、その。この前夜光猫、ほら、ここの裏の通りの向かい側にある」

「あぁ、あのカフェ。あそこいいですよね」

「あそこ夜中もやってるんで助かるんですよ。夜型人間なので」

「私もです。そういえばあそこで滄史さんに私のスマホ、拾ってもらったんですよね」

 正確には滄史が見つけて店主に押し付けられて届けたのだが、この場では余計なことは言わない方がスムーズだろう。滄史は「そうでした」なんて言いながら酒を飲んだ。

「私、あのお店行ったの昨日が初めてなんです。休憩中は別のお店とか、近くのコンビニとかがほとんどで」

「じゃあどうしてあの日は夜光猫に?」

「うーん、なんとなく? なんかコンビニとかって気分じゃなくて。別の通りに出てみたら良さそうなお店があったので」

「なるほど……結構行動力あるんですね」

「えー? そんなことないですよ。全然、出不精ですし。でもなんかありませんか? ある日突然いつもの場所に行くのが嫌になるの」

 光矢の疑問に滄史は考え込むふりをして酒を飲む。最後の一滴がなくなり、カランと氷が音を立てた。

「あっ、ごめんなさい。おかわり、作りますか?」

 自分のグラスを置いて光矢が酒瓶を持って見せてくる。

 すでにウイスキーをロックで4杯。普通に酔いが回っている。ここらで止めておくのが常識ある大人だろう。

 だが、ここでいいと言ったらおそらくこの場はお開きになる。安達はしっかりしている大人だ。酔っている滄史を見ればここら辺でやめておこうと言ってくれるはず。

 酩酊感も今くらいがちょうどいい。ここでやめて帰れば気持ちよく眠れるだろう。朝にもあまり響かない。

 曲がりなりにもこれまで酒を飲んでいたからこそ分かる。この『飲み続ける』という選択の先に待っているのは地獄だ。

 しかしそれはあくまでも翌日の話。少なくとも今この場は『飲めば飲むほど楽しい』ゾーンへと突入するだろう。

 なにより、すでに光矢は酒瓶を持ってキャップに手をかけている。断るのも失礼だ。

「えっと、じゃあください。同じのを」

「はい、ロックで……滄史さん、大丈夫ですか?」

 今更ながら光矢が気遣ってくる。ここで弱気なところを見せるわけにもいかないので、滄史はへッと口角を上げて笑って見せた。

「全然、大丈夫です。これよりたくさん飲んだことだってありますし、大丈夫ですよ」

「そうなんですね。危なくなったら止めますからね」

「えぇ、危なくなったら」

 光矢に5杯目を注いでもらい、ゴクっと喉を鳴らして酒を飲む。

 頭を前に戻したとき、思ったよりも動いた気がしたが、無視して息を吐く。

「……いつもの場所に行くのがある日突然嫌になるの、なんとなく分かります」

 先ほどの光矢の話を引き継いで、滄史が呟く。

 もやがかかり始めた頭の中で思い浮かんだのは故郷の景色だった。

 観光地から少し外れたところにある田舎の一軒家。少し歩けば海があり、振り向けば林と山がある。

 それ以外はなにもない。ずっと変わらない景色と人々に嫌気がさして、滄史は逃げるように東京へとやってきた。

 だが変わったのは環境だけだ。滄史自身のやることはなにも変わっていない。

 ずっと小説を書いてる。お金になるかどうか、分からないけど、小説を書いている。

 ぐびっと、多めに酒を入れる。その熱さにカッと目が見開いたと思ったら、すぐにとろんと瞼が下りていく。

「滄史さん? 大丈夫ですか?」

「光矢さんは恋愛したことありますか?」

「え?」

 気遣いを無視して滄史は吐き捨てるように訊ねる。

 しかしその訊き方は答えを期待しているというよりは、自身で背負っている重たい物を投げ捨てるかのような乱雑さがあった。

「僕は今度恋愛小説を書かなきゃいけないんです。誰かと誰かが愛し合う、そういう話を」

「そう、なんですか? 恋愛小説、苦手なんですか?」

「苦手です。意味不明です。いいものが書けるとは思えない」

 ぐーっと前のめりになり、身体を引き戻すように酒を呷る。

 あっという間にグラスが空になり、滄史は光矢へグラスを突き出した。

「もういっぱいください」

「えっ、でも……滄史さん、もう止めた方が……」

「いえ、ください。飲みたい気分なんです」

 下を向きながらおかわりを要求する滄史。客がほしいと言っている以上ダメとは中々言えないので、光矢はひとまず少なめに6杯目を注いだ。

「でも書かなきゃいけないんです。僕にはもうそれしか生きる術がないので」

 スコッチウイスキーで満たされたグラスを顔の前に持ってきて、滄史がまるで呪いのように言葉を吐き出す。

「僕が小説を書き始めたのは12歳です。今は24歳。もう12年も書いてます。十年以上やって、本になったのは1冊だけです」

「本になっただけでもすごいんじゃないんですか?」

「すごいと思います。でもたった1冊です。天才でもなければ秀才でもない。ただひたすらに当たるまで書き続けただけです」

 クッと酒を流し込む。同時に目から涙があふれ、ツーっと筋を作り出した。

 光矢が目に見えて驚き、おしぼりを差し出したが、滄史は気づかず再び口を動かす。

「僕は不器用な人間で、能力が低いんです。頭も悪い。安達さんみたいに上手な生き方はできないんです」

「滄史さん……」

「荒野を走るための自分だけの車があって、それは色んな燃料で動きます。みんなそれぞれ違うものを燃料にしています。恋愛とか、仕事とか、趣味とか、もしくはそのすべて。そういう『熱』がないと、車は動きません。僕の『熱』は、小説だけです」

 語って、飲んで。また語る。明らかに酔っている。今すぐ止めた方がいいと頭の中の自分が叫んでいるが、あまりにもその声は遠く、滄史の心まで到底届かない。

「僕が乗ってる車は燃費が悪いんです。小説を書くための『熱』と、書き上げたときの『熱』以外ではちっとも動きません。僕だってそんなつもりはなかったけど、そうなってしまった。いつの間にか、この『熱』がなければ凍えてしまうようになった」

 冷たい酒を飲み干して、ダンッと音を鳴らしてグラスをテーブルに置く。

 最初こそ光矢は驚きながらもなんとか聞く態度を見せていたが、滄史があまりにも力を込めて語るので、ジッと聞き入っていた。

 もしくはそういう態度をとらなければ、滄史の機嫌を損ねると思ったのだろう。

 ただ、どちらにしても今の状態の滄史では、それを判別することは不可能だった。

 そんなことよりも、吐き出すことに夢中だったから。

「だから苦手な恋愛ものだって頑張って書きます。だって僕は小説の才能なんてこれっぽっちもないのに、小説を書くことでしか生きていけないから。他のことにかまけてる余裕なんて――」

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