「私、滄史さんの想いに感動しました。小説に懸ける想い。これまで全てをかなぐり捨てて、必死になってかじりついてきた滄史さんの『熱』に。滄史さんはずっと1人で荒野を走り続けてきたんですよね!」
一切の恥ずかしげもなく放たれる恥ずかしい言葉達に滄史は手を握られたままパクパクと口を動かす。
思っていたよりもずっと悪い酔い方をしていたらしい。これならまだ飲みすぎて吐いて店から叩きだされたとかの方がマシだ。
「私で良かったら滄史さんの執筆活動に協力しますから。必要になったら遠慮なくおっしゃってください」
大きな目をらんらんと輝かせ、ぶんぶん手を振る光矢。振っている二の腕が胸にあたり、かすかに揺れる。
そんな、思わず目を逸らしてしまうような光景を前にしても、滄史は呆然とすることしかできず「滄史さん?」と光矢から今一度名前を呼ばれたところでようやく意識を取り戻した。
そう、昨日滄史は担当編集である安達からクラブクラブ『Jewel Dream』に連れていかれ、ひょんなことから出会ったバニーガールの光矢と再会し、酒を飲みながら話をすることになったのだ。
慣れない環境と美人の女性を前にして滄史はどこか浮ついていたのだろう。その場の流れに身を任せるどころか、激流へと自分から飛び込み、バカバカと酒を飲んでいった。
その結果がこれだ。綺麗なバニーガールの前でこっぱずかしいポリシーとかプライドみたいなことを語ってしまったのである。
「あっ、えっと、あの……昨日って僕泣いてたりしました?」
おそるおそる訊ねてみる。滄史は酔うとまず自分の意思に反して涙が流れ、悪化すると泣きながら酒を飲み、最終的にうずくまっておんおん泣いてしまうのだ。
昨夜どこまで酔っぱらっていたのか。困ったように顔をあげると、そこには笑顔を浮かべている光矢がいた。
「はい、後半はもうソファでうずくまっておんおん泣いてました」
最悪だ。滄史はそっと手を解き、そのまま頭を抱えて落ち込む。
そもそもべらべら語ってるところを見られたのも恥ずかしいというのに、そのあと泣いてるところまで。
別にいいなと思われたかったわけではないが、それでも、情けないところは見られたくなかった。
「ふふふっ、大丈夫ですよ滄史さん」
どっぷり落ち込んでいると隣から光矢の声が聴こえてくる。
頭を抱えたままおずおずと振り向くと、光矢は慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
「ああいう風に酔っぱらっちゃう人、滄史さんだけじゃないですから。むしろ、あそこまで酔ってくれたのも、お店の居心地が良かったからリラックスできたってことですよね? だとしたら、私としても嬉しいです」
一寸の曇りもなく軽やかに語る光矢。あまりにもまっすぐなその言葉に、滄史は悲しんでるんだか怒っているんだか分からない表情ではははっと笑う。
「光矢さんが喜んでくれたらなによりです……」
なんとか言葉を絞り出し、滄史はコーヒーを飲む。
普段なら平気なはずの苦みが、今だけは妙にしんどかった。
結局、それから光矢は休憩時間ギリギリまで滄史と話してくれた。およそ作品作りとは関係のない他愛のない世間話だ。
光矢は店の外でもよく笑ってくれる女性だった。今この時間は賃金なんて発生しないというのに、滄史と楽しそうにお喋りしてくれた。
「あら、やだもうこんな時間」
1時間以上経過したところで、光矢が壁掛け時計を見てパッと立ち上がる。
「それじゃあ滄史さん、また」
ニコッと笑って光矢が離れていく。
滄史は軽く手をあげて「どうも、また」とだけ言ってパソコンの画面に向き直った。
支払いを済ませ、店を出ていく光矢。カウンターテーブルに肘をついて彼女の後姿を眺めていると、不意に、光矢が振り返った。
ガラス越しに光矢がこちらを見てくる。急に目が合って滄史は思わず姿勢を正す。
言葉もなく、2人で見つめあう。だがすぐに目の前の横断歩道の歩行者用信号が赤から青へと変わる。
光矢がパッと前を向く――と思ったらチラッとこちらを見て、滄史に向かって小さく手を振った。
はにかむように笑って歩き出す光矢。その笑顔とかわいらしい仕草が脳に焼き付いて離れない。
「……まいった」
呟いて、滄史は背もたれに寄りかかる。
感動したと、光矢は言っていた。滄史が必死になって小説を書いていることに、全てをかなぐり捨てて小説だけを書いていることに、なんてまっすぐな人だろうと感動してくれたのだ。
だけど、実態は違う。久我峰滄史は光矢が思っているような人間ではない。
昨日の夜は酷く酔っぱらっていた。滄史が語った小説に対する想いは確かに常日頃考えていることではあるが、それが全てではない。
かっこつけて『熱』だなんて言っていたが、要はやる気だ。
滄史はいわゆる『会社員』になるのが嫌だった。
よく知らない誰かと、とりたくもないコミュニケーションをとって、上司にこきつかれ、部下に馬鹿にされながら身を粉にして働く。
そんなことはしたくないと思ったから、滄史は小説家になろうと思ったのだ。
面白い小説を書ければそれでいい。弱冠14歳の夏のことだ。本土にわたってほとんどブラックの企業に就職してすっかりやつれた2人目の兄を見て、これまでぼんやりと抱いていた小説家になるという気持ちを固めた。
故郷の島を飛び出して東京へやってきたのもそれが理由だ。高校を卒業すれば島で仕事をさせられる。そうなったら滄史に一切の自由はない。
だから逃げ出した。誰もいない場所で孤独に小説を書くために単身で東京へ渡ったのだ。
そんな、中途半端な覚悟のまま書いていたら、偶然安達と出会ってしまった。
しかも信じられないことに安達は滄史のことを気に入り、滄史に本を出させたのだ。ぼんやりと思い描いていた小説家になるという夢が突如くっきりと浮かび上がり、滄史の身体を飲み込んだ。
最初は嬉しかった。大喜びだった。だが、月日が経過していくうちに、滄史は気づいてしまった。
自分はまだなにも準備ができていない。それなのに、もう残っているのは小説を書く毎日だけだ。
いや、やろうと思えば小説なんて今すぐ放り投げて、なにか別の働き口を探すことだってできる。
しかし、滄史がその道を選ぶことはできない。
なにせ小説家になりたいという想いだけはあったのだ。間違いなくあった。描いていた毎日とは随分と違うが、それでも、小説家になることはできた。
ゆえに、引き下がることはできない。だけど、思っていたより『小説を書く毎日』は苦しいことばかりだ。それでも、これ以外の生き方を知らない滄史は書くことしかできない。だけど、『小説を書く毎日』は本当に空虚で誰にも会えず、乾ききっている。
そして、寂しいと思う一方で、同じくらい誰かと一緒にはいたくない。特に光矢のような綺麗で優しい女性と一緒にいたら、心が掻き乱されてしまう。小説に集中できない。
こんな想い、自分でも矛盾していることは承知している。
だから今困っているのだ。光矢との付き合いをこれからも続けるべきなのか。それとも、スパっと断ち切って小説に専念すべきなのか。