『いやいや、どう考えても続けるべきだろ』
数日後、滄史は自宅の賃貸マンションで安達と打ち合わせをしていた。
修正した恋愛ジャンルのプロットがひとまず通ったので、これから原稿を本格的に進めていく。それのスケジュールを詰めるというのが目的なのだが、安達の真の目的は光矢との関係がどこまで進んだのか。ということだ。
それは安達の様子から滄史もなんとなく察していたので、ひとまず近況報告したのだが。
『向こうから興味を持って近づいてきてくれたんだ。その時点でお前は彼女を狙ってる他の男どもとはステージが違う』
またとないチャンスだ。そう付け加えて画面の向こう側でコーヒーを飲む安達。しかし滄史はこれまでの人生経験から、素直に喜ぶことはできなかった。
「そうですかね。興味を持って近づくなんて言いますけど、それだって仕事柄そういうトークが得意ってだけだと思いますけど」
『プライベートの連絡先も交換してるし、もう何度も話してるし、そもそも休憩中にわざわざカフェに来てくれてるんだろ? もしセールストークだったら来ないだろうし、来ても話しかけないんじゃないか?』
「それは……そうかもしれないですけど」
滄史は画面の前でむずむずと口を動かす。
光矢が滄史の小説に懸ける想いに感動したと言ってくれた翌日、そのまた翌日も光矢は同じ時間帯に夜光猫を訪れて滄史と話したり、物語に関する様々なことの相談に乗ってくれた。
そういうとき、光矢は滄史の席の反対側のカウンター席ではなく、わざわざ滄史の隣の席に来てくれるのだ。
どんなときでもすらりと揃っている網タイツに包まれた長い脚、細くて薄い腰のくびれと柔らかそうな豊かな胸、あの大きな目から放たれる蠱惑的なまなざし、小さな手で口元を隠して、微かに肩を揺らして上品に笑うその姿。ふわふわと揺れるウサギ耳すらも滄史の心を掻き乱してくる。
今のところなんとか原稿は書けているが、すでに光矢という存在が滄史の中を占領しつつある。良くない兆候だ。
だというのに、滄史は頭の中の彼女をどうにもできない。追い出しても消し去っても、数秒後にはすぐ滄史の記憶の河で優雅に泳いでいる。その状況を悪くないと思っている自分すらいる。
『せっかくだから今度会ったとき食事にでも誘えばいいじゃないか』
頭の中のバニーガールをどうすればいいのか思い悩んでいると、画面越しに安達がなんとも無責任な発言をしてきた。
滄史はムッとして背もたれから離れ、前のめりになって画面を睨んだ。
「誘えってそんな簡単に言わないでくださいよ。女の子とデートなんて」
『デートじゃない。ただの食事だ。そんな深く考える必要はないさ』
なにが違うんだと、滄史は思った。
百戦錬磨の安達ならともかく、滄史は恋愛という戦場では新兵どころか訓練兵だ。いや、養成学校入学試験補欠合格といっても過言ではない。
そんな状態の自分に相手を食事に誘うなど――
『別にこの1回で決めろってわけじゃない。2人だけで過ごす時間を積み重ねろってことだ。それがあればあるほど次に繋がりやすいしな』
「どうやって誘えばいいんですか? いきなりご飯行きませんかって言われても「え?」ってなりません?」
『そりゃいきなり言えばな。会話の流れとかで好きなものの話したり、気になってる店とか料理があるって話をしたり。そこから繋げていけばいいだろ』
「その、会話の流れっていうのがイマイチ分かんないんですけど」
『それはそのとき次第だろ。さりげなくそっちの話題へ持っていくしかないな』
「……なるほど」
眉間に皺を寄せて悩む滄史。十代のころは会話の流れなんてあんまり考えなかったし、大学生になってからこれまでも、順序立てて会話をしていくなんて小説の中でしかやってこなかった。
逆に言えば小説での会話だと考えれば上手くいくかもしれないが、相手が想定通りの会話をしてくれるとは――
「あの、ふつーに断られたどうすればいいんですか?」
悩んでいる途中でハッとして、滄史は不意に浮かんだ疑問をぶつける。
そうだ、相手は人間なのだ。滄史が書く小説の登場人物ではない。そもそも最初の時点で無理と言われたら、次はどうするべきなのか。
藁にも縋る想いで画面を見つめる。すると安達は「んー」と悩んでいるような声を出して――
『まぁそういうこともあるだろうなぁ』
あっさりと答えた。
答えになっていない。滄史はどうすればいいかを訊いたのに、安達の答えはただの反復だ。
思ってもいなかった返事に滄史は画面の前でパクパクと口を動かす。
『断られる理由は主に2つだ。ひとつは本当に忙しくて相手のために時間を作る余裕がない。こういう場合は何度か誘うとか、じゃあ落ち着いたら連絡してと言えば大抵の場合応じてくれる』
「な、なるほど。それで、もうひとつは……?」
『本当に行きたくない、だな』
ガクッと項垂れる。大体予想はついていたが、実際言葉にされると中々しんどいものがある。
もし光矢を誘って後者の理由で断られたら、滄史はしばらく傷つくだろう。
そうなったら原稿作業は難航してしまう可能性が高い。だからうかつに踏み出したくないのだが。
『まぁしかしこれはあんまり聞かないな。大抵の女性は1回食事するくらいならいいとは言うだろう。たとえ興味がない相手からの誘いだとしても適当に頷いておけばいい話だからな』
「それってつまり1回きりってことですよね。興味のない奴と何度も食事するとは思えないですし」
『だろうな。だから2回目以降で何度も断られるようだったら脈ナシってわけだ』
「……ちなみになんですけど、忙しいから無理って言われたけど、本当の理由は生理的に無理だからってケースもあるんですか?」
『そりゃあるだろう。尤もその場合はいつまで経っても忙しくて、いつの間にかフェードアウトしてるだろうけどな』
「それを見極める方法っていうのは……」
『こればっかりは経験としか言いようがないな』
どうしようもない答えに滄史は口を開けたまま固まってしまう。
誰かと付き合うというのは基本的に上手くいかなくて、面倒なことばかりだと思っていたが、とんでもない。付き合う前から十分にめんどくさい。
そんな面倒なことをやっている暇があるのなら小説を書く方がまだマシだと、滄史は固まったまま思った。
『まぁめんどくさいと思うかもしれないが、そういう気持ちも含めて経験だ』