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2-3

 安達から光矢を食事に誘えとはやし立てられ、2日が経過した。

 今夜も滄史は夜光猫で原稿作業だ。正直ここまで行けばやることはとにかく書くことなので、あまり相談することもない。

 ゆえに、一昨日光矢と会ったときは数十分ほど雑談をしただけだった。

 そのときに一瞬だけ食事に誘おうかと思ったが、結局できなかった。というよりやらなかった。

 そして今日、普段ならもうそろそろ光矢が休憩ということでここへ訪れる時間だ。

 気になりつつも、滄史は原稿を書き進めていく。あんまりソワソワしていると、バレたときが恥ずかしい。

 そんな風に、ガタガタとキーボードを打鍵していると、カランカランと店のドアのベルが鳴った。

 現れたのは光矢だ。今日もバニーガールの格好をしていて、ふわりと巻かれた黒髪がいい具合に広がっている。

 反射的に見てしまったことで、光矢と目が合う。ニコっと微笑みかけられ、滄史は座ったまま会釈をした。

 光矢が女性店員と言葉を交わしながらいつものカウンター席へ座る。

 滄史は通りに面したガラス越しに彼女の背中を見つめた。

「……どうしたもんかな」

 誰にも聞こえないようかすかな声で呟く。

 食事に誘ってみたいという気持ちはある。

 だが同じくらい断られたくないという気持ちと、小説に集中したいという気持ちもある。

 しかし、小説のためだと思えば、断られるにしろ、オッケーをもらうにしろ、やってみる価値はあるかもしれない。

 すべては小説のため、リアリティのため。もう10年以上小説を書いている滄史は、自身の感情よりも――いや、感情も含めて優先されることが決まりきっていた。

 わずかばかりに振り向いて光矢の様子を窺う。アイスカフェラテをストローで啜り、バジルチキンとスクランブルエッグのホットサンドを小さな口で齧っている。

 今日もぴったり足を斜めに揃えて座っている。彼女が足を崩しているところは見たことがない。

 そんな滄史からの視線を感じ取ったのか、光矢はホットサンドを持ったまま、くるりと振り向いてきた。

 いきなり目が合ってびっくりする滄史。ゆっくりと視線を隣へと移すと、光矢はコクンとホットサンドの一口を飲み込み、口に手を当てて微笑んだ。

 察してくれたのだろう。光矢はドリンクのグラスとホットサンドのプレートを持って席を立つ。

 そのまま流れるように滄史の隣の席へ。カウンターにグラスとプレートを置いて、滄史の顔をジッと見つめてきた。

 そのまっすぐなまなざしにやられながらも、滄史は横を向いたまま外を見るふりをする。

「あーその、実は、光矢さんにお願いがあって」

「んー? なんですか?」

 どこかいたずらっぽい、跳ねるような声色で光矢がささやく。

 ひとまずめんどそうな感じではないことに安堵しつつ、滄史は話を続ける。

「その、光矢さん甘い物って好きですか?」

「甘い物? 好きですよ。大好きです」

 大好きですというただの言葉の響きにドキッとしながらも、そんなことで心が揺れている自分を情けないと卑下する。出会ってからずっとこんな調子なのでいつ慣れるのだろうかと自分でも不安になってしまう。

「あぁ、そうなんですね。良かったです。えっと、それでなんですけど、実は今書いている原稿でそういう……いわゆる主人公とヒロインとのデートというか、一緒に出掛けるシーンがあって」

「へぇ、いいですね。どこに出掛けるんですか?」

「それはまぁ色々となんですけど、そのうちのひとつに、そういう流行りのスイーツ店に入るという展開があってですね。でも僕はそういうとこの、食べたことないんですよ」

 若干しどろもどろで説明を続ける滄史。今のところ光矢は特に疑うようなそぶりを見せず、話を聞いてくれている。

「流行りのスイーツってどういうものがあるんですか?」

「それがですね、なんか調べたら、いや、安達さんに聞いたんですけど、チュロス、チュロスってあるじゃないですか」

「チュロス……あぁ、あの棒みたいな、輪っかみたいなやつ」

「はい、それの生版?」

「なまばん?」

「生チュロスっていうらしいんですけど、それが今流行ってるらしくて」

 ずっと目線を逸らして話していると変だし、なにより失礼なので、ときおり光矢の顔を見て話す。と言っても目を合わせてではなく、目と目の間や鼻の辺りだ。

 それでもほぼほぼ左右対称の光矢の小さな顔は綺麗で均整がとれていて、滄史としてはやっぱりドキドキしてしまう。

「へぇ~そうなんですね。そういうの私ぜんぜん知らなくって」

「僕もです。それで、えっと本題なんですけど、その生チュロスを出してるお店が、2駅くらい離れたところにあるんですよ」

「あー……2駅、ですか」

「はい、それなら行こうかなと思ったんですけど、その……そういうお店ってやっぱり若い女性が多いんですよね。客層としては」

「あぁ、そうですよね。やっぱり」

「そうなんです。だからちょっと、くたびれた男1人だと行きづらくて……もし良かったらなんですけど……」

 おずおずと反応を窺う滄史。できればここで察してほしかったのだが、光矢はいつの間にか心ここにあらずといった様子で、ストローを口につけながらもカフェラテを飲んではいなかった。

 それとも、察したうえで行くかどうか悩んでいるのだろうか。滄史はその先の言葉を思わず口の中で留めてしまう。

 しかしここで言わなければ負けしかない。滄史はこっそりズボンの生地を掴んで、パッと離した。

「あの、光矢さん?」

「……え? あっ、はい。なんですか滄史さん」

「その、もし良かったら同行してくれないかなと……」

 言ってすぐに目を逸らしてしまう。すると光矢は先ほどのどこかぼーっとしている表情から一転して、いつものようにニコっと笑った。

「生チュロスでしたっけ? 食べに行くんですか?」

「はい、小説を書く上でどんなものなのか確かめておきたいので」

「ふふっ、分かりました。そういうことならご一緒します」

 あっさりと得られた承諾の言葉に滄史は立ち上がって喜びたい衝動に駆られるが、必死に抑え込む。

 ただ、淡白な反応というのもどこか変だし、相手に失礼だろうと思い、どうにかホッとした表情を浮かべた。

「あっ、本当ですか。ありがとうございます。助かります。あの、でも。行くのがお昼過ぎとかになっちゃうんですけど大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。その日は頑張って早起きしちゃいます」

 きゅっと両手を握って腕を寄せる光矢。突然のアクションに滄史は『今きゅってした!』と心の中で叫ぶ。

 頼みを聞いてくれただけでも嬉しいのに、さらに光矢は早起きをするという。夜のお店で働いていて夜型の生活だというのに、その日は滄史のために時間を使ってくれるというのだ。

 なんていい人なんだろうと思いながら、滄史は両ひざに手をついて「ありがとうございます。お願いします」なんて言って深々と頭を下げる。

「やだ、そんな、いいんですよ。小説のお手伝いをしたいって言ったのは私ですから」

「でもありがたいです。助かります。えっと、じゃあ空いてる日とか教えていただけると。僕がそれに合わせるので」

「えーいいんですか? じゃあ、空いてる日、連絡しますね」

「はい、いつでも大丈夫なので」

 滄史はなんとか自然な笑顔を浮かべる。その後、いつも通り他愛のない話をして、1時間ほど経ったところで光矢はクラブへと戻っていった。

 再びひとりになって、滄史はふーっといつもより長く息を吐く。

 これで第1段階はクリア。小説を書くためだなんてなんともわざとらしいが、とにかく相手は応じてくれた。

「あーめんどうだな……」

 思わず愚痴を呟く滄史だったが、その表情はどこか嬉しそうだった。締まりのない顔をした自分とガラス越しに目が合って、咄嗟に手で口と頬を隠す。

 明らかに浮かれている。上がってくる頬をグッグッと押し込んで、手のひらに息を吐く。

 やたら熱くて湿り気のある自分の吐息を感じて「落ち着けよ」と呟いた。

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