滄史が光矢をなんとか食事に誘ってから3日が経過した。
今日も今日とて滄史は原稿を書くため夜光猫を訪れている。
店内には数人の客がちらほらと散らばっており、光矢がいつも座っているカウンター席にも運悪く先客がいた。
思い返せば滄史は光矢が別の席に座っているところを見たことがない。それこそ、滄史の隣くらいだ。
自分が気に入った場所はずっと居続ける性格なのかもしれない。
そんなことを考えながら原稿を書いていると、カランカランと店のドアからお決まりの音が聴こえてきた。
現れたのは光矢だった。今日も彼女はその美しさで周囲からの視線を一身に浴びている。
歩くたびにコツコツと音が鳴る。視線をやるとすぐに目が合って、光矢がぱぁっと華やかに微笑んだ。
「こんばんは滄史さん」
ちょこちょこと小股でこちらへと近づいてくる光矢。いつもより軽やかな足取りになにかいいことでもあったのだろうかと滄史は若干身構える。
「どうも、光矢さん。なんか今日はご機嫌ですね」
「そう見えますか? ふふふっ」
細い指を唇に当ててくすぐったそうに光矢が笑う。そしていつもの席ではなく、滄史の隣に座り、手に提げていた紙袋からなにか取り出した。
「じゃーん」
そう言った光矢が出したものは小さな紙製の箱だった。お店のロゴだろうか。おしゃれなデザインで描かれており、滄史にとっては縁遠いものだ。
この箱がどうしたのだろう。クラブの客からもらったのか。
滄史が怪訝な表情をしていると、光矢はカウンターテーブルの2人の間に紙製の箱を置いて封を開けた。
差し込み式構造のワンタッチ式のパッケージは、開けると同時に甘くて香ばしい匂いがしてくる。
「……これは」
箱の中を覗き込み、滄史は思わず声を漏らす。
入っていたのはチュロスだった。ふんわりと仕上がった砂糖菓子は揚げていないのかしっとりとした冷気を帯びていて、上からハチミツがかけられているものもある。
普通のチュロスとはまた違う。これはまさしく――
「生チュロスです。同僚がお店の近くに住んでるらしくて、今日買ってきてくれたんです。良かったら滄史さん、食べてください」
ほのかに甘い匂いを発している生チュロスを見下ろして、滄史は口角をヒクつかせる。
どうしてこうなってしまったのか。確かにまだ店に行く日程は決めていないけど、それにしたってまさか先に買われるとは。
そもそも滄史の目的は光矢と出掛けることなのだが、なぜか向こうは滄史が生チュロスをどうしても食べたいと思ったらしい。
どこですれ違いが生じてしまったのか。滄史は顔をあげて光矢を見るが、彼女はにっこりと笑っているだけだ。
「あ、ありがとうございます……帰ってからいただきます……」
正直なところ受け取りたくはないのだが、ここまで善意にあふれた笑顔で見つめられたら受け取らざるをえない。
それに飲食店でよそからの食べ物を取り出すということも、どうにも良くない気がして、小心者である滄史は箱を受け取ることしかできなかった。
「良かった。実は今日あんまり時間がとれなくて、でも生ものだからこれだけでも渡さなきゃって思って。ふふふっ、滄史さんがいて良かったです」
滄史がそそくさと生チュロスの箱をリュックにしまっていると、光矢がホッとしたように微笑む。
その言葉と表情を見て、滄史はますますそうじゃないと言えなくなってしまう。
「そうだったんですね。すいません、わざわざ僕なんかに時間を作ってもらって……」
「いえいえ、すっごく美味しいみたいですから、ぜひ食べちゃってください。小説も、頑張ってくださいね」
「あぁ、それはもう……ありがとうございます」
お礼を言いながら滄史は心配する。果たして今自分はどんな顔をしているのだろう。
怪訝な顔になっていないだろうか。不機嫌な感じで不貞腐れているような顔をしていないだろうか。
こんなことになるなら小説のためとか言い訳なんてしないでまっすぐに誘えば良かった――光矢の言葉をぼんやり聞き流しながら、滄史は自らの行いを悔やんだ。
「じゃあすいません、ちょっと、人を待たせてるので。失礼しますね」
ぺこっと光矢が軽く頭を下げる。滄史は「ええ、どうも」とだけ言って座ったまま頭を下げ、スッと前を向きなおす。
離れていく光矢の足音が聴こえる。すぐにドアが開く音も聴こえ、滄史の視界の端に光矢の後姿が映り込んだ。
バニーガールの白いしっぽが風でふわふわ揺れている。やがて信号が青になり、彼女は歩いて行った。
「……なにやってんだ僕は」
はぁっとため息を吐いて呟く滄史。なんだか告白をする前にフラれたような、そんな気分だった。
なぜこんなことになったのか。本当は行きたくなかったのだろうか。
会話の流れで行くと言ったものの、本当は行きたくなくて、でも今更行けないなんて言えないから、せめてお目当ての店の物をあげて手打ちにしたいとか。外の通りを眺めながら滄史は悶々としてしまう。
こういう場合はどうすればいいのか。脳内にいる安達へ助けを求めるが、想像上の彼は難しい顔で首を横に振るだけだった。
ほとんど空になったグラスをとって、ストローで啜る。溶けた氷がかすかに残っていたアイスコーヒーと混ざり薄い苦みが口の中に広がる。
グラスをテーブルに戻すと同時に、新しくアイスコーヒーが注がれたグラスが置かれた。
なにも頼んでいないのに2杯目が届き滄史は混乱して振り向く。
「当店からのサービスです」
店長と思わしき中年男性が、生温かい笑顔を浮かべている。
慰めの1杯とでも言いたいのだろうか。滄史は突如提供されたアイスコーヒーを見て、ぼんやりとした笑顔を浮かべている男性を見上げ「……どうも」とだけ言った。