恋愛の経験値が低いとこういうことになる。
スマートかつシンプルに誘うことができず、たとえ誘えたとしても向こうに勘違いされ、結局ナシになってしまう。
「……かっこつけてないでもっとがっつけば良かったのだろうか」
深夜2時を過ぎたころ、滄史は曇った夜空を見上げながら呟いた。
嫌われたくなくて、ダサいやつだと思われたくなくて、滄史はあのとき大人しく引き下がってしまった。
本当に光矢とそういう関係になりたいのなら、もっと積極的になるべきだったのか。勘違いだと言って改めて食事に誘うべきだったのか。
「そもそも誘い方が良くなかったのかもしれない」
呟いて、後悔して、ため息を吐いて。どんよりと暗い気分のまま横断歩道を渡る。
光矢の職場であるクラブ『Jewel Dream』の前まで来る。足を止めて入り口を眺めた。
今ここで店に入って、光矢と話して勘違いを正すべきか――滄史は一瞬だけそう思ったが、すぐにまた歩き出した。それができるならそもそも夜光猫で話していた時にしていたはず。
結局、勇気がないだけだ。
断られたくなくて、傷つきたくなくて、一歩踏み出すことができない。
いつかどこかで自分のことを理解してくれる人が現れてくれる。そんな、夢みたいなことを考えて、いい人のふりをして踏み込むことを避けてきた。
『え? マジで言ってる? あっはっは! 久我峰かー』
暗い気分が呼び水となり、嫌な記憶を引き起こす。
かぁっと顔に熱がこもり、目を見開く。
記憶の河から流し切ったはずの思い出が、渇ききった大地に落ちて、ひび割れを起こす。
「わすれろ」
グッと目をつぶりぶるぶるとその場で首を横に振る。
きゃらきゃらと笑っていた『彼女』に靄がかかり、周囲の景色もかすんでいく。
小刻みに肩を震わせ、目を開く。店の前の通りの横断歩道の信号はとっくに青に変わっていて、滄史は苦い記憶から逃げるように歩き出す。
「――さん」
誰かの声が聴こえた気がした。だが滄史は振り返らない。
足だって止めない。早く家に帰ってシャワーを浴びよう。そうやって無理やりでもいいから気分を変えてしまおう。それだけを考えながらひたすら歩を進める。
そうでもしないと、過去に囚われてしまう。小説が、書けなくなってしまう。
それだけはいけない。久我峰滄史の人生には今、小説しかないのだから、書けなくなったら終わりだ。
終わりということは、死ぬということだ。途中棄権は許されない。敗北も許されない。勝ち続けるしかない。
そのためには恋愛なんかに構っている暇なんて――
「滄史さんっ! 滄史さーん!」
横断歩道を渡り切り、信号がギリギリで赤になる。
光矢の呼ぶ声が聴こえ、滄史はゆっくりと振り向いた。
バニーガールが立っている。黒髪で小柄な女性が滄史をジッと見つめている。
どうして彼女がここにいるのか。滄史を呼んでいるのか。わけがわからずその場で立ち尽くしてしまう。
やがて信号が再び青になり、光矢が動き出す。
滄史は動いていないというのに、追いかけるみたいに駆け足で横断歩道を渡り、滄史の目の前でバランスを崩した。
「ぎゃっ!」
「ぅわっ! ちょっ!」
思いっきり前へ倒れこもうとする光矢。滄史は咄嗟にその身体を前に出す。
むにゅっと柔らかい感触――ではなく、しっかり成人した人間の重さが伝わってくる。
思っていたよりも強い衝撃だったが、滄史はなんとか耐えて光矢を受け止めた。
「っと、大丈夫ですか? 光矢さん?」
受け止めた状態で滄史は安否の確認をする。視線を動かして足元を見るが、ヒールが折れてたりとかではない。単純に転んだのだろうか。
すると光矢は滄史の腕の中にぴったりとおさまった状態でおずおずと顔をあげ、ジッと上目づかいで見つめてきた。
「あ、あの……光矢さん?」
「……滄史さん。私、滄史さんのこと、傷つけちゃいましたか?」
大きな瞳を潤ませて、光矢が訊ねる。
今の転んだ件ではないだろう。とはいえ先ほどの食事の件でもないはず。思い当たる節がないので、滄史は光矢の華奢な肩に触れようとして、やっぱり触れなくて、そのまま一歩下がった。
「傷つけたって、その、なんのことですか? 特にそういったことは」
「さっき同僚に言われたんです。本当は、滄史さんは私と食事に行きたいだけだって。流行りのスイーツとか、小説とか、そんなの口実だって」
バレていた。いや、そもそもバレているうえで向こうも了承してくれたのだと思っていたが本当に察していなかったらしい。
そしてまさかの同僚の方が理解していた。思いがけず助け舟がやってきたが、滄史はどう返事をすればいいのか分からなかった。
ここは素直にそうだと言うべきなのだろうか。それとも、そんなことはないと、ごまかしてしまうべきなのか。
滄史が返答に悩んでいると、光矢の表情が曇る。
これはまずい。そう思った滄史は慌ててまた距離を詰めた。
「違うんです! 決してそういうつもりじゃなくて! あくまでも小説、小説のために光矢さんについてきて――」
『まぁめんどくさいと思うかもしれないが、そういう気持ちも含めて経験だ』
言葉の途中で滄史は安達の言葉を思い出す。
めんどくさい。自分はめんどくさいのが嫌だから、今思ってもないことを言っているのだろうか。
本当は違う。誤解されたり、拒絶されたり、理解したり、されなかったり。全部怖いだけだ。
もはや滄史にとって小説は生きていくためのものだが、生きていくことは小説のように上手くいかない。
やりたいこと、やっていること、上手くいかないことばかりだ。
恋愛どころか、ただ生きていくだけだってこんなにも思い通りにならない。
だから滄史は小説を書く。小説ならなんでも上手くいくから。
だから滄史は恋愛をしない。自分の描いたとおりに物事が進められないから、上手くいかなかった後が怖いから、最初から諦めて利口なフリをしている。
今だって自分の真意を伝えたら拒絶されてしまう気がして無難に片付けようとしている。もう何年もこんな調子だ。
このままでいいのだろうかと思う夜もある。
誰にも嫌われず、誰にも好かれず、ただうすぼんやりとした毎日。
いいはずがない。だけど、そこから抜け出すには自分が変わるしかない。
もう少しだけ自分本位の人間に――
「いや、ごめんなさい。今の嘘です。嘘つきました」
大丈夫だと言い切る前に、滄史は首を横に振った。
咄嗟に出てきた言葉だった。もちろんこの後のことなんて考えていない。
そんな滄史の突然の発言に光矢はどこか浮かない表情から一転してぽかんと口を開けた。
「あ、あの……滄史さん。うそって」
「えっと、その同僚の人が言ってることが……あぁ、その要するにですね……」
「要するに?」
「こうやって渡されるだけじゃなくて、光矢さんと出掛けたかったってことです」
ストレート、というにはほんの少しだけひねりがあったが、それでも滄史にとっては随分と素直な言葉だった。
ジッとして光矢のリアクションを窺っていると、彼女は見開いていた大きな目をフッと細くして笑う。
「そうだったんですね。ごめんなさい。私ったらずっと勘違いしてたみたいで」
「いえ、そんな。はっきり言わなかった僕が悪いんです」
「そんな、滄史さんはなにも悪くは……あ、あの。でも、言ってくれれば良かったのに、どうしてなんですか?」
「え?」
「どうして、一緒に行きましょうって言わなかったんですか?」
「……それは」
言えるわけがない。どうやって誘えばいいのか分からず、気恥ずかしくて咄嗟に小説を言い訳にしたなんて。
それとも、ここで正直に白状すれば、光矢の中の滄史の評価は変わるのだろうか。
言葉が出せずに考え込んでいると、光矢がパッと明るい表情を浮かべ、滄史が持っているスイーツの箱へ視線をやった。
「あの、良かったらなんですけど、その生チュロス、私と一緒に食べてくれませんか?」
光矢の甘えてくるような上目遣いに今度は滄史が口を開けて驚く。
かわいらしくて素直な彼女の『お誘い』は刺激的で、さっきまでずっと沈んでいたテンションが無理やりに引き上げられる。
動悸が止まらない。上目づかいではにかみながら滄史の上着の裾をつまむ光矢。こんなことされて平静を保てる男がいるはずない。
「はっ、はい! ぜひ! えっと、その、どうしますか? どこで食べます? あぁ、今じゃないか。またどこかの機会に」
「いえ、今がいいです。お時間、いただけますか?」