原稿の締め切りが近い。
こうなるとのんびり『夜光猫』を訪れる時間すら惜しいので、滄史は自宅マンションの作業用デスクでひたすらキーボードを打鍵していた。
以前送ったプロットが通り、その作品のおよそ1巻分の原稿を作った。
それを送りつつ、その作品が編集会議で通った場合を考えてある程度話を書き進めなければならないのだ。
とはいえ、このままいけばどうにか予定している部分まで間に合う。イレギュラーさえなければ十分に間に合う量なのだ。
そう、なにも思い出さなければ。
『今度こそ、お食事。行きましょうね』
あの日の夜、バニーガールの光矢と過ごした時間を思い出す。
そこから連鎖するように様々なことを思い出し――
『言うのが、恥ずかしかったんです。こういうこと、したことなくて』
『……女性を、食事に誘うことですか?』
『好きな人を、食事に誘うことです』
会話をひとつずつ思い出し、とうとうキーボードを叩く手が止まる。
瞬く間に熱が背中を駆け上がり、その熱を逃すかのように頭を振った。
「あーなにやってんだ僕は」
その場の勢いに任せて告白だなんて、やってることが中学生だ。
もう少し言い方もあったというのに、つい口に出てしまった。
あれから滄史は光矢に会っていない。連絡もしていない。
「なに本気になってんだよ……」
乱暴に吐き捨てて、滄史は大きくため息を吐く。
いきなりあんな場所で好きだと言われ、光矢はなんと思ったのだろう。
困惑しただろうか、軽蔑されただろうか。それとも、なんとも思っていないか。
いや、きっと憶えてもいないだろう。光矢は美人で性格もいい、滄史以外にも彼女を狙ってる人間がいてもおかしくはない。
しかし自分はどうだ。売れないし小説を書き続けて、もう何年も経っている。
甲斐性もなにもあったもんじゃない。滄史が光矢の立場だったとしても選ばないだろう。
「うん、諦めよう。諦める。僕には小説しかないんだ」
自分を慰める言葉を言い訳のように繰り返して、再び原稿の作業へと戻る滄史。狭く薄暗い部屋にカタカタとキーボードを打鍵する音だけが響いた。
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原稿を書くことにのめりこみ、ちょくちょく光矢との会話を思い出しては悶々としてしまい、それでもなんとか終わらせた次の日のことだった。
いつも通り昼前くらいに起きて、書き上げた原稿の手直しをしていると、スマホに着信があったのだ。
久我峰滄史には友達がいない。地元の人間とも久しく会ってないどころか、連絡すらとっていないし、家族とも随分話していない。
無論、東京に来てからもロクに友達を作っていない。小説家になる前、専門学校に通いながら同人活動をしていた頃はある程度交流はあったが、頻繁に人と会うなんてことはなかった。
そして小説家になってからはより減った。定期的に会ったり話したりするのは担当編集である安達か、つい最近知り合ったバニーガールの光矢くらいで――
「……なんだ、安達さんか」
スマホに表示されている名前を見て、滄史はホッと息を吐く。
一瞬、ほんの一瞬だけ光矢から連絡が来たんじゃないかと思ったが、そんなことはなかったようだ。
そもそも、今の状態で話をしてもロクなことにならないだろう。滄史はスマホをデスクに置いたまま応答した。
「おつかれさまです。安達さん」
『おお、滄史。おつかれ。どうだ? 進捗は』
「一応予定していたとこまでは終わってます。今はそれを読み返して直しをしている最中です」
『そうかそうか、相変わらず早くて助かるよ』
「仕事ですから。それで、どういったご用件で? 進捗確認だけですか?」
予定されている締め切りまであと5日ほどある。普段の安達にしては早い催促だ。
『いや、進捗はついでだよ。喜べ滄史。いい知らせだぞ』
スマホから聴こえてくる安達の声は軽やかだった。
どこか楽しそうな安達の声色に滄史は期待する半面、めんどくさそうだと思ってしまう。
経験上、こういったことは嬉しいといえば嬉しいのだが、それに付随してまた別のタスクが追加されてしまうので、結果的には忙しくなる。
仕事をしている以上仕方のないことかもしれないが、とはいえ仕事が増えるのは面倒だ。滄史は『いい知らせ』とやらがあまり大きなものでないことを密かに望んだ。
『今書いてるやつな、編集会議で通ったよ』
「え? あっ、ほんとですか!?」
パッと目を見開き思わずPC画面に近づく滄史。思ってもいなかった『いい知らせ』にさっきまでの不安が消し飛ぶ。
『本当だ。ひとまず1巻刷って、売れ行き次第でシリーズ化だな』
「……はい、頑張ります」
『そう気負うな。いつも通りやればいい』
安達は相変わらず気楽な様子だが、滄史はそうもいかない。
なにせ生活が懸かっている。編集会議で通った以上、腑抜けた作品は作れないだろう。
『そうだ、編集会議通ったお祝いに1杯行くか?』
滄史が気合を入れなおしていると、安達が『お誘い』を仕掛けてきた。
安達は自他ともに認める宴会好きで、滄史はこれまで何度も彼に連れ出されてきた。初めて本を出した時だって、そんなに大きな賞じゃなかったというのに、出版社でのその年の忘年会に引っ張り出されたのだ。
今回もどうせなにかと理由をつけてただ騒ぎたいだけなのだろう。
「いいですよそんないちいち。シリーズ化だってまだ決まってないんですから」
『そのための景気づけみたいなものだろ。遠慮するな、私の奢りだ。しばらくカンヅメだったから光矢ちゃんにも会ってないんじゃないか?』
急に光矢の名前を出され、滄史はグッと言葉を詰まらせる。
光矢との関係について、安達には色々と話してはいるが、少し前に勢いあまって告白してしまったことは言ってない。
まだお友達程度の関係性だと思っているのだろう。あながち間違いではないが。
店に言ってしまったら確実に会うこととなる。そして安達は初めて店を訪れたときのように、気を遣って2人っきりにしてくれるだろう。
そうなったとき、滄史はどうすればいいのか分からない。何事もなかったかのようにふるまうのが正解なのか。それとも、ちゃんと答えを聞くべきなのか。
『どうした滄史。行きたくないのか?』
滄史がずっと無言でいることに気づいたようで、安達が心配してくる。どう答えていいか分からず、眉間に皺を寄せながら「いやぁ……」とか「うーん……」としか言えない。
「まぁその、行きたいと言えば行きたいんですけど、行きたくないかと言われたら行きたくないというか、どっちかというと行きたくないよりというか、気まずいというか……」
『そうかそうか、じゃあ予約はしておくぞ』
「はっ!? ちょっ! 安達さん! 僕の話聞いてました!?」
『聞いてない』
「聞いてないんかい!」
ひとり部屋で叫ぶ滄史。リモートでの打ち合わせなので、当然ながら予約をしようとしている安達を阻止することなどできなかった。
こうなったらなにか理由をつけて断るか。いや、執筆活動しかやっていない滄史に急な予定など組み込まれるわけがない。それは安達も知ることだ。
このままでは本当に『Jewel Dream』へ行くことになってしまう。半ば諦めムードで項垂れていると、画面から安達の声が聴こえてきた。
『え? 休み?』