「着きましたよ。ここです久我峰さん」
店から歩いて五分ほど経ったところで、玲奈が日傘を持った手で右手側の建物を指し示した。
思ってたよりもずっと近い。そういえば光矢は以前この街から出たことがないと言っていたが、まさかこんなにも狭い範囲で暮らしていたとは。
しかし、滄史の驚きはそれだけではなかった。光矢がこんなに近場で生活していたこともそうだが、なにより、この建物が見るからに高い建物、いわゆるタワーマンションだったのだ。
ざっと見積もって30階はあるだろうか。どこからどう見ても高級マンションといった外観に、滄史は呆気に取られてしまう。
「あっ、驚いちゃいました? ここ、光矢ちゃんのお父さんが持ってるマンションらしいですよ」
ひそひそと誰かに配慮して玲奈がささやく。父親。そう、光矢も人の子だ。彼女を生んだ母親がいて、彼女を育てた父親もいる。なにもおかしいことではない。
煌びやかなロビーにビビりながら滄史は建物内へと足を踏み入れる。滄史のひとり暮らし用賃貸マンションとは大違いだ。セキュリティはもちろんのこと、床も壁も磨かれていて、あまりにも世界が違う。
さらに入ってすぐのロビーにはそれなりの広さの管理人室があり、2人の男性がデスクについていた。
「こんにちはー」
先に入っていた玲奈が日傘を畳みながら男性へと声をかける。2人のうち1人が反応して立ち上がり、部屋の音声窓越しに「どうも」と低い声を響かせる。
「27階の10号室の守屋光矢ちゃんの同僚なんですけど、彼女風邪ひいちゃったみたいで、お見舞いに来たんですけど」
「守屋様のご友人、ですか? 後ろの方も?」
ジロッとやや不躾な視線が滄史にぶつけられる。どうしたらいいか分からず固まっていると、玲奈が「はい、お友達です」と明るい口調で答えた。
「かしこまりました。守屋様に確認してみますね」
男性が返事をしたときにはすでにもう1人の男性が電話をかけているようだった。何度かやりとりをしているようで、連絡している男性が何度か頷き、やがて受話器を置く。
なにか合図を出して、音声窓の近くにいる男性が頷き、玲奈の方を見た。
「確認がとれました。今開けますので、どうぞお入りください」
すぐにロビーの重厚そうな自動ドアが開く。玲奈は「どうもー」と明るい声でお礼を言って、滄史は軽く会釈をして音声窓の前を通り過ぎる。
自動ドアを抜けてエレベーターホールへ。3基のエレベーターのうち1基がすぐに到着し、ドアが開く。
2人でエレベーターへ乗り込み、目的の27階のボタンを押す。
「高級マンションってすごいですね。管理人、管理人って言うんですかね? 常駐してるんですね」
滄史は思わずホッとしたような表情を浮かべて喋る。玲奈は手を口元に当ててクスッと笑った。
「ねーびっくりしますよね。私も最初は驚いちゃって。コンシェルジュっていうらしいですよ」
「コンシェルジュ……なるほど。なんか聞いたことがあるような、ないような。それにしても来客対応もああいう人達が管理してるのか」
感心したように呟く滄史。セキュリティの方法としては随分アナクロな気もするが、最終的にはこれが一番いいのかもしれない。
まさしく高級マンションといった対応に、滄史はますます緊張してしまう。
こうなるとエレベーターの挙動もなんだか違う気がする。これまで乗ってきたエレベーターの中でも静かなうえに早い。
あっという間に27階に到着した。2人でエレベーターを降りて光矢が住んでいるであろう部屋へ――行く前に、玲奈が足を止めた。
どうしたのだろうと滄史が振り向くと、玲奈はバッグからスマホを取り出していた。小首をかしげてスマホの画面を見つめている。
「玲奈さん? なにかありましたか?」
滄史が声をかけると彼女はパッと手のひらを突き出した。待って、ということなのだろう。滄史がその場で立ち尽くすと、玲奈がスマホを耳にあてた。
「もしもしーおつかれさまですー」
誰かから連絡が来たらしい。口調やおつかれさまという言葉から察するに『Jewel Dream』からかもしれない。
「……はい、はい。えーそうなんですか? あーなるほどぉー」
聞き耳を立てるのは良くないだろうと判断し、滄史は少し玲奈から離れる。
まるでホテルのようなマンションの廊下を眺めていると、パタパタと足音が聴こえてきた。
「ごめんなさい久我峰さん。お店から電話かかってきて」
足音に反応して振り向くと、玲奈がスマホを持ったままこちらへときていた。やはりあれは店からだったようだ。
「いえ、全然。大丈夫です」
「あのーそれでなんですけど、お店からの電話が、今日出勤予定の子が体調崩しちゃったみたいで」
「あらま。それはまた大変ですね」
「そうなんです。それでちょっとヘルプとして出てくれないかって言われちゃって」
仕方のない話だ。人が運営している以上そういったトラブルは起こるだろう。滄史は空いている手でポリポリとこめかみを掻いた。
しかしそうなると光矢のお見舞いは中止になる。滄史も玲奈もせっかく彼女のために色々と用意したが、まぁ仕方がない。
「そういうことなら仕方ないですね。光矢さんのお見舞いは――」
「なのでお見舞いは滄史さんお願いします。私の分も届けてあげてください」
セリフを途中で被されて、さらに滄史にとって予想外の展開が訪れる。
「えっ!? いや、あの、玲奈さん。待ってください。ぼ、僕が行くんですか? 1人で?」
慌てて確認をとる滄史。だが玲奈の方は特にうろたえることもなく「はい」と答えた。
「だってせっかくここまで来たんですもの。それに、光矢ちゃんってああ見えてすっごく生活能力が低いんです。だから今も絶対大変なことになってますから。様子、見てあげてください」
「いや、そういうのって僕みたいな知り合い程度の人間がやることでは……せめて彼女のご家族とか、他のご友人とかいないんですか?」
「いるじゃないですか。ご友人」
そう言って玲奈は滄史を見て小首をかしげる。
「それとも、滄史さんは光矢ちゃんのこと、心配じゃないんですか?」
「それは……もちろん、心配ですけど……」
「じゃあ、お願いします。すみません、私もうお店に行かなくちゃなんで」
ぺこぺこと何度か頭を下げて、玲奈がエレベーターにひとり乗り込む。
結局、滄史は断りきることができず、マンションの廊下に取り残されてしまった。
「……まじか」
行くしかないのだろうか。いっそのことこのまま帰ってしまおうかと思った滄史だったが、玲奈からお見舞いの品を預かっているし、もし本当に行かなかったら、後日玲奈が光矢にお見舞いの話をするだろうし、そうしたら大変なことになる。
それに光矢が心配なのは本当だ。玲奈が言っていた通り生活能力が低いのだとしたら、放ってはおけない。
振り返って廊下の奥へ視線をやる。ずっと奥の角部屋が10号室だ。
「……よし、行こう」
覚悟を決めて滄史はゆっくりと歩き出す。
廊下の奥まで来て、ドアの横に設置されたインターホンを押した。