「映画、好きですか?」
アイスカフェラテを一口飲んで、光矢は明るい笑顔で突然そう訊ねてきた。
深い夜へ入ってすぐの時間だった。滄史は久しぶりに夜だけ営業しているカフェ『夜光猫』へ赴き、原稿を書き続けていたのだが。
そこへいつものようにバニーガール姿の光矢が現れ、カフェラテを一口飲んだと思ったらすぐ滄史の隣へやってきたのだ。
「は、はい。好きですけど……」
「ラブロマンスは? 観ますか?」
「……たまに」
「観に行きましょう!」
ガッと手を掴まれる滄史。突然の接触もそうだが、なんだか今日はやけに押しの強い様子に照れるよりも前に困惑してしまう。
勢いに呑まれてどう答えるべきか迷っていると、光矢はキラキラしていた目を曇らせて眉をさげた。
目に見えてしゅんっとしたその様子に滄史はギョッとして光矢の手をもう片方の手で包み込んだ。
「い、行きましょう! 僕映画大好きなんです!」
半ばヤケクソ気味で答えると、光矢はしょんぼりしていた顔から一転、ぱぁっと笑顔の花を咲かせた。
「ほんとですか? いいんですか?」
「もちろんです。それにちょうど今映画を観たいと思っていたので」
なんともわざとらしい言葉だったが、光矢のお気に召す答えだったらしい、滄史の手をつかんだまま今度は楽しそれに笑う。
「やった行きましょう。ぜひ行きましょう」
「そうですね……でもいいんですか? 映画館、ここら辺にないですけど」
滄史からの疑問に光矢はピタッと笑顔のまま動きを止める。
キョロキョロと周囲を見回したと思えば、椅子の上で動いて滄史へと近づいてきた。
「そうなんです。だからその……滄史さんに、連れてってほしいなぁって」
肩を寄せて近づいて、上目遣いでこちらを覗き込みながらおねだりをしてくる光矢。なんともいじらしいその姿に滄史はかぁっと背中を熱がかけあがり、さらにこの前のキス寸前のあの瞬間も思い出し、顔まで赤くなってしまう。
「あっ、えっと、そう、ですよね。いや、そういうことなら全然。僕で良ければ、その、同行します。行きましょう、映画」
「はい、よろしくお願いします」
にっこりと光矢が笑う。「また連絡します」と言って前を向き、先ほど注文していたパンケーキを食べ始める。
滄史もひとまず前を向き、コーヒーを啜り、原稿の作業へと戻る。カタカタとキーボードを打鍵しながらも、頭の中は映画のことで頭がいっぱいだった。
ここら辺の映画館というと、隣町にある大型の商業施設の中にあるものだけだ。土日祝日に限らず平日でもカップルや家族でごった返していて、以前滄史が1人で赴いたが、あまりにもアウェーな環境にひどく肩身の狭い思いをした記憶がある。
しかし今回は違う、光矢と滄史、2人で行くのだ。
2人とも大人だ。商業施設内にある映画館で映画を観てそれで終わりということにもならないだろう。
だとしたら、もしかしてこれはデートなのでは――思っていることと全く同じ文章をいつの間にか打鍵していて、滄史は一気に顔を歪め、文章を打ち消した。
グッと背もたれに寄りかかり、ふーっと息を吐いて力を抜く。
フルフルと首を横に振り、チラッと隣にいる光矢の横顔を覗き見る。
ふさふさの長いまつげと大きな目、すっきりとした小さな鼻に瑞々しい唇。パンケーキを小さく切ってこれまた小さな口の中でむぐむぐと咀嚼しているその姿はなんともかわいらしい。
バニーガールの姿はパッと美麗に見えるが、服装抜きで彼女を見るとかわいらしい部分がたくさんあることに気づく。
自然と滄史の視線は光矢の顔からその唇へと動く。なにもない部屋で、ふたりっきり。今よりもずっと近い距離で見つめあって――
「滄史さん、そんなにジーっと見ちゃだめです」
光矢が恥ずかしそうにはにかんで、滄史は「へ?」と口にした。
それから遅れて気づく。光矢は見られていたことに気づいていたのだ。
「す、すいません。その、なんていうか、目が離せなくて」
言い訳になっていない言い訳を並べて、滄史はバッと前のめりになる。
パソコン画面へかじりつくように身をかがめ、ガタガタと乱暴に打鍵した。
あんまりジロジロ見るべきじゃない。自分に言い聞かせて原稿を進めていると、不意に視界の端でなにかが動き出す。
隣の席の光矢がなにかをしている。カチャカチャと音が鳴り、パンケーキの皿が端っこに寄っているように見えた。
もう帰るのだろうか。まさか自分がジロジロ見ていたから不快な気分になったのか。滄史は自身の行いを悔やみ、どう謝るべきか文面を組み立てる。
しかし、光矢はすぐに立ち上がることはせず、両腕をカウンターテーブルに乗せて、グイっと前のめりになった。
視界の端っこで光矢の黒髪が揺れているのを視認しながらも、滄史は目の前の画面に集中する。
気になるが、見てはいけない。さっきジロジロ見るなと言われたばかりなのだ。ここはグッと我慢しなければならない。
滄史はさらに身体をぎゅっと縮め、視界を狭める。カタカタとキーボードをリズミカルに叩く。
すると、それまで前を向いていた光矢が顔を動かした。滄史がいる方を向いて、ゆっくりと角度をつける。
手の甲を頬につけて目を細める光矢。温かいまなざしで見つめられ、滄史はできるだけ反応しないように努めた。
集中している顔を作って原稿を進めていると、足になにかが触れる。
光矢の足だ。ハイヒールを履いた小さな足がちょこんっと当てられている。何度も、からかうように。
滄史はさらに口をグッと閉じてキーボードを叩く。意地でも反応しないように振舞っていると、それまで顔を傾けていただけの光矢が再び動き出した。
椅子の上で身体を動かして横を向き、滄史にグッと近づいて覗き込んでくる。
視界の右端どころか右半分くらいに光矢の顔が見える。目をランランと輝かせ、こちらを覗き込むその姿に、滄史はふっと息を吐き、原稿の作業を中断した。
「……光矢さん、からかわないでください」
降参とばかりに呟くと、光矢は楽しそうにクスクスと笑う。
「ふふっ、やっぱ分かっちゃいました?」
「そりゃ……分かりますよ。それくらいは僕でも分かります」
「分かってるならもっと見てたかったなぁ」
呟きながら光矢が背もたれに寄りかかる。太ももの上で手を重ねて腕を寄せるその仕草を滄史は見ようとしてすぐに目線を逸らす。
「あれ以上見られてたらいたたまれなくなって帰ります」
「えぇ~……そんなに私に見られるのやですか?」
小首をかしげ、唇を尖らせる光矢。どこかあざとさすら感じるその表情だが、滄史は相手のペースに乗せられるのを防ぐため、前を向いて肩をすくめた。
「そりゃ、いいなと思ってる人に見られたら……悪い気はしないですけど、でも、同じくらい、いや、それ以上に恥ずかしいです」
「おんなじですよ。それ」
滄史にとって主導権を握るための攻めの一言だったが、あっけなく返されてしまった。どういう意味なのか気になって滄史は思わず振り向く。
光矢はアイスカフェラテが入ったグラスを両手で持って、ストローで飲みながら目を細めて微笑んでいた。
どこかいたずらな笑みを浮かべるバニーガール。パッとストローから口を離し、小さな顔を傾けて滄史を覗き込んでくる。
「私も、いいなって思ってる人に見られるの、嬉しいです。でも、ちょっとだけ恥ずかしいかも」
またからかわれているのだろうか。滄史は光矢の言葉を正面から受け止め、どうにか笑って見せた。
「微妙に違いますよ。それ」