仕事が進まないまま2週間ほど経過した。
これまで様々なアプローチを仕掛けてアイデアを出そうとしたが、これだというものが出せず、さらに現在刊行中のシリーズの原稿も遅々として進まない。
このままでは仕事に支障をきたす。いや、仕事どころの話じゃない。滄史自身の生活が脅かされてしまう。
これ以上ちんたらするわけにはいかない。そう思って躍起になってアイデアを出しているのだが。
「……だめだ、なーんも思いつかない」
夜、外へ出かける余裕すらできず部屋の中で唸りをあげながらどうにかアイデアを絞るが、出てきたのは諦めの言葉のみだった。
座っている椅子の背もたれにもたれかかり、天井に向かってため息を吐く。
笑ってしまうくらいなにも出てこない。こんなにも悩んでいるのは初めてかもしれない。
「いったん寝よう」
呟いて、滄史は椅子から立ち上がる。
適当に歯磨きを済ませて、電気を消す。こういうときは一度寝て煮詰まっている思考をリセットするしかない。
起きたときに抜群のアイデアが思い浮かぶのを期待して、滄史はベッドに寝転がった。
暗い部屋で瞳を閉じて、視界が真っ暗になる。
ゆっくりと、徐々に眠気がせり上がり、やがて滄史は沈むように意識を落とした。
滄史にとって睡眠中の夢は小説の手助けとなるものだった。
これまでの創作生活で何本かは夢から着想を得たものがある。
そのどれもが安達からの評判がよく、滄史自身も納得いくものができた自負があった。
なので、今回もそれでどうにか乗り切ろう――とまではいかないものの、夢の助けがあってもいいんじゃないかと思い、眠りに落ちたのだが。
『……どこだここ』
気づくと滄史はどこか学校の教室にいた。
そこまで広くない20人が入れるかどうかの教室。席は殆ど埋まっていてそこには小学生の頃の友人と専門学校の頃の友人もいる。
滄史の身体が動く。教室内を歩き、一番後ろの空いている席についた。
「久我峰」
席に着いた瞬間名前を呼ばれる。
振り向くとそこには、背の高い女性が窮屈そうに座っていた。
『なんで
「ねぇ久我峰、課題やった? 私全然分かんなかったんだけどあれどうすればいいの?」
滄史の困惑を無視して背の高い女性――南美代が訊ねてくる。
昔から変わっていない、茶髪寄りの黒髪、くせっけで鋭い目で、身長が高くて肩幅ががっしりしていて手が大きい。
小学生のころからの同級生で、滄史が好きだった女の子だ。
あのときのまま。当然だ。これは久我峰滄史が見ている夢の中なのだから。
『課題? 課題ってなんだっけ?』
「ほらこれ、助けてよ久我峰」
夢の中での独白のはずなのに南美代が返事をする。
ずいっと目の前に出された原稿用紙の束、なにか物語のようなものが書かれていて、滄史はひとまずそれを受け取り、どこからともなく出てきたペンで加筆修正を行う。
ものの数分で修正は終わり、南美代へと返す。すると彼女はぱぁっと明るい笑顔を浮かべ、ぴたっと、滄史にくっついてきた。
「すごい! もうできたの!? それにこれめっちゃ上手いじゃん!」
かつて好きだった女の子に手放しで褒められ、滄史は心が温まるのを感じる。普段なら照れたり謙遜したりするところだが、夢の中では別のようだ。
滄史は手を伸ばし彼女の手を握り締める。突然の接触だったが嫌がることも驚くこともせず、自然な様子で握り返してくる。
「よーし、それじゃあ授業始めるぞー」
いつの間にか教室の奥、ホワイトボードの前に教師が立っていた。
シルエットがはっきりしない。最初に見たときは中学生の頃の担任だったが、もう一度見ると専門学校に通っていた時の先生になっていた。
教室にいる学生が課題を机の上に出す。滄史の分はいつの間にか机の上に置かれている。
課題はどんな内容だったか、滄史が確認しようと視線を落とす。
『なんだこれ……分かんないなあ』
判然としない課題に滄史は諦めて顔をあげると、すでにそこは外だった。
場所は滄史の故郷だ。自然に囲まれたどこかの通り。キョロキョロとあたりを見回すがなにもない。
誰も住んでいないような家がぽつぽつと建っているだけ。
滄史は無意識にポケットに手を突っ込む。中にはスマホが入っていて、取り出すと目の前に画面が投影された。
「あっ、くがみねさんだ~」
画面に女性が映り込む。最初はスマホ程度の大きさだった画面が、みるみるうちに大きくなっていき、とうとう、空いっぱいに女性の姿が表示される。
『……なんで』
滄史は怖くなってスマホを落としてしまう。こちらに背中を向けた長い髪の女性。今の季節は夏だというのに、コートを着てゆらゆらと揺れていた。
「くがみねさん久しぶりー」
背中を向けたまま女性が喋りだす。
軽い口調ではあるものの、怒っているのか笑っているのか分からないトーンの声に、滄史は恐怖に震える。
やがて、女性がゆっくりと振り向く。真っ暗な洞のような顔の中にはなにもなく、挨拶で振り上げた左手の薬指には指輪がはめられていた。
『に、逃げなきゃ!』
どうにか身体を動かして、滄史はその場から走り出す。
だが、夢の中の身体はちっとも言うことを聞かない。気持ちは全力疾走しているのに、身体は動いていない。
泥の中でもがくように蠢く。このままじゃ追いつかれる。滄史は勢いよく手のひらを下に突き出して、グンッと身体を押し上げた。
何度も同じ動作を繰り返し3回目でようやく身体が浮き上がる。
ジェット噴射のように身体が宙へと飛び上がり、滄史は空中でもがきながら顔のない女性から逃げ惑う。
顔のない女性――『ポリエステルの火鍋』は滄史が高校生の頃に出会った女性だった。
同人活動中に書いた小説が『ポリエステルの火鍋』こと通称ポリ鍋に見つかり、彼女が所属しているコミュニティへ誘われたのだ。
当時高校生だった滄史は、周りが年上ばかりの環境に委縮して、ボイスチャットでも聞き専だったのだが、周囲からチヤホヤされたこともあり、徐々に警戒心を薄くしていった。
今思うとあまりにも粗削りな小説ばかりだったが、文章の熱量とフレッシュさが功を奏したようで、彼女はしょっちゅう滄史の小説を褒めてさらにSNSで喧伝してくれたのだ。
だがそれも過去のこと、過ぎ去りし思い出だ。今の滄史には関係ない。
思い出に囚われるわけにはいかない。とにかく滄史は粘性の強い空気の中でもがくようにはばたく。
それでも夢の中の飛行は永遠ではない。抗いようのないなにかに捕まり、徐々に高度が落ちていく。
どれだけ抵抗しても意味はない。地面が近づいて、墜落する――と思ったら、次の瞬間には賃貸マンションの自室にいた。
いつもの作業スペース。誰もいない空間に突然放り出され、滄史は目の前にあるパソコンと向き合う。
直視したくない過去から逃げきった今ならなにか書けそうな気がする。
グッと椅子から身を乗り出して――パソコンの横にマグカップがあることに気づいた。
湯気がたっている。滄史は自然な流れでそれを手に取り、ズッと啜る。
『あれ?』
コーヒーだと思ったら酒だった。酒の味がしたわけじゃないけれど、見れば見るほど酒だ。酒にしか見えない。
『さっきまでコーヒーだったのに』
呟いてまた啜る。やはり入っているのは酒だ。
「もう少しだけ、飲みませんか? 滄史さん」
聴こえてきた声に驚いて振り向くと、そこにはバニーガール姿の光矢がいた。
彼女もまた酒が入ったグラスを持っていて、こちらへ微笑みかけてくる。
「飲みましょう、滄史さん」
跳ねるような声で光矢が酒を勧めてくる。滄史は何も言わずそれを受け取り、ガッと一気に飲み干した。