靴をサッと脱いで、ぺたぺたと廊下を歩く。やはり中はところどころリノベーションされているようで、小綺麗になっている。
とはいえ匂いはあまり変わっていない。実家の匂いだ。
「じゃあなに、あんた今小説家なの?」
母だけがリビング前のキッチンに入り、滄史はそのまま歩いてリビングに入る。
食卓用の古びた長テーブルはいつの間にか新品になっていて、ソファもテレビも買い替えられていた。
とりあえずパソコンと財布が入ってるだけのリュックを床に置いてソファに座る。
グググっと深く沈み込む。前のソファとは座り心地が段違いだ。
「一応ね、ギリギリ食べてはいけるくらいだけど」
「夢の印税生活なんじゃないの?」
朗らかな母の声がキッチンから聴こえてくる。
滄史は今の吹けば飛ぶような1K賃貸マンションでの暮らしを思い出し、へっと短く息を飛ばした。
「思ってたより難しいよ。生きるって」
「なにー? なんか言った?」
「いや、なんでもない」
キッチンへ視線をやると母が背中を向けて冷蔵庫の中を物色していた。記憶よりもなんだか小さくなった気がする。
「しばらくこっちにいるの?」
母がキッチン越しに声を飛ばしてくる。答えようとしたところで冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出し、ガラガラとグラスに氷を入れはじめた。
作業が終わって静かになったところで、滄史は「たぶん、そうなる」と答える。
「別に東京じゃなきゃできない仕事じゃないし。うん、3日4日……1週間くらいはいるかも」
「あらそう。あんたの部屋牧緒が使ってるから今客間しかないよ」
「え? そう……そうなんだ」
「大志の、お兄ちゃんの部屋片付けようか?」
「いや、いいよ。うん、大丈夫」
おそらく数日間しか滞在しないというのにわざわざ部屋を片付けてもらうわけにもいかないだろう。滄史は母からの提案を断り、ソファのひじ掛けに頬杖をついた。
かつて滄史が使っていた部屋は今弟の牧緒が使っているらしい。滄史がこの島を出たときは14歳だった。もうすっかり大人になっているだろう。
「でもどうしたの急に帰ってきて。今まで帰ってくるどころか連絡だって寄越さなかったのに」
アイスコーヒーが入ったグラスを2つ、母が持ってくる。滄史の前に出されたので「飲んでいいの?」と訊くと、母は滄史の前を跨ぎながら「いいでしょ」と答えた。
「ちょっと色々あって。向こうにいたくなくなった」
「やだ、なにそれ。借金でもした?」
「いや、そういうトラブルではないよ。普通に、なんていうか気持ちの問題」
とりあえずアイスコーヒーを一口飲んでみる。東京のカフェ『夜光猫』とは違う、飲み慣れてない味だ。
「そう、女の子にフラれたの?」
「……まさか」
思わずへッと笑ってしまう滄史。言えるわけがなかった。好きな女性がいて、彼女のことで頭がいっぱいになって小説が書けないなんて。
「そういえばさっきの子供って、どこの子なの?」
これ以上探られるとボロが出そうなので、滄史は話題を変えることにした。
先ほど滄史を出迎えてくれた小さな女の子。今はリビングにいないがどこかから物音が聴こえている。
「
「冗談でしょ。怖がられて終わりだよ。今何歳なの、3歳くらい?」
「4歳、陽月の子にしちゃ静かだし活発だよ。旦那の血が濃いんだろうね」
「……そうなんですか」
静かで活発というのはどうにも矛盾しているような気もするが、滄史は流すことにした。
そもそも姉が結婚していることすら知らなかった。当然旦那にも会ったことない。ゆえに血の濃さの話にはなにも言及できない。
「もしかして隣の家って姉さんが住んでたりする?」
家へ入る前に見つけた一軒家について滄史は訊ねてみる。滄史の実家と隣接というかほぼくっついている家、ああいうのも二世帯住宅というのだろうかと、ぼんやりと思う。
「ううん、あれは大志の家。お父さんの知り合いに頼んで建ててもらったの」
「あー大志さんの……」
久我峰家の長男である大志は滄史とは七歳差の兄弟だ。間に1人の兄と1人の姉がいて、三男である滄史の下には1人の弟がいる。
大志が結婚しているのは知っている。そもそもまだ滄史がこの島にいた頃、17歳のときの話だ。
「あっ、お父さんから返事きた。やだ『生きてたのか!』だって」
滄史が兄弟達の顔を思い出していると、母が笑い交じりに言ってスマホの画面を見せてくる。
確かに言っていて、その後になにかのマスコットらしき犬がひっくり返って驚いているスタンプを送ってきた。
「死んだと思われてたのか」
「そりゃ何年も会ってないし連絡もないから。お父さんも心配してたんだからね」
「それはなんていうか……まぁ、そっか」
上手く言葉が出てこなくて、滄史はさらにソファへ身を沈める。
滄史の父はひょうきんな人だった。子煩悩で豪快とまではいかないが大雑把な人で、優しいけど怒らせると怖くて、滄史達兄弟は表面的には母を怒らせないよう振舞っていたが、本当の意味で怒らせないようにしていたのは父だったかもしれない。
「なんていうか、家族の話とかするとなんか実家に帰ってきたんだなって思うな……」
天井を見上げながら滄史はぼやく。また一口コーヒーを飲むが、やっぱり飲み慣れなかった。無理もない。大体実家にいた頃はコーヒーなんて飲んでなかったのだから。