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4-9

 結局話も思い浮かばず、原稿も進まず、ただセンチメンタルな気分になっただけだった。

 もう夕方だ。蒸し暑さは中々なくならないが、陽の光は段々と弱くなってきている。

 今のうちに帰らなければ真っ暗な道を歩くことになるし、近所の人からは1人で出歩いている不審な男がいると通報されてしまう。

 滄史はなるべく人に会わないよう注意しながら帰路をあゆみ、遠回りをして家に着いた。

 滄史の実家もその隣の兄夫婦の家もすでに照明がついていて、かすかに生活の音が聴こえてくる。

 一人暮らしをしていたせいでもうずいぶんと聴いていない音だ。沈んでいた気分がさらに深くへと落ち込む。

 帰ったらすぐに仮の住まいである客間に逃げ込もう。滄史はすぐにそう決断し、玄関の扉を開いた。

 ガヤガヤとなんだか騒がしい。視線を下にやると出掛けた時よりも靴が増えている。

 親戚か知り合いでも来ているのだろうか。滄史は靴を脱ぎながらぼんやりと考え、居間に視線をやった。

 部屋の中からは明るめの照明が漏れて、男性の声と女性の笑い声が聴こえてくる。なにか嫌な予感を感じ取り、滄史はそそくさと客間へと逃げ込む――前に、足を止めた。

 廊下のど真ん中、客間の前で姉の子供が遊んでいるのだ。ペタンっと床に座り、小さなボールや色付きのホースを繋げては振り回して遊んでいる。

 あれでは客間に入れない。強引に通ろうと思えば通れるが、あまり得策ではない。

 かといって居間には行きたくない。絶対顔も名前も知らない親戚の人がそこにいて、滄史は雑に紹介されるだけだ。

 とにかくどこでもいいから逃げなくては。滄史はチラッと玄関あがってすぐ横にある階段を見る。上は子供たちが使っている部屋で、滄史もかつては2階で暮らしていた。

 滄史の弟である牧緒もきっと部屋にいるはずだ。ひとまずそこへ避難するしかない。

「あっ、知らないおじちゃんかえってきた」

 2階へ上がろうとしたところで、床に座り込んで遊んでいた姪っ子が顔をあげて言った。

 知らないおじちゃん。そう言われてしまったらそうとしか言いようがないのだが、それにしたってあんまりな呼び方だ。

 3歳児の無遠慮さに滄史が固まっていると、姪っ子はすくっと立ち上がり、今の方へと入っていった。

「おばあちゃん、知らないおじちゃんかえってきた」

 居間から姪っ子の報告が聴こえてくる。まずいと思ったときにはもう遅い。居間のふすまが開かれて母が現れる。

「あぁ、滄史。おかえり。あんたどこ行ってたの」

「いや別に、そこら辺をぶらぶらしてたというか。ただ歩いてただけなんだけど」

「なにそれ。ほらお客さん来てるんだから。早くこっち来なさい」

 母がパタパタと手招きをする。昔なら渋々行くところだが、滄史はもう大人だ。ここは丁重にお断りしなければならない。

「お客さんって、別に僕の客じゃないでしょ。わざわざ知らない人同士で挨拶しなくても」

「なにいってるの。あんたのお客さんなんだから。ほら、早く」

「……僕の?」

 なんとも信じがたいことを言われ、滄史は首をかしげる。

 重ねての説明になるが、滄史には友達がいない。中学生、高校生の頃は数人程度いたが、島を出て以来疎遠となってしまった。

 無論東京にもいない。そしてこっちへ帰ってきてからは知り合いには――1人しか会っていない。

 一体だれが滄史を訪ねてきたというのだろう。ぽりぽりとうなじを掻いて、廊下を歩き、荷物を持ったまま居間へと入った。

「おっ、滄史。帰ってきたか」

 居間には父がいた。まだ夕飯も食べていないのにお酒を飲んでいるようで、どこか楽し気だ。

「滄史~あんたどこでなにしてたの? 連絡したのに」

 酒が入ったグラスを片手に姉がくだを巻いてくる。

 そして2人の向かい側、テーブルを挟んだ手前側には滄史の『お客さん』が座っていた。

「お邪魔してるよ滄史。いいとこじゃないか。景色が良くて空気が澄んでいる。なにより美人が多い」

 いつものさわやかな笑みを浮かべ、担当編集である安達行平が滄史を見上げてくる。

 彼の美人が多いという発言に向かい側の姉が「やだぁ、もうっ」なんて言ってケタケタと笑う。

 なぜここに安達が。一瞬で、滄史の頭の中が真っ白になる。

 確かに、安達には故郷のことは話してはいる。しかし詳しい場所は話していない。一体どうやってここを突き止めたのだろう。

 いや、この際場所を突き止められたことはいいだろう。問題はなぜここに安達がいるのかということだ。

 原稿の締め切りはまだ先だ。それに来たとしても連絡がくる程度で、直接会いに来るなんて、これまで一度もなかった。

 だとしたらなんの理由で――突然の訪問に固まっていると、安達の視線が滄史から別のところへ移ったことに気づく。

 安達の隣、滄史が立っている場所から一番近くの場所だ。

「滄史さん」

 柔らかい声が滄史の鼓膜を優しく震わせる。

「よかった。思ってたより元気そう」

 彼女が滄史を見上げ、ふわりと微笑む。

 忘れるわけがない。夢にまでみた笑顔だ。

 吸い込まれそうな大きな瞳と目が合う。どこにいても輝いている彼女のその目には、固まっている滄史の姿が映っている。

「……光矢、さん?」

 幻影などではない。そこにいたのはまぎれもなく光矢だった。

 さすがにバニーガールの格好はしていなかったけど、それでもその美貌と声ですぐに分かる。間違いなく彼女だ。

「滄史さん、私――」

 その瞬間、滄史は勢いよく踵を返して逃げ出した。

 その先の言葉を聞きたくなくて、光矢の元から全力で離れる。

「ちょっと! 滄史!」

 母が呼び止めるのも無視して走り、玄関を飛び出す。

 庭にある家族の誰かの自転車をひっつかんで引っ張り出し、跳ねるように飛び乗る。

「滄史さん!」

 光矢の声が聴こえる。他にも何人かが滄史を呼んだ気がしたが、すべて振り払って自転車で夜道へと飛び出した。

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