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4-10

 うすぼんやりとした外灯がある道を駆ける。ガシャガシャ、ガシャガシャとペダルをかき回す。

 ひとつ道を逸れるだけで獣道がその姿を現し、蒸し暑い空気と生温かい風が通り過ぎていく。

「なんで、なんでなんでなんで――」

 ひたすらに疑問の言葉を繰り返しながら、滄史は夜を駆ける。

 後のことなんて全く考えていない全力疾走。いや、全力での逃亡。ペダルを回す足を止めたら死んでしまうとばかりに、ひたすら足を動かす。

「なんでなんだよ! なんでなんだよ!」

 安達だけならどうにかなったかもしれない。むしろ彼ならば、ここに帰ってきた理由を素直に話せば協力してくれたかも。

 だけど光矢はだめだ。彼女を思い出して、彼女のことを想って、なにも手につかなくなる自分でいたくないから離れたというのに。帰りたくなかった故郷へ帰ったというのに。

 光矢が来てしまったら全てが台無しだ。どうにかして忘れようとしていたのに。

 あのひとこと。名前を呼んでくれただけで乾いていた心が潤っていくのを感じた。

 あのまなざし。一瞬目が合っただけで、ぼんやりとしていた彼女の輪郭がくっきりと縁取られた。今もあの笑顔が忘れられない。

 まさかここまでくるとは。あんなに生まれ育った町を出ることを怖がっていたというのに、こんな僻地までやってくるなんて。

 安達も同じだ。おおかた滄史と連絡がとれないと光矢に言われ、独自に調べて居場所を突き止めたのだろう。

 何人もの作家を受け持っているというのに、よりによってどうしてこんな十把一絡げの投資の見込みがない男をわざわざ探したというのか。

「なんで誰も! 誰も……放っておいてくれないんだよ……」

 頬に伝ったのが汗なのか涙なのか滄史には判別がつかなかった。

 あまりにもわがままな言葉だった。ひとりになりたいと、ただひとことそう言えばひとりになれたかもしれないのに、何も言わず行方を晦ました男の吐く言葉ではない。

 それでも滄史は吐き出さずにはいられなかった。そうやってありとあらゆることから逃げないと、行き詰まってしまいそうだった。

 だが、残念ながらもう逃げられない。

 今すぐこの場から離れて、光矢を振り切ることなどできない。そもそもここは本土から離れた島だ。どれだけ自転車を走らせても、どこかで止まってしまうか、元の場所に戻ってきてしまう。

 ゆえに、この逃走は意味がない。それでも滄史は向き合うことなどできず、ただ情けなく走ることしかできない。

 ガシャガシャ、ガシャガシャとペダルをかき回す。

 いつの間にか獣道を抜け出して、海沿いの道路を走っていた。

 左には林が生い茂り、右には古びたガードレール、さらにその先には真っ黒な夜の海が広がっている。

 どこまで走ってもこれだ。滄史は子供のころから変わっていない景色に苛立ち、ペダルを踏む足に力がこもっていく。

 久我峰滄史はこの世界のなにもかもが嫌いだった。この世界はいとも簡単に自分という存在の矮小さが浮き彫りになる。

 雄大な自然も、広大な海も、おおらかな人々も、出来のいい兄や姉も、素直な弟も、厳しくも優しい両親も、自分を受け入れてくれた友人も――全部、嫌で仕方がなかった。

 でもなにより嫌いだったのは自分だ。運動も勉強もできなくて、得意なことなんてなくて、小説を読むことしかできない。

 だから滄史は早く島から出たかった。都会の雑踏に溶けて何者でもない自分になりたかった。

 掃いて捨てるほどの人の中に入ってしまえば、自分の能力の低さは目立たない。気にすることなんてない。

 だから友達も作らなかった。作れなかったのもあるが、それ以上に誰かの特別になんてなりたくなかった。

 誰にも知られず生きて、誰にも知られず死んで――

「そうやって割り切らないと! アタマん中おかしくッツ――だあっ!?」

 カーブを曲がってさらにスピードをあげた瞬間、左側の林からなにかが飛び出してきた。

 自転車のライトに照らされてその姿が浮き彫りになる。縞模様の茶色い毛、らんらんと光る縦長の瞳が滄史の姿を捉える。

 野生動物だ。滄史は咄嗟にハンドルのブレーキを握り、スピードを落とした。

 ギギギギギギィッとタイヤが擦れる音がつんざき、自転車が不自然な挙動をとる。

 グインッとなんとか野生動物を躱す。しかし急ブレーキのせいで滄史の自転車は制御不能に陥り、走りながらも倒れようとした。

「うわぁっ!」

 力の限りハンドルを握って車体を起こす。なんとか転ばずには済んだがそのせいで再びバランスを崩す。

 すでに止まることができない自転車は勢いそのままガードレールに正面から激突した。

 一瞬の静寂。滄史の身体はあっけなく吹き飛び、自転車よりも前へ、真っ暗な海へと落ちていく。

「これだめだ。死んだわ」

 揺れ動く視界の中で、滄史は夜の闇に向かって呟いた。

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