25メートルをギリギリ泳げきることができる。なんて話を以前、専門学校で話したことがある。
みんな「意外だ」と口を揃えていった。島で育ったからと言って泳ぎが得意なわけじゃないと反論すると、やはりみんななんとも言えない表情した。
そう、滄史は泳ぎが得意じゃない。2人の兄と姉、そして弟は普通以上に泳げる。
その事実がまた、滄史の自尊心をあざだらけにした。
とはいえ、いくら泳ぎが得意だとしても、自転車から放り出されてそれなりの高さから海に落ちてすぐ冷静になれる人間がどれだけいるだろうか。
もちろん、滄史は冷静になんてなれない。
だけど、慌てふためき混乱することもない。
『どっちが海面なのか分かんないな』
真っ暗な海の中で滄史はのんきに思う。
視界はぼやけて不鮮明な上に暗い、幸いなことに流れはそれほど激しくないが、だからといってどうにかなるとは思えない。
そもそも、どうにかする気もない。さっきまで燃えてしまいそうなほど熱かった身体が海に落ちたことでどんどん冷たくなっていくが、それでいいと思った。
これで終わりだ。久我峰滄史はこうやって終わるのが相応しい。
小説が未完成なのは悔やむところだが、それも些細なことだ。
死んだらなにも残らないのだから、気にすることなんてない。
『小説……小説か。どうして僕は小説を書こうと思ったんだろう。何者にもなりたくないって思ってたはずなのに、どうして小説を書いて、何者かになりたかったんだ』
薄れていく意識の中で、滄史はぼんやりと考える。
『久我峰滄史が書く小説にはなにかを訴えてくるようなパワーを持っている。作者もまた、小説の力で誰かの心を動かしたいんじゃないのか』
かつて同人活動をしていたときに知り合った同好の士から言われたことだ。呑みの席での突然の問いかけに滄史は「そうなったらいいですよねぇ」なんて適当に答えた。
でも本当は違う。滄史はそんなロマンチストではない。
そうだ、小説を書こうと思ったことだってもっと些細なことだ。何者かになりたいだなんて、そんな大それたコト、思いつきもしなかった。
むしろ逆だった。滄史はただ、小説を書くことで何者でもない自分になりたかったのだ。
『そうか、僕はずっと――』
なにかが分かりかけたその瞬間、滄史の視界の奥でなにかが輝いた。
暗い海の中で、キラキラと輝く2つの光。それまでずっと無気力で流れに身を任せるだけだった滄史が、なんとなく気まぐれにその光へと手を伸ばす。
2つの光が近づいてくる。徐々に、ゆっくりと、薄れていく意識の中で光がすぐ近くまで来て、滄史の手を掴み取った。
『……光矢さん?』
キラキラと輝く大きな瞳。暗闇の中でもその存在を主張する両目は、滄史を捉えて離さない。
黒い髪がふわりと揺れて、滄史の顔の周りを漂う。なぜここに彼女がいるのか疑問を抱いたところで、グッと身体が動き出す。
瞳の中で輝く光と共に、滄史は暗黒の世界から浮上していく。上へ、上へ、引っ張られるように引き上げられ、視界が開けると同時に意識を失った。