波の音が聴こえる。
水中で揺蕩う感覚はなくなっていて、今は妙な倦怠感だけ。
「滄史さん!」
光矢の声が聴こえる。滄史はゆっくりと目を開けると、満天の星空とそれ以上に輝く瞳に意識が吸い込まれる。
なにがなんだか分からない。今更になって心が痛みと苦しみを認識し、頭痛と鈍痛、叩きつけるような息苦しさに見舞われた。
「ゴホッ! ゴホッゴホッ! ガハッ!」
何度も咳を繰り返す滄史。もがくように動いてうつ伏せになり、また倒れ込む。
柔らかくて蒸し暑い感触。身体を支えるためについた手が沈んでいき、今自分は砂浜にいるのだと自覚した。
「ゴホッゴホッ! ガハッ! ゴハッ!」
滄史はなんとか四つん這いになり、砂浜に咳をする。少し水を飲んでしまったのか、口の中の塩辛い感触が残っている。
このままではまずい。滄史は自分で自分の胸や腹を叩き、同時に咳をして残っている海水を吐き出す。
「ウッ、オェッ! ゴボッ!」
不快な感覚が駆け巡り、同時に海水を吐き出した。喉が焼けるように熱くなり、滄史はまた何度か咳をしたあと、どうにかその場に座り込み顔をあげた。
すぐ近くに光矢がいる。長い黒髪を身体に貼り付けて俯いている。長いまつげから、シャープなフェイスラインから、ポタポタと雫が落ちて砂浜を濡らしている。
「……光矢、さん」
おそるおそる、彼女を呼ぶ。するとすぐに光矢は顔をあげ、滄史を見つめてきた。
キラキラと輝く大きな瞳には夜の海が映り込んでいる。滄史が生きていることを認識すると、彼女はキッと険しい表情を見せた。
「滄史さん!」
光矢の甲高い大声が海岸に響く。滄史がビクッとした次の瞬間には、彼女はもう目の前にいて――パァンッと頬をはたかれた。
鋭い痛みは突き抜けることなく、ズキズキと左頬に留まる。
あまりの勢いに滄史はなにも抵抗することができず、そのまま横にパタンと倒れこむ。
どうしていきなり叩いてきたのか。理由はなんとなく分かるような気がするのだが、いかんせん今は頭がしっかり回っていない。渦巻く気持ちを上手く言語化することができず、滄史はただただ呆ける――と思ったら、グイっと身体が起こされた。
光矢が滄史の両肩を掴み、睨んでくる。濡れているといつもより幼い顔立ちに見えて、これはこれでかわいいと、滄史はズレた感想を抱く。
彼女は怒っているのだろう。ずっと逃げ続けている滄史に。
この感じだともう1発いかれるかも。真剣な表情の光矢を見て、滄史は平手打ちを受け入れるように目を閉じる。
だが、2発目の衝撃はどれだけ待ってもやってこない。おかしいと思って目を開けると、光矢が肩に置いていた手を背中へと回し、ギュッと縋るように抱き着いてきた。
ゆっくりとぬくもりが伝わってくる。互いに濡れて冷たいはずなのに、身体がどんどん熱くなっていく。
「あの……光矢さん?」
「私のママは、13歳のときにいなくなりました」
滄史の呼びかけを無視して、光矢が語りだす。
抱き着いたまま話すので、耳元で声が聴こえてくるどころか、吐息すらも感じてしまう。
「ママは誰にも縛られたくない人だったの。お店にも、私にも、パパにも。だからパパから逃げて、あのお店に逃げ込んだ」
光矢が語る度に、滄史の身体を抱きしめる力が強くなる。
爪を立てて、強い力で滄史の背中を引き寄せる。もうどこにもいかないように。
「でも私が13歳になったとき、パパがお店にやってきた。ママは裏口から逃げて、パパが追いかけて、私も追いかけて、ママは近くの川に飛び込んだ」
光矢の力がゆるむ。滄史はゆっくりと彼女の背中から腕を離す。
月の光だけが射し込む砂浜で、光矢は泣いていた。ポロポロと涙を流していた。
「ママはいなくなった。川に飛び込んだのに、どこにもいなくて、行方不明になった。私は、それまでずっとママと一緒だったのに、切り離されたの」
町を離れることができないと言っていた光矢。それはたた単純に怖いからではない。あの町は母親との繋がりだったのだ。母を忘れてしまうのが嫌だから、離れたくなかったのかもしれない。
「私はママで、ママは私だったの。どこに行くのも、なにをするのも一緒で、それなのに……いなくなって。私はなにもなくなった」
話を聞きながらも、滄史は以前の光矢の部屋を思い出した。
なにもないまっさらなリビング。生活感がまるでない空間。彼女は本当になにも分からなかったのだ。
母親とずっとあの店で育ち、暮らしてきたから。ひとりで普通の暮らしなんてできっこなかった。
「滄史さんもいなくなるの?」
涙声で光矢が訊ねてくる。
まるで小さな子供のようだった。いや、本当は、彼女はまだ子供なのかもしれない。
13歳のときに、母を失ったと言っていた。そしてなにもなくなったとも。
光矢という女性はそこから自分の人生が始まったのだ。
「滄史さんも、私を置いていなくなるの? 私を外に連れ出してくれたのは滄史さんだったのに、結局、いなくなっちゃうの? そんなの、やだ。やだぁ」
瞳を揺らしながら滄史の手を握り、切なそうに首を振る光矢。彼女がわざわざここまでやってきたその意味を今更理解して、滄史は思わず顔を伏せる。
プルプルと震えている光矢の手を握り返し、フッと自嘲した。
「僕は逃げたかったんです。僕を追い立てる全てのものから、逃げてしまいたかった」
だから悪いのはあなたじゃない。そう付け加えて顔をあげる。
まだ泣いている光矢を見て、滄史は肩をすくめた。
「実家に帰ってきたのもそれが理由です。目の前の問題から逃げたかったから」
「私のことが……嫌いになったからじゃないんですか?」
「そんなわけない。むしろ好きだから、一緒にいたら書けなくなるって思ったんです。どんなときでも、あなたのことを考えてしまうから」
滄史の正直な告白に、光矢は目を丸くして驚く。そしてすぐに顔を赤くして、しきりに手を握り返す。
「僕は不器用で要領が悪いから、恋愛をしながら小説を書くことなんてできないんです。どっちかひとつを選ばなければいけない」
「滄史さんは、小説を選んだんですね」
「……それは」
言葉を濁した滄史に光矢は小首をかしげて滄史を覗き込む。
すると滄史は穏やかな表情を浮かべ、フフッとまた自嘲した。
「僕にとって、逃げることは生きることで、生きることは、小説を書くことなんです。昔は違ったはずなのに、いつの間にか、そうなってしまった」
久我峰滄史は生まれ育ったこの島が嫌いだった。ここから逃げ出したかったけど、滄史はなにも持っていなかったから小説を書くことにした。小説の世界ならば、簡単に逃げることができたから。
そして中学生のころ、滄史は初恋の相手にあっさりとフラれた。そのときの傷を癒すために、その傷とまともに向き合うこともせず小説へ逃げた。
かすかな恋心を抱いていた『彼女』が結婚報告をしたときも小説へ逃げた。現実を直視しないために、逃げ続けたのだ。
それからはもうずっと逃げっぱなし。どこかで小説家になるのを諦めて何者かになることだってできたのに、滄史は金にならない物語を書いて、安達に助けてもらいながら小説を書き続けていた。
「でも死んだらそこで終わりだ。逃げ切ったら僕はきっと小説を書くことができない」
久我峰滄史にとって、生きることは逃げることだ。そして、逃げることは小説を書くことに繋がる。
不思議なもの見るように、光矢が小首をかしげて覗き込む。
滄史は彼女の手を握り返して、力なく笑った。
「光矢さん、僕と僕の小説を助けてくれてありがとう」
随分タイミングがズレたお礼の言葉に、光矢がクスッと笑う。
そして、繋いでいた手を離して、再びギュッと抱き着いてきた。
「私も、滄史さんがここにいてくれて良かった。見つけられて良かった。それがすごく嬉しい」