僕は、三日三晩、森の中をさまよい続けていた。
魔物を殺すためだ。
魔物を殺せば、その「存在」が体内に流れ込み、吸収される。
それはただの血や肉ではない。意志も、記憶も、怒りも……魔そのものが、僕の中に染み込んでくる。
吸収された力は、僕という器の中で溶け合い、やがて “進化” へと繋がる。
だが――
グールという存在は、人間とは決定的に異なっていた。
人間には「リミッター」がある。
どんなに強い想いで力を振り絞っても、身体が壊れないように、本能が無意識にブレーキをかける。
だけど、僕にはそれがない。
一度死んだ身体に、守るべき限界など存在しない。
筋繊維が裂けても、骨が粉々になっても、皮膚が剥がれても――
それでも拳は振るえる。
限界を超えた “怪物の力” で、敵を屠ることができる。
ただし、グールにも明確な欠点がある。
それは――「遅さ」だ。
足は鈍く、身のこなしは鈍重。
どれだけ強い腕力を誇っても、俊敏さに欠けるその身は、アンデッドの中でも最下層。
しかし、もし「
屍鬼は、吸血鬼の配下として生まれることが多く、速度と力を兼ね備えた戦闘種。
その存在は、もうただの屍ではない。
だが――
その進化には、代償 がある。
進化の際、以前の特性は全て失われる。
積み重ねてきた力も、感情も、記憶すらも……「喰った者の記憶」が上書きされていく。
少しずつ、僕が「僕」でなくなっていく――
⸻
(……怖い)
喉が焼けつくような、乾いた震えが走る。
(僕が……本当にグールになったなんて、信じられない)
目を閉じると、浮かんでくる。
かつて夢見た、真っ直ぐで、清らかな未来。
――『光滅騎士団』に入って、剣を手に、人々を救う英雄になること。
小さな街の病室の中で、何度も母にせがんだあの物語の、光の騎士たちのように。
それが僕の夢だった。
それなのに――
(もう……戦いたくない)
⸻
そのときだった。
ガサ……
目の前の茂みが、嫌な音を立てた。
空気が変わる。
濃く、濁った気配が流れ込んでくる。
(……来た)
四足の獣型魔物が、茂みの奥から現れた。
鋭い牙、泥のように濁った赤い瞳。
口元には血の痕……いや、今まさに狩りをしようという表情だった。
狙いは、僕だ。
(……もう嫌だ。戦いたくなんて、ない)
だけど、僕の体は勝手に動く。
あの老人の命令が、脳に焼き付けられている。
僕の意志など、関係ない。
⸻
(認めたくない。認めたくない……!)
(僕が、グールだなんて……絶対に、認めない!!)
⸻
魔物が飛びかかってくる。
その巨体が、まるで獣の弾丸のように迫る――
避けることはできない。
グールの鈍い足では、回避は不可能だった。
僕は、本能的に両腕を構え――魔物の突撃を、真正面から受け止めた。
「ドンッ!!」
骨が軋む音。
腕の内側で何かが折れた感覚。
だが、それでも止まらない。
――拳が、動く。
魔物の腹部に、渾身の一撃を叩き込んだ。
「バギン!!」
手応えはあった。
『く』の字に折れた魔物の体が、奥の木にぶつかって地面に崩れ落ちる。
しかし――まだ、生きている。
⸻
僕は、ゆっくりと魔物へと近づいていく。
(……嫌だ)
足が、震えている。
(もう、殺したくない……)
けれど――拳は、もう振り上がっていた。
(やめろ……やめろ……!)
それなのに――
やめろ……ッ!
声にならない声が、喉を震わせた。
だが、拳は振り下ろされる。
バゴン!!
魔物の骨が砕ける音が、腕を通して伝わってくる。
(嫌だ)
バゴン!!
さらに一撃。肉が潰れ、骨が沈む。
(嫌だ……もうやめて……)
バゴン……ネチュ……
肉が裂け、血が飛び散る。
グールには、涙腺がない。
だから泣けない。
代わりに、喉から濁った唸り声が漏れた。
「ウゥ……ウゥ……」
叫びでも、泣き声でもない。
ただ、魂が軋むような――呻き。
⸻
だけど、それでも――僕の体は止まらなかった。
魔物の命が完全に絶えるまで、拳は何度も何度も、振り下ろされた。
そして――
その瞬間、僕の中に「何か」が流れ込んできた。
魔物の“存在”が、僕の中に染み渡っていく。
骨の隙間、神経の末端、死した血管にすら絡みつくように。
冷たい氷水のような感覚と、灼けつくような熱が、同時に僕を満たしていく。
それは進化の兆しだった。
けれど、僕にはその変化を噛み締める余裕すらなかった。
なぜなら――
僕の体は、すでに次の“獲物”を探して、また歩き出していたからだ。
……まるで、意思など初めからなかったかのように。